お休みどころ

こころの相談活動を作り続ける
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『ぶな』10号の原稿

 序文 

 今回はニュースレター『ぶな』10号(京都の論楽社の交流誌、1998年1月10日発行、A4版28ページ)に掲載された故・上島聖好さんと興野の文章をご紹介します。『ぶな』10号はそれまでの号がハンセン病問題を中心に特集を組んでいたのに対し、「森とともに」というテーマで構成されています。僕の知る限り、これが発行された『ぶな』の最後の号です。
 表紙は妙好人(みょうこうにん、浄土真宗の教えを体現した在家信者)の1人として著名な因幡の源左(いなばのげんざ、1842〜1930)の言葉を、論楽社の近所のお寺である来迎院(らいこういん)の書道家・竹村千佳子さんが書いてくださったものです。上島さんはこの「ようこそ ようこそ」という言葉を好んでいました。上島さんの文章もこの言葉に関連したものです。 
 一方興野の文章は食についてのものです。文中に登場する光岡美瑛子さんはお休みどころをずっと応援してくださっている方で、いまも毎月手紙とともに『あけぼの』(女子パウロ会発行)という雑誌を送ってくださっています。このブログの「お休みどころ 2010年2月15日(日)」でも光岡さんについて書いていますので、ご参照いただければと思います。
 なお、この号も楢木祐司さんが版下を作ってくださっています。そのためレイアウトが美しくなっています。


ようこそ、ようこそ―表紙に寄せて
          上島聖好

 秋のただなか、森へ行った。
 簡素で、落ちついていた。
 生に必要なものすべてが用意されていた。
 困ったら、森に教えてもらおう。
 無量の生き物からなる森。ともに生きるとは、微塵が微塵にとって、光のレースのようにこまかく、あやうく織られた生のいとなみであった。わたしはあなたの役に立っているという矜持と気品。
 奏でられるその調べは、ひっそりとよろこびにみちている。
 ようこそ、ようこそ。ぶなの森へ。


天が与える職と食
          興野康也

 僕は食べることが好きだ。食べることを通して、人と出会えることはうれしい。その喜びを具体的に示してくれた人を2人紹介したい。

 光岡美瑛子さん(56)は大阪の枚方でおかしをつくっている。バンバリーケーキがおいしい。長島愛生園への旅でも、光岡さんのケーキは場を盛りたててくれた。
 光岡さんにとって、おかしづくりは生きる喜びだ。
 20代からお年寄りの介護など、さまざまな仕事についた。しかし、どうしても心が離れてしまい、3年と続いたものはなかった。
 1987年、心を病んだなかで光岡さんは「ゴーバル」(『ぶな』9号p.17〜18)と出会う。ゴーバルは岐阜の手づくりハム工場。
 ゴーバルで働きながら、朝のパンやおやつを焼くことになる。
 「ゴーバルでは、夜、次の日のケーキが焼けるのを待って、みんなで食べてしまったり、いつも焼きたりないぐらいでした。ここでの6年間でほんとうに育てられた。」と光岡さんは言う。
 「生きるうえでの不安におそわれ、精神的に落ちこむことが何度もありましたから。そのことを考えると、おかしづくりをやっているときには何もかも忘れているというか、しあわせな明るい気持ちになることができます。おかしを焼くたのしさは、自分がしたいというより与えられたものだと思います。」
 光岡さんは3年前に結婚。大阪の枚方に移る。おつれあいとのあたたかな生活のなかで、おかしが生まれている。

 きなこあめのつくり方を光岡さんから教えていただいた。
 きなこあめは材料も作り方もシンプルだ。黒砂糖と水あめ、それに塩すこしを混ぜながら煮つめる。そこにきなこをよく混ぜ込む。細長くのばし、小さく切ってできあがり。
 僕は1人できなこあめをつくってみた。お菓子を自分だけでつくったことがなかったので、とても緊張した。何度かやっているうちに、黒ごまを加えたり工夫できるようになり、おかしをつくるのがたのしいと思うようになった。
 いい材料とも出会うことができた。きなこを探していたところ、熊本の阿蘇に住む上島聖好さんのおばさんから、黒大豆のきなこが届けられた。おばさんが自分で炒ってつくったものだ。
 黒大豆きなこをお送りした広島の土井文子さんからは、「胃がんの手術をした方によろこばれた」とハガキをいただいた。医と食が結びついてきた気がしている。

