お休みどころ 2010年10月20日(水)
お休みどころにいる間、僕は夕方に犬たちの散歩に出かけます。日中のまだ暑い日射しを避け、かつ日が暮れてしまわない午後4〜5時ごろがちょうど都合がいいのです。以前は30分ほど山道を登った滝のところまでよく歩いていましたが、最近は犬のチビが年のせいか1ヶ所にとどまってやたら長く臭いをかいでいます。おまけにもう1匹のソラはすぐひっくり返っておなかを出し、さすってもらいたがります。そのためちょっと進んでは長く立ちどまり、また進んでは立ちどまるという具合で、あまり散歩がはかどらなくなりました。
9月18日もたいして進めず、まっすぐ歩けば10分ほどのところまで行って引き返してきました。帰ってきてからはバケツにためた犬たちの飲み水を換え、犬たちの体をぞうきんで拭き(臭い軽減と清潔のためです)、ウンコなどをしていればスコップで拾って家の裏手に播きに行きます。それらをすませてから犬たちにごはん(ドッグフードや残飯)を与えるのです。
その日、犬たちにごはんをやろうとしていると電話が鳴りました。僕は外仕事用の作業着を着て長靴をはいています。大抵は電話が鳴っても出ないのですが、やっぱりせっかくだからと思い、あわてて長靴を脱いで家のなかに入り電話に飛びついて出ました。
相手は見知らぬ女性です。「上島さんですか?」。「いいえ」と答えました。すかさず「お休みどころですか?」。「はい」と答えると、相手の女性は滑らかに話し始めました。
「私たちは茨木のり子さんと親しくて、彼女からお休みどころのことを何度も聞いていました。主人は林立人(たつんど)といい、のり子さんの詩の友人です。いま人吉にいるんです。住所を控えてくるのを忘れたけど、電話番号が携帯に入っていて、電話しました……。」
なんとその方たち(林立人・幸子(ゆきこ)夫妻)は茨木のり子さんの友人でした。ああ、懐かしい。のり子さん。久しぶりにその名を人の口から聞きました。故・茨木のり子さん(1926〜2006、詩人)はお休みどころの名付け親です。僕も生前3度お会いして、お話を聞かせていただいた方なのです。
故・上島聖好(うえじましょうこう)さんがお休みどころを作ろうと思いたったのは、茨木さんの詩「お休みどころ」を読んだのがきっかけでした。のり子さんは「責任感じちゃうわ」と言い、電話をくださったり肉まんや魚を送ってくださるなど、最後まで応援してくださいました。ただ、のり子さんの友人といった方からいままで連絡を受けたことはなく、のり子さんは他の人たちにはお休みどころのことを秘密にしておられたのだろうと思っていました。ですので林夫妻からの電話は大きな驚きでした。それも上島聖好さんの命日である10月29日(亡くなって丸3年になります)の10日ほど前です。これは絶対会わねばならぬと思いました。
話を聞いてみると林幸子さんは人吉の出身であり、お2人は人吉に住んでいる姉の西濱桂子さんのところに滞在しているそうです。「ぜひおいでください。もし時間がないようでしたら僕が人吉に行ってもいいです」と言ったのですが、よくよく聞いてみるとお2人は足がないようです。だけどお休みどころを見たいとおっしゃる。人吉からここまで車で1時間10分かかります。僕も運転をしないので、困ってしまいました。
そのときふっと思ったのが鶴上うしをさんのことです。このブログを読んでこられた方はご存知のように、うしをさんは人吉に住んでおられ、大変フットワークが軽く、人のお世話をするのが大好きで、しかも初対面の方ともすぐに打ちとけてしまう能力の持ち主です。うしをさんは産直グループ「だんだんなの会」の経理や配送などで忙しくされていますが、もし都合がよければ林夫妻を乗せてきてくださるかもしれません。さっそくうしをさんにメールしてみると、幸いにも翌日は空いているとのことです。それならぜひお願いしますとお伝えして、うしをさんが運転をしてくださることになりました。
