お休みどころ

こころの相談活動を作り続ける
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永田さんの呼びかけ文 2014年3月23日(日)

 友人の永田さんがいっしょに活動できる仲間を探しています。ダンスやそれに関連した芸術活動に興味のある方は、ぜひ参加してみてくださいね。以下が永田さんの呼びかけ文です。
 
 

 はじめまして。私は熊本県球磨郡多良木町に住んでいる永田勝貴(ナガタヨシタカ)というものです。
 現在熊本県球磨郡周辺にて、「身体表現」にフォーカスして、表現活動を行っている、または行いたいと思っている仲間を探しています。
 
 身体表現としてはこんなものがあります。
 
・言葉と身体をむすぶ関係についての表現(演劇、朗読など) 
・表象、妄想や夢と身体をむすぶ関係についての表現(ダンスなど) 
・倫理的なことがらと身体をむすぶ関係についての表現(コスプレやデモなど)
 
 列挙しだすときりが無いですが、なんかしたいって思ってるだけでも構いません。
 
 私自身は、少し演劇やダンスをかじっただけで素人で、舞台作りの経験もそんなに多くありません。でも、なんかやる。そんなスタンスです。
 演劇経験があるとかダンスの経験があるとか関係ないので、興味を持たれた方は下記のメールアドレスまでご連絡ください。お待ちしています。
 
連絡先:永田勝貴
nagata.yos@gmail.com

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ブルーノさんのエッセイ   2012年7月20日(金)

以下のエッセイはウィーンのブルーノ・フックスさんが書いたものです。雑誌『週刊ひとよし714号』(2012年7月8日発行、人吉中央出版社)に掲載されました。

The Osaka Paravent

Since the middle of the 16th century, when Portugese followed by Spanish, Netherlands and English landed in Japan, Japanese art found its way to Europe. The Osaka Paravent now located in the Castle of  Eggenberg on the outskirts  of Graz, capital of the Austrian department Styria, about 250 km south of Vienna, capital of Austria, is an example for this kind of art brought to Europe. It is about 180cm in height, and 480 cm wide. It was probably brought to Europe by Netherlands and then came to the Palais of Prince Johann Seyfried von Eggenberg. During a restoration of the castle in 1754, the Paravant was divided into 8 parts and used as a wall decoration between other mural paintings in a special room. Until 2003 nobody recognized the ancient Japanese wall paintings. In that year a restauration of the castle took place and the paintings were discovered. The patron of the artist as well the artist is unknown. Painted about 1614 in the traditional japanese style on paper, it shows the magnificent Castle of Osaka, holy areas, teahouses and people with their colourful clothes in a happy lifetime between 1596 and 1615. It is  one of a few relicts of that time.
Toyotomi Hideyoshi lived from 1536 till 1598. His ruling time was short, but famous for political, social and cultural effects in Japan. The paintings of that time are a hymn to the power and glory of Toyotomi, who was already dead, when the paintings have been created.Toyotomi was one of the powerful leaders of Japan and after death referred to as a hero.
The restoration of the Paravent was a sensation in Austria as well as in Japan and the beginning of a partnership between Osaka Castle Museum and Eggenberg Castle  Museum. During  an official visit of the Austrian President Dr. Fischer in October 2009  a document of cooperation between the two castles was signed.
From March to May of 2012 there was an exhibition in the Osaka Museum of History : „Japanese- European Samurais“ Osaka Castle and Eggenberg Castle. 3 years of Friendship. Arms and Armor of Austria and Japan.
This is clearly a special connection between Austria and Japan.