 論楽社から南へ500メートル、心光院の南に、無人の野菜売り場がある。秋ならハクサイ、ダイコン、ネギ、ニンジン、サツマイモなどが並ぶ。野菜には100円、50円と手書きで値段が表示してあり、お金を竹筒に入れて、買い求める。
 この無人野菜屋の越後良平さん(66)は、堆肥を使った野菜づくりを親の代からつづけている。30年ほど前までは、牛を飼って畑を耕していた。とれた野菜は母親がリアカーを押して行商した。亡くなってからは、越後さんが大学の守衛をしながら無人売り場で野菜を売ってきた。
 売り場のお金が足りないといったことは絶えないが、「信用しているさけい。知ってる人は黙って買っていってくれる。そこは長年の信頼関係。」「なかには持っていく人もいる。ひとこと言ってくれたら、あげるのに。」
 おいしい野菜をつくる秘けつは、やはり毎日野菜の顔を見ること。収穫の喜びは大きいが、しんどい仕事でもある。「やめたいと思ったことはありませんか」と聞くと、「与えられた天職さかい、そない思ったことはない。それしかできる能がないもん。」「待ってくれてるお客さんもいる。お客さんがよろこんでくれたらええだけ。」
 おじさんの言葉に、僕はあたためられる。おじさん、これからも元気で野菜をつくってください。

ぶな10号写真1
『ぶな』10号の表紙。
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『ぶな』9号の原稿

 序文 

 今回はニュースレター『ぶな』9号(京都の論楽社の交流誌、1997年8月25日発行)に掲載された上島聖好さんと泉谷龍さんの文章をご紹介します。1997年当時、論楽社(ろんがくしゃ、私塾、出版、講座開催など)の仲間は各地のハンセン病療養所を集中的に訪ねて入所者の方たちの人生史を聞き取っていましたから、どちらの文章もハンセン病がテーマになっています。
 上島さんの文章は香川県にあるハンセン病療養所・大島青松園(おおしませいしょうえん)を訪問したときの記録です。大島青松園は瀬戸内海に浮かぶ「大島」という小さな島(?)にあり、高松港からポンポン船で行きます。約8キロ。友人の渡辺典子さんによれば、船は約15分で、平日3便、休日2便だそうです。
 この大島青松園には美しい石のモニュメントがあり、「風の舞い」と命名されています。その様子は上島さんの文章のとおりです。なお文中にある岡部伊都子さん(1923〜2008)はエッセイストで、早くから各地のハンセン病療養所を訪ねて入所者の方々と交流をされた先駆者でした。このときも高松での岡部さんの講演に付き添う形で、上島さん、虫賀宗博さん、泉谷さん、興野の4人も大島青松園に行けたのでした。
 僕は忘れていたのですが、泉谷さんによれば、このとき「岡部さんの友達で元ハンセン病者だった吉田美枝子さんのお参りに付き添っていったと思います。吉田さんを偲んで岡部さんが納骨堂の中で得意の歌を唄われてましたよ」とのことです。岡部伊都子さんと吉田美枝子さんの関わりについては『ハンセン病とともに』(岡部伊都子著、藤原書店、2006年)を参照ください。
 一方、泉谷さんの文章は岡山県にあるハンセン病療養所・長島愛生園に生きた島田等さん(1926〜1995、詩人、思想家)の生き方がテーマです。論楽社の一行が出会った最初のハンセン病経験者が島田等さんであったのですが、これはまことに幸運なことと言わねばなりません。島田等さんは単にハンセン病問題だけではなく、医療や社会の在り方全般を照射できるような大きな思想の持ち主だったからです。島田さんの生涯はハンセン病差別の克服を願いながら社会の健全さとは何か、という問いを追求する人生でありました。「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」に入所者たちが勝訴するのは島田さんの死後でしたが、島田さんも喜んでいると思います。
 なお、泉谷さんの文章にある藤田省三さん(1908〜1987)は思想史家です。島田さんの著作の素晴らしさを賞賛しておられました。
 それからこの号の版下制作は、このブログの作製者の楢木祐司さんがしてくださっています。やはりプロの手が入ると品が出ますね。