せっかくなら皆で食事をいっしょにできればと思い、僕が愛用している水上村のレストラン「kitchen cafe だんだん」に電話してみました。ところが火曜日は定休日であり料理長の吉田和江さんがお留守とのことです。困ってしまい僕は水上村運営のレストラン「山の幸館」で食事をしてはどうかと思いましたが、うしをさんは「民宿『いろり』はどう?」とおっしゃいます。あれ? 民宿「いろり」は2、3年前にランチサービスをやめたはずです。それでもうしをさんが言うのだから一応電話してみようと思いしてみると、果たして民宿いろりの稲葉スガ子さんが「作ってあげるよ」と言います。うしをさんの勘は当たるのです。
こういうわけで翌日の19日、林立人・幸子夫妻、西濱桂子さん、鶴上うしをさんと5人で水上村周遊を楽しむことになりました。林立人さん(77)は物腰静かな紳士です。穏和でゆったりとした語り口から慈愛の気が漂います。対照的に妻の林幸子さんは活発な方で、会話のテンポは速く、両の目は好奇心にクルクル動いています。全身の感覚をフル活用して常に周囲の状況をつかもうとする。そういう方です。このお2人の組み合わせが鍵と鍵穴、ピッタリとおさまっていて、こちらをほっとさせたりおかしみを誘ったりするのです。
5人で民宿いろりに向かいました。その名のとおりの巨大ないろり(直径5メートルほどか)を囲み、おかみさんの稲葉スガ子さんの手料理をいただくのです。いろりのなかには太さ50センチほどもある焚木が置かれ、1日中1年中ずっと火が絶やされることなく燃え続けています。広葉樹のいい香りがして、暗い室内と相まってこちらの心を別世界に連れ出します。みんなが子どもの心に帰り、打ち解けて話をしやすくなるのです。
立人さんは1945年の日本の敗戦の時に12歳。それまでは夜になるとアジアの地図に「日本軍が敵艦何隻を沈めた」と印をつける「立派な軍国少年」だったそうです。そして将来は日本国のために死ぬと漠然と考えていた立人少年でしたが、敗戦を機にあっさりと社会が激変するのを目の当たりにします。いままで教わっていた教科書に次々と墨が塗られ、学校システムはコロコロ変わり、それまで単なるエゴイズムだと教わっていた民主主義が尊重される。このような経験をした立人少年が、世のなかの物事全てを1度は批判的に見つめるようになったのも、ある意味当然のことだったのかもしれません。
「アメリカ兵が進駐してきたとき、ずいぶんきれいな兵隊だなと思いましたよ。とにかく日本兵はドロドロで臭いという印象がありました。日本兵は鉄砲ばかりは大事にしていた。ちょっとでも汚れるとブン殴られる。それがなにしろアメリカ兵はズボンに折り目がついていましたよ。東京にジープに乗って入ってきて、前のガラスを倒して機関銃をつけて……。こんなに違ったところとなんで戦争したのかと思いました。」
10代前半から詩に惹かれた立人さんは自分でも詩作を始め、それと共に装丁家やデザイナーとして生計を立てていくことになります。そんな立人さんが茨木のり子さんと出会ったのは40歳を過ぎてから。ある雑誌にのり子さんについての文章を書いたことがきっかけだったそうです。
「好きだったなぁ。人間的に。いつもごちそうしてもらうばかりだった。『いまはお金があるから』とか言って、ずいぶん連れ歩いてもらった。時々ふっと長電話が来て、4、50分話す。そんなお付き合いでした。
亡くなる1年くらい前、『本当は私の書くものなんて詩でないって思ってるでしょう』と彼女が言う。僕は彼女の笑える詩が好きだ。そのことを伝えたら喜んでくれた。日本語を自在に駆使できる人だったなぁ。
いくら彼女といえど本当にいい詩がたくさんあるわけではない。詩って、どんなにがんばってもたくさん書けるものではないですよ。それでもいい詩は時空を超える。そういうものを2つ3つ書けたらすばらしいことだと思うんです。」
立人さんは8歳年長だったのり子さんのことを愛情こめて語ります。このような友情を長く持ちえたことは、のり子さんにとっても立人さんにとっても幸せなことだったろうと思いました。
そんな話をしている間にも稲葉スガ子さんの手作り創作料理が次々運ばれてきます。地域でとれた山菜、野菜を中心にしたヘルシーで豊かな薬膳なのです。
僕はそれからも没頭して立人さんの語りに聞き入っていました。
「日本の口語自由詩は型を失って混乱の極みにあると思う。何が詩なのだろうかと、もう1度問い直さないと。」
「自分だけが珍しい時代を生きているのではなくて、人間はいつも激動の時代を生きている気がする。」