Bruno Fux


大坂図屏風 


  
 16世紀の半ば以降、ポルトガル人、スペイン人、オランダ人、イギリス人たちが次々と日本に上陸しました。その時から日本芸術がヨーロッパにもたらされるようになりました。「大坂図屏風」はこのようにしてヨーロッパに持ち込まれた芸術品の1例です。

 屏風は現在オーストリアのグラーツ近郊のエッゲンベルク城にあります。グラーツは(オーストリアを構成する9つの州の1つである)シュタイアーマルク州の州都で、オーストリアの首都であるウィーンから約250キロ南に下ったところにある都市です。大坂図屏風は高さ180センチ、長さ480センチもあります。おそらく最初はオランダ人によってヨーロッパに持ち込まれ、そしてエッゲンベルク城の王子であったヨハン・ザイフリート・フォン・エッゲンベルクのもとに届けられるに至ったと考えられます。

 1754年の城の修復工事の際に、屏風は8つに切り分けられ、ある特別な部屋のなかで、他の壁画の間にはさむ装飾画として使われました。そしてなんと2003年になるまで誰も壁の絵が日本の昔の屏風だとは気付かなかったのです。
  
 その年、城の修復工事が再度行われ、屏風の絵が見つかったのでした。製作した画家も、製作を依頼したパトロンも、不明のままです。1614年頃に描かれたとされるこの屏風は、壮大な大阪城や寺社、茶室、そして1596〜1615年の幸せな時代を生きた色とりどりの服装の人々を描いています。この屏風は、その時代に作られ現在も残る数少ない屏風の1つなのだそうです。
 
 豊臣秀吉は1536年から1598年まで生きました。彼が日本を支配した時期は短かったのですが、政治的・社会的・文化的な影響力の大きさによってよく知られています。大坂図屏風が製作された時代の絵画といえば、すでに亡くなった豊臣秀吉の力と威光を讃えるものばかりでした。秀吉は日本の強大なリーダーの1人であり、死後は英雄視されたのです。
 大坂図屏風の復元はオーストリアでも日本でも大きな話題となり、それが大阪城天守閣とエッゲンベルク城博物館の協力関係のスタートとなりました。2009年10月にはオーストリア大統領であるフィッシャー博士が公式に大阪城を訪問し、その際に「友好城郭提携」が調印されました。さらに2012年3月〜5月には、大阪歴史博物館で、「大阪城・エッゲンベルグ城友好城郭提携3周年記念 『日欧のサムライたち―オーストリアと日本の武器武具展―』」と銘打った展示が開かれました。
 これらの関わりは、明らかにオーストリアと日本の特別に豊かなつながりだと思います。

       
 
ブルーノ・フックス(興野康也訳)

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加藤圭悟さんからのメッセージ

    2011年9月12日(月)

 妻の美紗さんの弟の加藤圭悟さんが9/10〜11に一家4人でお休みどころに遊びに来てくださいました。以下は圭悟さんから届いたメッセージです。


 昨日は有難うございました。水上村で、ゆっくりとした時間の流れに触れる事ができ、今日は夢から覚めたかのように仕事という現実に戻りました。
 初体験の急流下りや嫁のみかと激しい洞窟探検で久しぶりにデートができたのも、嬉しいことでした。
 また、食事もヤマメや山菜など普段食べれない美味しい食事を頂きました。自分でマキを割り火を焚いて、みんなで食べたスープやパンも最高でした。
 康也さんを通じ旅館の西さんや山本さんや黒木さん方とお会いして、もっと話しを聞きたくなる、そんな皆様方でした。長々、感想を書いてしまいました。
 2日間有難うございました。
        加藤圭悟

写真1
写真1 くま川下りの船内。 

写真2
写真2 加藤圭悟さんと息子の颯馬くん。 

写真3
写真3 妻のみかさんと娘の心春ちゃんと颯馬くん。 

写真4
写真4 くま川下りの終点にある鍾乳洞、球泉洞(きゅうせんどう)のなかの様子。探険コースを選べばヘルメットに長靴姿で奥深くまで案内してもらえる。

写真5
写真5 お休みどころの前庭で薪割りをする圭悟さん。さすが運動選手をされていただけあり、すぐにこんなに大きな丸太を割ってしまった。 

写真6
写真6 割った薪で火を焚き、スープを作る圭悟さん。 

写真7
写真7 水上村の「いこい食堂」で話すみかさん、山本恭子さん、黒木さよ子さん、美紗さん。いこい食堂は黒木さんがされているお寿司屋さんで、新鮮な魚や手作りの野菜のふんだんに使われたたっぷりのお食事を楽しめる。

