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成田泰士くんからのメッセージ  2010年12月15日(水)

幼なじみの成田泰士くんからの届いた2つのメッセージです。


  支えるということ

人を支える、というのは相手から、相手が出来る限りのことを引き出し、どうしても足りない部分を支援する行為であって、依存を助長させるようなことであってはならない。

例えば、足を骨折して松葉杖をついている人の目標は、早く松葉杖がなくとも歩けるようになることであって、松葉杖でうまく歩けるようになることではない。
もし、そんなことは絶対にないけど、松葉杖を使うと脳内に快楽物質がでるように仕組んで、いつまでも松葉杖を使いつづけることになるよう仕向けたとしたら、その人は本来の足の能力を失ってしまうだろう。それは本末転倒としか言いようがない。

言うまでもなく松葉杖なんかなくとも歩ける状態が理想ではある。しかし、現実問題としてどうしても必要となるときもある。

常には目立たず、しかし必要とする人がいればそっと寄り添い、必要がなくなれば、なるべく早く忘れ去られる。それが松葉杖のあるべき姿ではないか。

これが松葉杖の話であれば、誰も反発しないだろう。でもこれが人の営みであればどうだろうか。支援者として振舞おうとする自分の心の有り様であればどうだろうか。

この人はもう大丈夫か、まだ寄り添うべきか。そのタイミングを見極めることが大切であり、この上なく難しい。

そして、その難しさは、見極める対象自体にあるのではなく、実は自分の心の中に、いつの間にか「対象が自分へ依存することを期待する自分」が生まれていることに依っていることが多いから御しがたい。

別の角度から言うと、「人の役に立っている」自分を、快く手放すことができるかどうか。

人は、役に立ってるのか立ってないのか分からない仕事ですら、自分のしていることを否定されることは受け入れがたい。

まして、「人の役に立っている」と思えるものだったとしたら、それを自ら手離せるか。

言うは易く、行うは難し、だと痛感する日々。



  ただ歩け

歩みの遅さを恐れるなかれ。

恥じるなかれ。

その一歩に、大海はなくとも、深さはあるのだから。

歩め。

誰もが、つまるところ、一歩ずつしか進めないのだから。
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