風の舞い――岡部伊都子さんとの大島青松園の旅
            上島聖好
 風の舞いに行くんや。
 青松園の住人たちはいうという。残骨を納める場所。天にむかってひらかれた記念碑。
 樹木におおわれたゆるやかな坂道を登りつめると、ぱあっと視界がひらける。広場だ。そこにはさまざまな形の石が敷きつめられていて、同じく石づくりの円柱と三角錐の大きな塔が、場所を隔ててすっくりと立っていた。ふたつの塔は大きくあるが威圧感はない。じつに、さわやか、風の舞うごとく。三角錐の真中あたりの石をくいと引っぱると、それは引き出しになっていて、そこに骨たちは眠る。
 ぜんたい竜安寺の石庭のよう。
 が、空と風と水にひらかれているぶんだけ、せいせいと明るい。
 石は庵治石(あじいし)といって、地元の石。墓石では最高のものなんですよ。その石の捨てられるようなものを使って、住人、職員、町の人がいっしょになってつくったんです。
 と、職員の金重紘二さん。
 「ことば編」に、「風の舞い」を入れなきゃなりませんな。
 と、住人の政石蒙(まさいしもう)さんがすかさず言う。
 その言葉に、岡部伊都子さんはすずやかにうち笑う。
                      (1997年6月10日)

風のない午後
            泉谷 龍
 相変わらず、「将来どうしよう」と考えているのですが、まだ僕は迷っています。悩むたびに見えてしまう自分の性格はやっかいですが、これが悩みの本質かもしれないと思っています。
 上島聖好さんが以前「本当は、自分が何をしたいかということは体の内側が知っているのよ」とおっしゃられましたが、これはとっても大きなヒントになるadviceだと思って心に留めております。
 それと、最近、島田等さん(1926―1995)を読み直しています。特に、『次の冬』(論楽社ブックレット)の1編1編をゆっくりと読み返しています。
 以前に「難しいなあ」と思っていたことが少しずつ分かってきたような気がしています。
 「らい」者として、詩人として、理論家として生きた彼が、言葉を通して何を語り伝えたかったのかを、いま、捜しています。
 藤田省三先生は「島田さんは背負ったんだ、『らい』者の他者を背負ったんだ」とおっしゃられたんですよね。また、らい詩人集団結成のときに、島田さんは、「自己の痛み(『らい』体験)に固執することで、『らい』つまり『日本の社会と歴史が背負い続けた課題』に向かいあう。」とおっしゃられました。
 これらのことを前に聞いたり、読んだりしていたのですが、最近改めて、遺稿集『花』を読み返しているときに、大江満雄について「批判したり観照したりすることではなく、一切の社会的矛盾を自己に集中してゆかうと思った」と書いてあるのをみて、「あっ、これが島田さんの生き方だったんだ」と今になってやっと気がつきました。 
 自分をどん底に落とし入れた理不尽な社会を外から糾弾するのではなく、その社会そのものを自分の身に転嫁したことに彼の特異性と壮絶さを感じます。そして、さらに、その荷の重さに対して、「人間より大きな悲惨はない」と言い切った島田さんの強さに驚かされます。
 そういう自己を通して、60年以上の時をかけて晩年にたどり着いた彼の思想とは、「ただあること」、目立たなくても「ただ生きること」だったのではないでしょうか。

   「『あたりまえに生きたい』(略)
    それは幸せを知る者の言葉だった」  (「終りよ」)

   「変りばえのしない
    生えたままの一本の樹は
    風もない午後
    しきりに葉を散らしている」  (「自分」)