「ドーデの『風車小屋だより』ってあるでしょう。あれなんか読んだら、その地(南仏プロヴァンス地方)に行ってみたくなりますよ。ニームの町を歩いていたら、一角にドーデの銅像があった。感激してね。宿のおかみさんに伝えたら。彼女も喜んでくれた。」
「ペシミスティックと言われるけれど、どこを押せば希望なんて出てくるのか。あんまり簡単に希望と言ってほしくない。僕は自分の作品のなかに『愛』という言葉を使ったことがない。愛って何だろう。いまもわからない……。」
どんな内容であれ、立人さんの言葉はじっくりとした思索を含み、こちらの心を引き寄せます。昼食のあとに長居しすぎているとわかりながらも、お話に聞き込むのをやめることはできませんでした。
民宿いろりの次に向かったのは阿部雅弘さん宅です。時間の制約があるためゆっくりお話しできず残念でしたが、阿部さんの自然に溶けこんだ簡素な暮らしは立人さんの理想に近かったようです。阿部さんが水上村での暮らしを始めた2000年、立人さんも長年暮らした東京から山梨県北杜市明野町の山中の家(標高700メートル前後)に生活の中心を移しています。林夫妻は10年間を山の家で暮らしてきたのです。
阿部さん宅から通常のルートと違って山越えでお休みどころに向かうことになりました。くねくね曲がる細い道(運良く対向車は1台だけでしたが、離合は困難)をひゅいひゅいと鶴上うしをさんは運転していきます。九州から北海道まで運転したこともあるうしをさんは運転が大好きで、山道でも苦にならないそうです。人にはいろいろ特技がありますね。
西濱桂子さんが小さいときに来た思い出の地(西濱さんの実家は材木商であったため、山奥にも来ることがあった)などを訪ねたのち、やっとのことでお休みどころに着きました。建物のなかをひととおり見ていただき、少し話すともう5時を過ぎています。1時間にも満たない滞在でしたが、きっと上島さんも満足してくれただろうと思います。上島さんの慕ったのり子さんの友人が、はるばると訪ねてきてくれたのですから。
あまりにも名残惜しくて僕はその晩は鶴上うしをさん宅に泊めていただくこととし、結局人吉までごいっしょしました。帰りの車中では主に林幸子さんのお話をお聞きしました。古美術を学ばれた幸子さんは浮世絵の研究をずっと続けてこられました。鑑定も学ばれ、物の真贋(しんがん)を見極める作業をしてこられたそうです。「いい物はどこか人の心をつかみます。誰が見てもいい、とうなずかせるものがあるのです。雪舟の水墨画などは、こんなに広大な世界があるのかと思わせるものです。その価値は時間を越えています。日常とは別の次元のものが働いているのです。」
立人さんは創造を、幸子さんは批評を。それぞれが車の両輪になって林夫妻はどこまでも進んでいかれる気がしました。気がつけばもう人吉の西濱宅の前です。今日1日を林夫妻と過ごせたことに感謝しました。そして立人さんをぜひお休みどころ芸術祭にお呼びしようと決意しました。
興野康也(おきのやすなり)
2010年10月のお休みどころ
10/3(日) どしゃ降りのなかを鹿児島から友人が訪問してくださる。昨夜ブログを見て、今日思い立って来てくださったとのこと。その行動力と純な心に感動する。
10/4(月) 人吉市の鶴上うしをさんがお米を届けに来てくださる。うしをさんは無農薬農産物の産直グループ「だんだんなの会」を主宰されており、こうして遠方まででも届けに来てくださる。お米はあさぎり町の小川啓造・小川泰子(たいこ)夫妻の「小川農場せせらぎ米」(5キロ2500円)。友人たちの作った無農薬米を食べられることは、現代ではすごく贅沢なありがたいことだと感じる。
10/5(火) Mさん姉妹と吉田和江さんの3人が来訪。故・上島聖好さんが亡くなってから3年のお参りをしてくださる。M姉妹の妹さんはオーストリアのパースで会計コースの修士課程を修了。パースで就職を探すという。久しぶりの再会を喜ぶ。3人の来訪でお休みどころがにぎわい。上島聖好さんもうれしいだろうなと思う。
花の寺の衣替えをし、灯油ストーブを焚きはじめる。
10/6(水) 鹿児島市内のタラ看護専門学校で1年生への精神科看護の講義を開始。1回90分で全7回。