写真8
写真8 市房ダム湖の噴水に近づいていく颯馬くん。噴水は物産館「水の上の市場」の奥にあり、500円であげることができる。

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泉谷龍さんからのメッセージ

  2011年5月20日(木)

 僕の15年来の友人である泉谷龍さんからいただいたメッセージです。泉谷さんらしい思想的な物事のとらえ方が文面に表れていておもしろいですね。


興野さま

 先日、マイカさんと京都の鷹峯にある「源光庵」と「光悦寺」に観光にいってきました。
 源光庵にある「悟りの窓」と「迷いの窓」は最高に楽しかったでした。「悟りの窓」ご存知ですか?いいお寺だと前々から聞いてはいたのですが、実際に行ったのは今回が初めてでした。古人の知恵というか、遊び心に関心しきりの時間でした。
 源光庵の座敷にはお庭を覗く窓が二つあって、一つが「悟りの窓」と呼ばれるもので、もう一つが「迷いの窓」と呼ばれています。二つの窓は同じお庭を違う角度から眺めるだけの違いなのですが、なぜか名前の通り二通りに見えてくるので不思議でした。『迷いの窓』からお庭を覗いていると、ざわざわ浮き浮きと心が落ち着かないような感じになってくるのです。片や、『悟りの窓』からお庭を見ていると不思議な多幸感と開放感で心が満たされてくるのです。見事な仕掛けでした。今度、ぜひご一緒しましょう!
 マイカさんも楽しんで下さったようでした。


 お休みどころのブログへの掲載もありがとうございます。島田さんの事書いていたのすっかり忘れてました。読み返してみてよかったでした。自分の書いた文章だけれども、読んでいて元気が湧いてきました。ありがとうございました。

 泉谷龍

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平早勲さんからの手紙 

  2011年5月17日(火)

 以下に掲載する手紙は茨城県水戸市在住の友人・平早勲(ひらはやいさお)さんから2008年1月15日に届いたものです。3年4ヶ月前の手紙をどうしていまごろ掲載するのか、皆さんふしぎに思われると思いますが、こんないきさつがあったのです。
 今年の4月に島根県在住の友人である小川京子さんから電話がありました。京子さんは10年来の友人で、よく電話をくださいます。いろいろ話したあと、京子さんが突然こうおっしゃったのです。
 「あのねぇ、興野くん、いま昔の手紙を整理しとったんだけど、そのなかにどういうわけか興野くんあての手紙があったんよね。平早勲さんからの手紙。どうしてここにあるんかわからんけど、とてもいい内容なのよ。また今度送るね…」。
 おそらく当時感動のあまり京子さんにもお貸ししたのでしょうか。いまとなってはわかりませんが、とにかく平早勲さんからの手紙は再び僕の手元に届き、そしてやはり心にしみたのでした。2007年10月に上島聖好さんが亡くなり、2ヶ月半後に僕を励ましてくださった手紙です。 


興野康也様

 手紙を受け取りました。実は、12月中旬ごろおかしいなと思い、娘にインターネットで調べてもらい、上島さんのことを知りました。 
 娘は、「お父さんは知らない方がいいよ」と言ったのですが、心を決めて開きました。でも、死を知ると思いの外動揺してしまい、毎日何とかしなければと思いながら、ここまで来てしまいました。肝心な時に力になれず申しわけなく思っています。 
 私は妻がなくなった時には、妻とのやり取りを思い出し、あの時こうしてやれば良かったと反省ばかりしていました。妻の夢も毎日みました。それがやっと現実に戻り、妻に恥ずかしくない生き方をしようと思ったさきの訃報でしたからショックも大きかったのです。お許しください。 
 上島さんは生き急ぎすぎたのだと思います。生前妻は、ほら穴に住んでも人のために尽くしたいという上島さんの文章に触れて、こんなに凄い人に初めて会った、と言っておりましたが、私たち夫婦は、生来の楽天家ですのですぐに忘れていました。その凄さゆえの早死にだったかも知れないのにです。 
 興野さんには今後もっとゆっくり生きてほしいと思っています。私の若い時と比べると何倍もの活動をしています。私のように楽天家になって恋や趣味に力を傾けてもいいのではないでしょうか。 
 何を書いているのか、わからなくなりましたけれども、とにかく元気をだして下さい。私も寂しさを抱えつつ楽天的に生きていきたいと思っております。
      草々 
         平早勲 