 毎日の生活の中で目にする「変りばえのしない」樹に美を見い出し、風に吹かれる葉ではなく、自ら散らそうとする擬人化された樹に彼の生き方を含んだのだと僕は思います。
 国家や社会から死ぬことを要求されながらも、生き抜かれました。

    「すみません
     死んだ方がよいことになっているのに
     私はまだ息をしています」   (「すみません」)

 と言いながら、したたかに自らの「生」を生き抜かれました。そして、生命維持装置を付けずに、「自然」な、「あたりまえ」の死に方を貫かれた島田さんです。

    「眠れない夜も
     波は岸を打ちつづけた
     越えられぬ過去は
     越えられぬことにおいて私なのだ」   (「岸打つ波」)

 自分の力量をはるかに越える自己や自然の中で、僕たちは一体どのように生きていったらいいのでしょうか?
 まだ、そのことは分からないのですが、何となく島田さんの心の足跡をたどっていけば、見えてくるかもしれない、と僕は思っています。 


ぶな9号写真1
『ぶな』9号の表紙。題字は同じく長島愛生園の入所者だった伊奈教勝さん(僧侶、1922〜1995)によるもの。
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『ぶな』8号の原稿

  今回は京都の論楽社(ろんがくしゃ、私塾、出版など)のサークル交流誌『ぶな』8号(1997年5月10日発行)に掲載された上島聖好さんの文章を紹介します。当時興野も含めた論楽社の一行は、岡山県にあるハンセン病療養所・長島愛生園を何度も訪ね、入所者の方たちの話を聞きとって本にしたところでした。ですので『ぶな』8号の誌面全体が本の感想集となっています。
 上島聖好さんの文章もその流れで書かれたものです。長島愛生園は瀬戸内海の長島という小島にありますが、同じ長島にもうひとつハンセン病療養所があり、それが文中の邑久光明園(おくこうみょうえん)です。また文中には「療養所の統廃合」のことも出てきていますが、これは高齢化に伴って入所者数の少なくなった療養所を国がつぶしてしまい、どこかの療養所に統合してしまうのではないか、という心配を指しています。過去のハンセン病差別政策はすさまじかったので、国はなんでもやりかねないのです。その後「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」に入所者たちが勝訴し、政策が大きく変更されたとはいえ、これはいまなお残る懸念です。
 なお、文中の藤田省三さん(1927〜2003)は思想史家です。既成の学問の枠にとらわれない膨大な知識と物事の本質に迫る直観力を持っておられ、上島さんは師と仰いでいました。

生きること
                      上島聖好
 
 3月2日、藤田省三先生を訪ねた折のこと、先生は私たちにこう問うた。
 「彼ら(ハンセン病のため終生強制隔離に遭うた人々)のこれからの課題はなんだとおもうかね。」
 私は一瞬たじろぎながら「ただ生きてあること。歴史の証人として生きつづけること。」と答えた。
 「当たらずとも遠からず、かな。もっと短く言うんだよ。生きること、とね。」
 先生は長椅子に体を横たえ、人工肛門の上に電気あんかを置き、生の痛みに耐えていた。
 生きることを、生きぬいた人に出会いたい。それが長島愛生園に通いつづけた私の願いであった。悪法の有無を問わず、たまたま投げ出された場所を耕す精神を知ってみたかった。
 3月31日、邑久光明園で牧野正直園長と会った。牧野さんは「らい予防法」廃止の推進力になった人のひとりである。長島愛生園に17回も通いながら、同じ長島にある光明園を訪ねたのは初めてであった。
 「療養所の統廃合? それはしないでしょう。厚生省はそう約束したんだから。もししたら、そのときは闘いますよ。」
 あっさりと牧野さんは言う。
 あ、いいな。
 そのときは、私も闘おう。おそれることなく。生きることを生きぬくとは、そういうことではなかったか。
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『ぶな』7号の原稿