10/8(金) 伊敷病院内で英会話サークルを始める。金曜の昼休みの13時〜13時半を利用して、8〜10人で集まっている。テキストは『中1英語をひとつひとつわかりやすく』(学研教育出版)。監修者の山田暢彦氏は、子どもから留学・就職希望者まで教えておられるとのこと。一見普通の文法書だが、極めて実践的であり、例文を応用すればリアルな会話練習を行うことができる。サークルのモットーは「めちゃくちゃな文法でも、とにかくまずはしゃべってみよう」。
10/10(日) 鹿児島から友人3人が来訪。「kitchen cafe だんだん」でたっぷりと手作りの昼食を堪能したあと、水上村の阿部雅弘・阿部勤子(いそこ)さん宅を訪ねる。初めて会う人に対してもオープンにおもてなしできる阿部夫妻の心の広さに、友人たちは感激する。
10/16(土) 鹿大病院の鶴陵会館で研修病院紹介イベントに参加。石川しづ子主任PSWと共に、鹿大医学部の学生と研修医に向けて、伊敷病院をPRする。
10/17(日) 平谷地区の山の神祭り、9時〜18時。参加者は近隣の7人。今年は隣家の椎葉袈義・椎葉ムツ子さん宅が当番であったので、椎葉さん宅(築130年)の前庭で標縄(しめなわ)をない、御幣を作る。お供えの焼酎、赤飯、新米、塩、お菓子を持って主に男衆が山の神様(一般に女性と言われる)のお社へ登る。お社および周辺の樹に捧げものをする。今年はお社の根太(ねだ。床板を支える横木)を1本交換し、床が強くなった。お社のある裏山の森のなかの光景は、1年前とほとんど変わらない。まるで時間が止まったよう。帰ってからは椎葉さん宅で宴会。食べて飲んで歌って、みなさんご機嫌であった。
10/19(火) 故・茨木のり子さんの詩友である林立人(たつんど)さん(詩人、装丁家)と妻の林幸子(ゆきこ)さん(浮世絵研究)、幸子さんの姉の西濱桂子さんが来訪。運転を鶴上うしをさんにお願いし、5人で水上村を回る。昼食は民宿「いろり」にて。稲葉スガ子さんの薬膳創作料理を楽しむ。次に阿部雅弘さん宅へ。そして北目の峠を越えてお休みどころへ。林夫妻の息の合った精神性を楽しむ。
この日は鶴上うしを・鶴上寛治さん宅の離れである「太陽の家」に泊めていただく。翌朝、1人静かに本を読んでいると、「学問と祈りが一致していたヨーロッパ中世の修道院」というイメージが湧いてくる。本を愛する人にとって最高に心が落ち着く場所である。
10/21(木) 海外の友人(香港のEric Poonさんや中国のLuo Wenxiさんたち)からのメールを携帯電話では受け取れず、先月からイライラしていた。この日、同僚のすすめでiPhone(スマートフォンの1種)を購入しようとするが、パソコン本体とコードをつないでしばしば、「同期」作業をしないといけないとのことであきらめる。その後、同僚の倉元美津代さん(医師)の教示でホットメールのメールアドレスを取得。海外からのメールや写真、PDFが見られるようになる。
10/23(土) イギリスへの旅について伊敷病院の院内研修会で発表する。同僚の石川しづ子さん(看護師、精神科ソーシャルワーカー)が携帯電話内の写真データをパソコンに取り込み、プロジェクターで写せるようにしてくださる。
10/29(金) 上島聖好さんの命日。亡くなって丸3年になる。この日は郵便配達(委託)の金崎三重子さんがお参りしてくださる。お供えは「おたけさんまんじゅう」。三重子さんが地域のおばあちゃんたちを束ねて結成した「おたけさん会」で生産したものである。
10/30(土) 伊敷病院デイケア「来夢(らいむ)」のメンバーたちと共に、鹿児島市にある医療法人協会立看護専門学校の看学祭(学園祭)に行く。「来夢」の人たちは「高良(こうら)ビアーズバンド」を中心に音楽(バイオリン、ギター、ドラム、太鼓など)や歌を発表する。僕が精神看護学の講義に行っていた7期生の学生たちがもう3年生になり、病院実習を経験してたくましく(自分の頭で考えて行動するように)なっているのを見て感無量になる。7期生の人たちはもうすぐ卒業・就職であり、多くの人とたちとはもう会えないので、最後に出会うチャンスがあったことを幸せに思う。7期生の皆さんお元気で。