[追記] 私も妻に線香をあげると落ちつきます。
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村上泉さんからのメッセージ 

  2011年5月14日(土)

 村上泉さんが以前、年金関連の講師をされたときの話です。内容は村上さんのお話を興野康也がまとめ、さらに村上さんが加筆されたものです。 
 
 皆様がわざわざ1日お時間をつくって参加していただいているのですから、その人達の中のお一人でも「来てよかった」と思っていただけるよう、お話しできたらいいなと考えました。(あたりまえのことですが…)。先輩達は毎回資料をたくさん準備するんですが、僕は自分なりに構成し、まったくの資料ナシでやろうと思いつきました。というのも、皆様にとって、とてもみじかなことなのですが内容に法律がからんでくると複雑なイメージをあたえてしまうし、僕自身あまり知識がない頃、これらの資料をみてすぐに理解できなかったからです。依頼者に資料はありませんと言ったら担当者があわてたので、一応その場で模造紙にいくつかタイトルだけは書きました。
 またタイトル自体も皆様には意外なものにしました。「はぁ?このタイトルで内容は何を話すの!?」と同僚にまで言われました。そんなタイトルで話した人はいままでいなかったからです。「でも君らしくていいよ」と言ってくれました。
 「大丈夫。試してみよう。結果としてお客様が満足してくださることが大事だから。」と念じて、臨みました。100人以上聞きにきてくださいました。僕自身も正直、ドキドキしながら、最初にタイトルを紹介したところ、クスクス笑い声が聞こえたので、「やったあ!」と思いました。意外性がないとおもしろくないですから…。 
 
 以前は、資料を全部話さないといけないと思っていました。でもお客様は全部を知らなくていいし、求めてもいない。あまりに知識があるとかえって細かくしゃべってしまうんです。一人よがりになってしまう。気持ちが法律にばかり向かってしまって、目の前の人のために法律があることを忘れてしまう。 
 自分のなかにいくつもの情報を持っていないと、あらゆるケースに対応できないことも自分自身学びました。先輩達から受け継いだ方法はうまく取り入れながらも、相手のニーズにあわせて話を構成すること。発想の転換がまた新たな知恵をもたらしてくれることを経験しました。

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ももじろうさんからのメッセージ

 2011年5月10日(火)

 今、『阪急電車』という題名の映画が上映されているそうです。私の中で阪急電車は地震を連想させるものになっています。阪神淡路大震災の起きる12時間前位に乗っていましたし、ボランティアで行った所が阪急沿線の学校だったこともあります。
 門戸厄神(もんどやくじん)駅近くの小学校に行った時の出来事は忘れられません。京都新聞紙上でうどんの炊き出しをする団体がボランティアを募っていたので参加しました。炊き出しは運動場でありました。
 私は空き時間に体育館に行き、幼い子供さんたちにプラスチック箸と箸箱を、名前を聞いてマジックで書いて渡していました。そのとき年配の女性が「どこから(どこの団体)?」と尋ねられましたので「新聞で見て…」と話しました。そうしたら「ありがとう」と言いながら私の手を握って下さいました。その時、なんだかじわっとあついものを感じました。今、思い出してもじわっときます。
 後日談もあります。小学校の体育館は無事でしたが講堂のような建物はコンクリートの屋根が割れていました。私は新一年生に使ってもらおうと思ってその小学校の名前を彫った鉛筆をお店に注文しました。そして送り先の住所を聞く為、学校に電話しました。
 そのとき体育館での出来事をお話ししたら、鉛筆は足りているけれども、そういうことだったら頂きますということでした。良かったと思いました。
 校長先生は「昨日の卒業式で紹介したかったお話でした」と言われていました。当時は被災者の方が体育館を使われていたんです。卒業式に被災者の方も列席されたんじゃないでしょうか。
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楢木祐司さんからのメッセージ