  今回は論楽社(ろんがくしゃ、私塾、出版など)に集まる人たちのサークル交流誌『ぶな』7号(1996年10月10日発行)に掲載された上島聖好さんと興野の原稿をご紹介します。上島さんの文章「地水火風空」は、このブログ上の別の記事(「花の寺だより13号 2007年3月30日(金)」)の最後の部分に掲載されていますので、そちらをご参照ください。上島さんが晩年に至るまで愛着を持っていた文章です。
 一方、興野の原稿「医学部へ」は作家の島比呂志さん(しまひろし、1918〜2003)にあてた手紙です。本文中に島さんについての説明がないので、ここで簡単にまとめておきます。島さんは1947年にハンセン病を発病し、以後の52年間を鹿児島県にあるハンセン病療養所「星塚敬愛園」で過ごします。詩人の大江満雄(1906〜1991)に師事し、文芸同人誌『火山地帯』を主宰しながら活発な文筆活動をされますが、それは入所者の人権回復運動と一体のものでした。差別と人権侵害に対して全般的にあきらめムードの強かった入所者たちのなかで、例外的と言えるほどに島さんは徹底して国の医療政策の間違いや差別の非人間性を指摘しています。
 その長年の闘いの結果として、1998年「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」の発起人そして第1次原告団の1人となります。「裁判をしてもまた敗訴して虚無感が残るだけだろう」といったシニカルな目で僕は眺めていたのですが、みるみる原告団の人数は増えていき、国の責任をはっきり断罪する奇跡の勝訴となったのでした。これが多くの入所者の気持ちの上での人権回復につながったことは疑いありません。いくら人から冷笑されようと信念を貫いた島さんの勝利でした。
 島さんはその後1999年に療養所を出て「社会復帰」され、その地で2003年に84歳で亡くなられています。僕は上島聖好さん、虫賀宗博(むしがむねひろ)さんと共に、1995年に星塚敬愛園にお訪ねしたのでした。ハンセン病の後遺症のため目や腕に障害のあった島さんは、ぶ厚い虫眼鏡に目をすれすれまで近づけて1字1字拡大して読み、また右の親指1本でペンを持って原稿を書くのでした。島さんからの手紙はふるえながらの異様に迫力のある字で書かれていたことを覚えています。

医学部へ   興野康也
 島比呂志様
 お元気でいらっしゃいますか、島さん。僕たちは8月17・18日に長島愛生園(注1)へ行ってきたばかりです。近藤宏一さんにはいつも元気づけられます。視力を失いながらも、舌読し、試行錯誤で一からハーモニカ楽団を育ててこられた方です。
 島さんでも近藤さんでもそうですが、僕はこの1年半、論楽社の上島さん、虫賀さんの手でいろんな方に出会わせていただいてきました。澄んだあたたかな心をもって仕事をなさっている方々に引き合わせていただいてきました。山形で稲刈りを手伝わせていただきましたし、岐阜のハムづくり工場を訪ねもしました。
 また発送作業や『病みすてられた人々』づくりを手伝わせていただき、人をはげます仕事の現場も見せていただきました。
 そうしたひとつひとつがすこしずつ心に積もっていきました。言葉としてあらわれるのはずっとあとになりますが、しだいに「なにか、お返しがしたいなあ」と思うようになっていきました。
 今年の六月に、今谷千歳(いまたにちとせ)さんという愛生園で保母さんをなさったおばあちゃんから「人間は、人間これいかなるものかをということを知るために生かしめられているのよ。すべての学問はそこに通じていないといけないのよ」という言葉をいただきました。また虫賀さんからは「具体的に人をはげます学問、実学がいいよ」とすすめていただき、上島さんからは医学をすすめていただきました。そしてお二人が論楽社万来軒という診療所や合宿所のある小さな広場のような場所をつくりたいとおもっておられることも聞きました。その時パッと「人と接し人のいたみをとる仕事をして、しかも医療という僕にしかできない仕方でお二人に返していければ」とのおもいが僕の中に広がりました。
 僕は医学を学ぶことにしました。来年、京都府立医科大学を再受験しようとおもっています。
 父親とは、僕が自分の進路についてきちんと説明していなかったために、小さなケンカがありました。一晩家出をしたこともありました。ですが、僕がおもっていることをまっすぐに伝えたところ、「まあ、やってみろ」という感じで黙って様子を見てくれています。
 僕が医学をしっかり身につけ、人の役に立てるようになるのが何年後になるのかわかりません。
 ですが島さん、きっとその時まで長生きしてください。
 おからだおだいじに。元気でおすごしください。