夜は今年3月まで伊敷病院に勤務していた黒岩健輔さん(医師)を囲んでの飲み会に参加する(大人10人、子ども1人)。黒岩さんは現在は福岡大学精神科に戻り、大学院で学んでいる。いつお会いしても誠実で、コツコツ努力を重ねる人柄である。研修医の海江田英秦さん、元研修医で現在は鹿児島大学病院眼科に勤務し、1児のパパになった黒岩宣宏さんとも久しぶりに会う。懐かしい人たちと再会するのは人生の贅だと思う。
10/31(日) 鹿児島市の城山観光ホテルで川畑実・四元みどりさんの結婚式に参加(出席者200人以上)。川畑実さんは伊敷病院での興野の上司。以前お休みどころに泊まりがけで来てくださったこともある。実さんの体調がすぐれず心配していたが、披露宴中のほっとした表情を見て安堵する。
夜は人吉市の鶴上寛治・鶴上うしをさん宅に泊まる。うしをさんからはお母様を看取ったときのこと、寛治さんからは戦争中の台湾での少年時代のお話などを聞く。うしをさん手製のむかご入り玄米ごはんとおでんをいただく。翌朝、起きてから「太陽の家」の掃除をし、それから『モーツァルト頌(しょう)』(吉田秀和・高橋英郎編、白水社、1966年)を読む。「無邪気さと高貴な単純さ」(アルトゥール・ショーペンハウアーの言葉。127ページ)という言葉が心の網に引っかかる。このスペースで1人本を読むことは、心をすがすがしくする。
写真1
民宿「いろり」の巨大ないろり。直径4、5メートルはある。
写真2
いろりの周りで。左から西濱桂子、稲葉スガ子、林幸子さん。
写真3
民宿「いろり」の前で。左から西濱桂子、稲葉スガ子、鶴上うしを、林立人、林幸子さん。
写真4
阿部雅弘さん宅の庭にて。左から阿部雅弘、鶴上うしを、西濱桂子さん。
写真5
同じく阿部雅弘さん宅の庭にて。林夫妻。
写真6
写真7
写真8
写真9
お休みどころと周囲の風景。
写真10〜12は林立人さんから届いたものです。
写真10
林夫妻の菜園。デッキの前にある。
写真11
林宅のデッキ正面に見える富士山。
写真12
冬の林宅。雪で出入りが困難になるという。
[追記]
林立人さんからご自身の詩集『モリ』(花神社発行、2004年)と詩誌『六分儀』15〜36号(グループ〈六分儀〉発行、2002〜2009年)が届きました。いずれも装丁は立人さんが担当されています。独特の陰りと繊細さを備えた世界です。
立人さんの詩についての僕の感想を一言で言えば、1行1行が絵になっているということです。デザインや装丁など視覚芸術に優れた立人さんは、詩のなかでも絵画的に場面を浮かびあがらせます。ある意味で1行1行が独立して読みうる。僕は連句を読んだことはないのですが、連句の世界ってこんな感じなのかなと思いました。
詩誌『六分儀』は立人さんを含む同人7人の力で作られてきたものです。今年37号で終刊したとのことで、大変残念です。僕は創刊の経緯を知らないのですが、内容を読むかぎり著者たちは詩や文学はもとより、ヨーロッパ(特にフランス語圏)の芸術全般(特に絵画)に幅広い教養を持つ方たちのようです。
中身は詩、散文詩、評論などで構成されています。とりわけ僕が感銘を受けたのが芸術批評の作品群です。詩人たちの書く批評だけあって、対象の芸術家(主に画家)の無意識の深みにまで潜ってつかみだしてきた言葉が連ねられています。
著者たちにはシュールレアリスム運動に強い関心を持つ人が多いようです。詩作と近い世界なのでしょう。そのためもあり評論のなかでは様々な芸術家について、本人も知らない心の深層から創作活動が沸き起こる瞬間が活写されています。
A5版32ページほどの小さな冊子なのに、はらんでいる世界は広大です。このような濃密な世界を作りだし続けた7人の同人の意欲とチームワークの良さに驚きながら、少しずつ読み味わいました。
写真13
林立人さんの詩集『モリ』(花神社)。装丁は立人さん。
写真14
写真15
写真16
詩誌『六分儀』。同じく装丁は立人さん。
この記事に対するコメント
トルストイ「人は何によって生きているか」の装丁に惹かれて、昨日アマゾンで購入したところ、林立人さんという方が挿絵をおやりになったと知り、こちらまで辿り着きました。
林さんの詩を読んでみたいな、と作品を探しているのですが、見当たりません。よろしければ入手できる方法がございましたらご教示くださいましたら有難いです。
検索してみました。中古であるようなので購入してみますね。