 2011年5月10日(火)

 こちら(東京)は今日の午後から雨が降るようです。台風も早々とやって来るようです。最近の自然は荒ぶっているので少し心配です。
 連休中の5月3日〜5日には仙台に帰りましたが、新緑が美しく、すばらしい天気でした。連休前に再開した商店が多く、市街地はにぎわっていました。津波の被災地の復興は時間がかかりますが、元気な人が近くにいないと何も始まらないでしょうから、仙台の人たちが少しでも元気で活躍してくれればと思いました。

〔追記〕その時のことを自分のブログにも写真入りで書きましたので、時間があるときにでもご覧ください。
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谷口博文さんからのメッセージ

 
 2011年5月9日(月)

 ここ数ヶ月いちばんたくさんお休みどころを利用してくださっている柔道家・谷口博文さんのメッセージです。内容は谷口さんのお話を興野が聞き取ったものです。


 私はいろんな出来事や日付などはよく覚えているんです。その場面が鮮明に浮かんでくる。人から受けた数々の恩も強く感じています。ただそういう風に考え過ぎて、ひとりよがりに空回りしたり、自分を追い込んでしまう面があるかも知れない。あまり突っ走るからくたびれる。そこが長所であり短所でもあるんでしょうね。
 いま思うのは、自分がよくならないと周りをよくすることはできないということです。いい意味でちょっと怠けるというのも必要でしょうね。こういう雨の日も好きですね。植物の何とかという成分があるんでしょうか? 気持ちを安定させてくれますね。 
 柔道は嘉納治五郎(1860〜1938)が創りだしたものです。明治時代に入り柔術の伝承が途絶えるのを危惧した嘉納治五郎が、さまざまな流派に学んで、より安全で教育的に創りあげたものです。 
 技のうまさにはキレや美しさが含まれると思います。うまい技とは、投げられた相手が関心するような技のことだと思います。自分なりに得意技を持つことが大事です。そして間合いを取って臨機応変に技に持っていく。最初のうちは得意技を1つか2つ作りあげていくことが上達の秘訣でしょうか。
 私は勝った負けたの柔道だけでなく、違った感じの柔道を作っていこうと思います。健康のための柔道。対話型の柔らかい柔道。いかにダメージを与えないようにして相手を制するか、というのが柔道の始まりだと私は思います。
 私は高校時代には英語が苦手で、コンプレックスを持っていました。答案にも“I don't know.(わかりません)”と書いたこともあります(笑)。そのくらいできなかったんですが、大学時代にとても柔道好きの英語の先生の講義を受けることができました。英語が苦手な自分に対する先生の接し方がすばらしかった。ニコニコして、こういう考え方もあるよという感じで柔らかく教えてくださった。安心させてくださり、こちらの緊張がほぐれた。さらに講義の一部は先生との柔道談義でした(笑)。
 そんな先生のおかげで英語に親しみが持て、好きになれました。そしてイギリスから親子で武道を学びに来られた方のお世話をすることになり、そのこともあって後にイギリスに柔道指導に行けたんだと思います。すばらしい先生との出会いで人生は変わります。柔道を通して今までいい思いをさせてもらってきましたから、これからはその恩返しをしたいと思っています。
 そういえば私の多良木高校時代の元同僚で美術の先生だった福島房雄さんが熊本市で絵の個展を開かれました。第8回福島房雄展「うつを乗り越えて」(2011年1月21日〜31日、会場は画廊喫茶ジェイ)です。うつ病を経験し回復してから、福島さんは同じくうつ病で苦しむ人に対してアドバイスをしたり絵画セラピーをしたりされています。また各地で巡回展を開かれることもあるでしょうから、機会があれば皆さんもご覧ください。
        谷口博文
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寺井治夫さんからの手紙