(注1)長島愛生園。岡山県にあるハンセン病療養所。瀬戸内海に浮かぶ長島という小島には2つの療養所があり、そのひとつ。全国に13ある国立ハンセン病療養所のうち、最初に作られた(1930年)。興野を含む論楽社の一行は、1994〜1997年頃を中心に長島愛生園を集中的に訪ね、入所者の方たちの話を聞きとって『病みすてられた人々』(論楽社ブックレット)という本を作った。
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『ぶな』6号の原稿

 今回は僕が京都で出入りしていた論楽社(ろんがくしゃ、私塾、出版、講座開催など)のサークル交流誌『ぶな』6号(1996年6月10日発行)のなかの上島聖好さんと泉谷龍さんと興野の文章をご紹介します。僕たちはこの時期、論楽社の仲間とハンセン病療養所・長島愛生園を何度も訪ね、入所者の方のお話を聞き取っていました。しかし1995年10月と12月に入所者の島田等さん(詩人、思想家)と伊奈教勝さん(僧侶。本名を名のり各地で講演)が立てつづけに亡くなられました。ですので『ぶな』6号の誌面全体がお2人への追悼になっています。上島さんの文章も島田等さんと島田さんの詩集『次の冬』についてのものです。
 泉谷龍さんと興野の文章は雑誌『思想の科学』の終刊号に掲載されたものです。『思想の科学』を50年間続けた中心人物の鶴見俊輔さん(哲学者)はハンセン病療養所を早くから訪問し、入所者の人たちの苦闘を支援してきた人の1人で、入所者の文芸誌の選者などもされていました。そしてのちに鶴見さんの教え子の若者たちが療養所に通い、支援活動をするようになったのです。その流れがあってこそ、論楽社一行も長島愛生園に行けたのでした。

冬の果て
          上島聖好
 今年の冬は寒かった。屋根に積んだ60センチの雪に、論楽社の年をとった家は悲鳴をあげた。鬼瓦が四ヶ所落ち、いたるところ瓦が割れた。樋もやられた。ひさしも傾いた。
 一月の終わり、二人の年をとった瓦職人さんが修理にやってきた。登るのに、楓の枝がさわるという。虫賀くんが切った。しばらくして、ふっと気づくと、ぽおとっぽおとっと水のしたたる音がする。見ると、枝の下のコンクリがまあるくぐっしょりと濡れている。見上げれば、切断された楓の枝から樹液が露を結ぶ。なめると、ほのかに青く甘い。
 乳のみ子を奪われた母のようで、いたいたしくせつなかった。すぐにとって返し、器を置いた。たまった樹液を煮て紅茶にいれたり、それでリンゴを煮たりして楽しんだ。寒さも底を打ったころ傷は自然と癒え、樹液はやんだ。
 厳寒のときに、いのちは赤あかと燃えることを知った。冬はなんと豊饒で絢爛たる季節であることか。
 『次の冬』をおもった。島田等さんの名づけの深さにおもいいたった。1994年3月に『次の冬』は出版された。それから一年半後に島田さんはすい臓がんで逝く。がんのうちでもすい臓がんはもっともいたみが厳しいときく。ひょっとしたら、『次の冬』を書き終えたころ、すでになんらかのいたみがあったのではないか。
 島田さんの生の果てに生まれた言葉、『次の冬』。
 言葉は待つものであることを私は知った。
 1947年、長島愛生園に強制連行され、ほどなくして島田さんは結核になる。日がな一日横たわり、ただ波の音だけを聞き暮らし島田さんは待ったはずだ。待つこと50年。
 何を。
 次の冬を。あつく、あつく。おもいがあつければあついほど、かたちはしずまっていく。
 いたみが激しければ、かたちはしずかだ。島田さんはじつにひっそりとひそやかに、末期がんのいたみに処した。それが島田等さんの生のかたちであった。
 このところ毎晩のように私は猟奇殺人事件の夢を見る。郊外のすさんだ工場跡、高架下、鉄道のひきこみ線などにごろりところがる死体のいくつか。
 恐怖が走る。
 どう処したらいいのか。目覚めて私は考える。
 ああ、そうだ。こんどその夢を見たら、私は死体から目をそらさず、口も鼻もおおわずに、しかと見よう。めった打ちにされた顔の崩れ、おおよそ人間のていをなさない死体の前に立ち。誰が、どうして、みすみす殺されたのかを見届けよう。そうして、できるなら花いちりんを捧げよう。
 あ。島田さんの遺稿集のタイトルは『花』であった。『花』と名づけねばならなかった島田さんの必然にようやく私は目が届きはじめた。必然は無念でもあったのだった。
 私の遍路旅ははじまったばかりである。

