お休みどころ

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寺井治夫さんの資料を読む 2017年11月4日(土)

  寺井治夫さんは僕が高校の時に国語を教わった先生です。教科書ではなく先生自身がプリントで作った教材で授業されるのが印象的で、しかもそのプリント類を1年の終わりに冊子に製本するのでした。教材だけでなく自分が書いた作文類もあわせてとじられます。そうすると「どんな授業を受けたのか」の記録だけでなく、「どんなことを考えてそのとき生きていたのか」の記録にもなるのです。僕にとってはいまでも大事なもので、本棚の中に入っています。
  寺井さんの表情は柔和で、会話もゆったりした穏やかなものでした。でも内面には鋭いものを持っておられ、時代への批判精神のようなものが授業の根底にありました。そこが寺井さんの苦しみのもとでもあり、進学校で効率的な受験対策を求められるなかにあって、どれだけ個人的な色彩を出せるかを悩まれているように見えました。実際に保護者の意見は二分されていたようで、寺井さんの全人的な教育を歓迎する立場と批判する立場とがあったようです。
  僕個人に関しては、寺井さんは高校を超えた人生の恩師です。寺井さんが高校1年の夏に学習サークル「論楽社」に連れて行ってくださったことが、僕の生き方を大きく変えることになりました。その後もときどきではありますが、寺井さんとはお会いしたり手紙をやり取りしたりしていまに至っています。「学校の教師」だけではなく「人生に影響を与える人」でもあるような先生に出会えることは、とても幸運なことだと思います。
  その寺井さんも教員を引退され、自宅で過ごされているそうです。寺井さんのことを考えるとき、僕には教員としての姿しか思い浮かびません。引退されるのはさぞ辛いことであっただろうと想像されます。ですがやはり教員魂の虫が騒ぐのでしょう。寺井さんは自分の教育実践についてのレポートをまとめられたそうです。それを僕のところに送ってくださいました。
  僕は届いてすぐに一部は読んだのですが、なぜかそのまま仕事かばんの中にしまっていました。寺井さんの手紙の日付は2016年6月29日ですから、もう1年4カ月が経ちます。この間僕は忙しすぎる時間を送ってきましたが、最近自分の限界以上には仕事を入れないように努力しています。成果が出たのか少し時間ができましたので、もう一度寺井さんの資料を読んでみることにしました。
  教員の研修会での発表のために作られた資料は2部あり、それぞれタイトルは「まねることから学ぶ」「読むことと書くこと」です。どんな思いで教材を選び、課題を設定し、それに対してどんな文章や詩を書いて生徒たちが応答したか、という記録になっています。
  これを読んでまず感じるのは、寺井さんは生徒たちの書いた言葉を宝物のように感じておられるのだなぁということです。生徒の作文というのは優れたものももちろんありますが、退屈なものも多いです。「ただ先生が設定したから書いただけ」といった香りのプンプンするものなど、僕にとっては読むのが面倒になります。ところが寺井さんは飽きることなくどこまでもていねいにそれをたどっていかれるのです。その生徒が自分の限界のどこに挑んだのか? どんな気持ちで授業を受けているのか? 成長の過程のなかでどんな葛藤を抱えているのか? たとえつまらない短い文章であっても、その生徒の実存的な叫びとしても読めるはずです。そこに寄り添って耳を澄ませることが寺井さんの生きがいであると感じました。僕にはとうていできないことです。
  同じことかもしれませんが、読み味わうということと、書き表すということを、寺井さんはとても大切に考えておられるのだとも感じました。人間の思考・感情・行動にはいろいろありますが、言葉での受け取りと発信に注目して人間育成をはかるのが国語教師のはずです。自分なりに考える力を持ち、読みながら評価したり、書きながら歩みを進めたりできることが、言葉を使いこなすことだと思いますが、寺井さんのアプローチはその目標に徹底しています。記号としての言葉の習得ではなく、生きたものとしての言葉を練り上げることです。それだけに客観化したり数値化したりすることになじまず、受験では扱われにくい部分なのだと思います。
  寺井さんの授業を受けているときには思いもよらないことでしたが、僕にとってはいまでも言葉は生きることと一体になっています。自分の現在地点を確認し、その先にわずかでも進むための手がかりを見つけることが、僕にとっての書くことです。高校生の僕にとっては数学や自然科学の言葉が真理でした。ですがいまでは言葉のなかで心情や思索や経験や出会いが科学的な客観性と混然と混じりあうことが理想になっています。
  人生の時期によって必要とする言葉の質は違ってくるのでしょう。寺井さんが提示しようとしていた理想すなわち「言葉を生きること」に、いまのほうが僕は惹かれています。幸いなことに、日々の仕事でも患者さんと会話して、その人固有の言葉を聞き取り書き記すことができます。結果的に「言葉で記録すること」が生きることの中心になってしまいました。
今後もコツコツと記録の作業を続けましょう。それにどんな意味があるのかはよくわかりません。ですがどんな小さな言葉であっても、「その時代背景のなかで、個人の精神が、どんなふうにもがいたか?」の記録にはなるのではないでしょうか。自分の限界や間違いを書き記すことのなかにこそ、真実が宿るのではないかと思っています。

 

写真1 寺井治夫さんからいただいた資料。

 

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