 2011年4月26日(火)

 寺井治夫さんは僕の高校時代の国語の先生です。現代文、古文、漢文と教わったなかで際だって印象的なのが1年生のときに受けた現代文の授業です。1学期間を通して抵抗者の文学を読んだ記憶があります。「自由に書けない状況下でいかに表現するか」といった問題意識を持って日本語を学べる高校生はそう多くないと思います 。寺井さんの授業を受けられたことは幸せなことでした。 
 また、寺井さんが僕の人生に及ぼしたもう1つの大きな影響として、僕を論楽社(ろんがくしゃ、私塾、出版など)に連れていってくださったことがあります。論楽社を運営していた故・上島聖好さんや虫賀宗博さんと出会ったことがのちに僕の人生を大きく変え、ハンセン病療養所に通い、医師になり、お休みどころを開くことになりました。 
 寺井さんとの交流は高校卒業後も続き、僕にとっては一生の恩師です。お休みどころにも2003年11月に1度来てくださいました。その後ずいぶん変わったお休みどころの様子を見ていただくためにも、いつかお休みどころにお招きしたいと考えています。
 今回ご紹介するのは、上島聖好さんの遺稿集『お休みどころ――上島聖好の世界』(ぱんたか発行)を読んでの感慨を綴られた2通の手紙です。半年の期間をおいて届いています。寺井さんの繊細で思いやりある読み取りと言語化の丁寧さが感じられ、また上島さんがどういう人間だったのか、いろいろ考えさせられる内容です。

第1信
 拝啓 

 やや暑気を感じながらも、秋らしい空を好もしく思います。 
 お変わりなくお過ごしのことと存じます。 
 お返事がとても遅くなりました。お詫びの言葉がありません。
 この手紙では、上島聖好さんの『お休みどころ−−上島聖好の世界』について書かねばならないと決めていたのですが、なかなか言葉を結べません。とても一気に読むような気持ちにはなれませんので、何日かの間を置きながら少しずつ読んでいました。その合間に何度も、週に半分しかないはずの<仕事>に煩わされることがあり、何だかわけのわからない日々が半年続いています。もう一度、今度は大きくまとめて読まなければ、言葉を結べないように思います。再度お手数の折に述べるべく、お約束します。 
 冒頭の一文「それぞれの『甦業』――水俣への旅――」は、象徴的な文章に思えます。上島さんの内には、巧まずしての言葉の響き合いがあります。「甦」の語を軸にして、実に緊密に文章が構成されています。「3月4日」と「彼岸過ぎ」の二つの時間が交互に動き、最後はその二つの時間が交り合い、融け合います。新しいスタートは、お母さんの死を起点としてあったのですね。「ミナマタ、よみがえりの地」「ここ」と定めながら、表題には「旅」とあります。上島さんの設定した題でしょうか。私には、新たなるスタートは「旅」であったのではなかろうかと、思われてなりません。「お休みどころ」と言うと地に置き定めて人を迎える姿勢を想定しますが、その実、心の求めるものに惹かれて、自らの思いを確かめんとして、また、人の温もりを感受して、自ずと旅に出る、そんな心の在り処なのではないか。それは、求道者、修道者の、修行の旅…。山中での暮らしを営む、未知なる自然とともに暮らしをつくる、それを素手で開拓していく…水上村でのお二人の生活の苦労は、修行のようにも見えます。(中略)
 大変お便りが遅くなり、本当に申し訳ありません。 
 やがて冬に向かいます。どうぞ御身お大事になさって、ご活躍ください。  敬具
     2010年10月24日         寺井治夫                                   