『思想の科学』96年5月号より
セルフ・ポートレート
今年も行かせて、愛生園
                  泉谷龍(19歳)
 真っ青な空に吸い込まれてゆく白い煙。昨年の10月にガンで亡くなられた島田等さん、その二ヵ月後に肺炎が元で死去された伊奈教勝さんの両方の火葬に立会いその煙をボーっと見上げていました。これからは島田さん、伊奈さんなしで生きて行かなきゃならないんだ……。
 ぼくがお二人に初めてお会いしたのは一昨年。たった一年半余りのお付き合いだったのですが、生涯絶対に忘れることがないであろう出会いと別れでした。
 大学受験もやっと終わったその年の春、島田さんの詩集『次の冬』の出版元の方から愛生園に行こうと誘って下さったのでした。愛生園とは、主に昭和の初期から戦中にかけて「らい」病であるとされた人たちが終生強制隔離を余儀なくされて押し込められた、いわれのない差別と偏見の集約場所なのでした。「らい」は普通の免疫力のある成人にはおよそうつることなどない病気です。まして今の愛生園には、菌陽性の人はいません。そんなことも知らない僕は初め、予防注射を打ってから行かないと、と考えたのでした。とんでもない、とんでもない。行ってみて、自分の孫のように僕を歓迎して下さった島田さん、伊奈さん、その友達の方の前に何の防衛も必要ありませんでした。私の緊張は郷愁に似た愛着へと変わって行きました。
 島田さん、伊奈さんは愛生園の中でも特別な人たちだったのかもしれません。これ以上無いと思われる程の差別を身に受けながらも、自分のポリシーを失わなかった人です。差別のある社会がいかに病んでいるのかを島田さんは力強い文体で本にされました。伊奈さんは、藤井善という仮名で生きてきた半世紀以上の自分の殻を打ち破り、本名を名乗ることで、絶縁されていた家族との絆を回復されました。愛生園から発せられた声は、多くの人々の内側にある差別意識と偏見に変革を迫りました。世の中に大切にされない人なんてあっちゃいけない、そして僕も大切にされていいその内の一人なんだって痛感しました。
 いつもお世話になってばかりのまま、ついにご本人方にちゃんとお礼が出来ずに別れてしまいました。熱っぽく語って下さった伊奈さんの一言一言や、病床で私の手を握り締めて下さった島田さんの手の感触を一人でも多くの友達に話していくことが「返礼」になるのかなと思っています。