第2信
 拝啓 

 桜花も終わろうというのに、まだ肌寒い日が混ざります。 
 また一冬過ごされて、山での暮らし、お元気でしょうか。 
 どうしておられるか、時々案じながらも、半年の無音を経てしまいました。貴方のお仕事とお休みどころでの暮らしと、種々繋がり、重なりながら、求道の歩みともいうべき日々を過ごしておられることでしょう。自分も人も愛しくあり、希望に通じ、しかし苦しくもあり、汗して生きるお姿を想っております。老人となった私には、為すこと、考えることが随分限られてきて、過ぎ去った自分の貧しさが見えるばかりです。時には、生き直せるものならと思いますが、でもすぐに、足りぬものの多い今の自分で歩き続けるのが却って自然なことなのだと、思い返します。この歳になっても、自分を認めるとか、許すとかは、難しいものです。
 『お休みどころ――上島聖好の世界』を読んでの一文をお送りする約束でしたが、なかなか言葉が出ません。「エッセイ」と「通信」を二度読みました。上島さんの目に見えるものや思いは、一定分かるつもりですが、言葉が自然に私の中に入って来ません。惹かれる言葉はいくつもあるのですが…。 
 「エッセイ」の始めの「お休みどころを作る」で真っ先に、上島さんが、死の世界との境のないいのちの世界にいる、そのことを印象深く感じます。この境地に至ったのだなあ、という感慨をそっと包んで大事にしているかのようです。そこから生み出される言葉が、私をすーっと引き込んでいきます。そうでしょう、そうでしょう、と、私はなじんでしまいます。そんな上島さんのまなざしは、いろんなものを、思い深く感受します。郷里の人たちの何でもない日常的な姿が、魂に触れる大切なものに見えます。そしてそんな魂の触れ合いを郷里の外のどんな地域にも得ることができます。でもそこから紡ぎだされる言葉は、呼びかけというよりも、上島さんの心の目に映るものの叙述に思われます。エッセイですから当然のことでしょうが、<お休みどころ>に呼びかけの要素を意識していた私には、少し違和感がありました。<お休みどころ>は私の在りかです、と言っておられるとすると、私にはとてもよく分かります。私がここを在りかとする意味、ここを在りかとして、共に生きる仲間を得る喜び、真面目に命を考え、感じるときに拠り所となるところ――「エッセイ」で私が理解できたのは、このようなものです。何だか自信がありません。とんでもなくずれているのではないかとも思っています…。 
 「通信」は、貴方と二人で書かれ、それぞれの文章を並べて筆者を明記する形になっています。これらの通信を折々頂いていた時は、心意気に感心したり、ご苦労に応援の気持ちを抱いたり、つぶさに暮らしを述べておられて微笑ましく思ったりしていました。が、こうして活字になって、選ばれたものを通読していますと、お二人の意図を越えて、上島さんが相対化されている印象を受けます。「エッセイ」の方で、内面が自ずとにじみ出て自在な文章になっているのに比べますと、ややもどかしい感があります。文章を綴るのに少し苦労しておられる、何だか素直に書けていない面もある、そんなふうに感じました。今にして思えば、<お休みどころ>は実際にはなかなか大変だった、苦しい時もあったにちがいありません。改めて読み直せば、そんな気持ちも察せられます。何と言っても、実践課題は<お休みどころ>であり、それはどうしても、前に進むことが求められます。ああ、本当に大変だったろうなあ、と思います。これもまた、私の勝手な感じ方です。上島さんの言葉をきちんと受け止められている自信が、やはりありません。貴方にとって迷惑な感想かもしれません。が、私の偽らざる感想です。 
 今はあまり遠出がしにくい暮らしをしています。お会いできたらと思うこともありますが、叶いません。元気にしていてください。私は今年も授業に出かけています。周りに人がいてくれて、半ば同僚の様に親しめる幸いをありがたく思って、頑張っています。 
 寒暖に油断ができません。御身お大事になさってください。  敬具
     2011年4月21日            寺井治夫

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