『思想の科学』96年5月号より
セルフ・ポートレート
ブナの森のように
                  興野康也(19歳)
 高校一年の夏、国語の先生に連れられ京都岩倉の地にある一軒の日本家屋を訪ねた。大人から子供まで同じ座敷に座り、同じ目の高さからの語りに聞き入っていた。僕は惹かれるものを感じ、この講座に通うようになる。
 この「論楽社」との出会いが全ての始まりだった。
 「論楽社」は虫賀宗博さん・上島聖好さんのお二人の手で営まれている小さな出版社である。教育の場であり、人々が楽しく語らい、現在(いま)を生きることを深めあい、たましいを耕し合うところである。そしてその活動の一端に僕達「ブナの森の会」が位置している。
 「ブナの森の会」は論楽社を通じて知り合った人々の交流会である。ブナの木立のように一人一人が豊かさと与える力とを持って独り立ちしている集団でありたい。との願いからこの名前を付けた。主に「らい」の問題について考えており、瀬戸内海の小島にある「らい」者の終生強制隔離収容所―長島愛生園をこの二年間に十一回訪ねている。
 活動の中心は僕達大学生であるが、行動力、運営力共にまだまだであり、論楽社のお二人に頼りっぱなしの現状である。
 本当に多くの人々の助けと支えによってブナは少しずつ育ってきた。
 僕達は長島愛生園をもっと知ってもらいたい、訪ねてもらいたいとの思いから手編みの小冊子を作ることにし、そのため一九九五年八月、論楽社の自転車置場でバザーを開かせていただいた。お二人の呼びかけで全国からたくさんの方々がたくさんの品々を送って下さり、バザーは大成功。本当にありがたくありがたく思う。
 バザーを運営していく中、僕達の集団としての脆弱さが僕達自身の内発性の欠如にあるのだとわかってきた。個が輝いて初めて集団は存立しうる。このバザーは共同性の確認であり、ブナの森の会の再出発点である。
 現在論楽社ブックレット「病みすてられた人々」を編集中である。助けられ助けられての共同作業で生まれた愛生園へのいざないである。少しでも長島の「先生」達への返礼になればと思う(お問い合わせは〒606 京都市左京区岩倉中在地町148 論楽社 電話・FAX075-711-0334まで)
 僕の通う東京大学の片隅に一本のシラカバの木が生えている。汚れた大気をも背負い立つその姿に強い意志力と受容の精神を見る。僕自身もブナの森の会もこのように健やかに伸びてゆけたらと思う。

『病棄て−−思想としての隔離』
写真1  島田等さんの著書『病棄て(やみすて)−−思想としての隔離』(ゆみる出版、1985年)。ハンセン病者を社会から隔離し、遺棄して絶滅をはかった差別思想が思想史的にえぐり出されている。以前は批判の鋭さが印象に残ったが、今回読み直して心に残ったのは、ハンセン病医療政策の批判をとおしてあるべき医療の姿が描き出されているということである。「ハンセン病」を「統合失調症」に置き換えれば、直ちに精神医療のあるべき姿になる。この意味で『病棄て』はハンセン病問題を越えており、より普遍的な医療問題を描きだしている。この点で古典と呼ばれるにふさわしい本である。

『次の冬』
写真2  島田等さんの詩集『次の冬』(論楽社ブックレット)。島田さんの晩年の平静な境地が淡々と綴られている。ただ単なる状況の受容ではなく、差別とたたかった末に獲得された穏やかな気持ち。それは自分たちハンセン病者の苦しみを特別視することではなく、この世界の悲惨さの一部を担うんだという覚悟のうえに成り立っている。言葉のうまさを見せつける詩ではなく、島田さんの到達した人間性の深さ広さを感じさせる詩集である。

『思想の科学』終刊号
写真3  泉谷龍さんと興野の文章が掲載された『思想の科学』終刊号(1996年5月号、通巻536号、思想の科学社発行)。50周年記念号でもあり、全336ページと厚みがある。特集は「日本人の日本体験−−高度成長から何を受け取るか」。この号には編集後記も含めて100人近い人たちが文章を寄せている。多数の書き手や研究者を育ててきたこの雑誌を50年間継続してきたスタッフの方々に心から敬意を感じる。ちなみに原稿料も3000円いただけた。
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『ぶな』5号の原稿

  今回は僕が京都で出入りしていた論楽社(ろんがくしゃ、私塾、出版、講座開催など)のサークル交流誌『ぶな』5号(1995年10月25日発行)のなかの上島聖好さんと興野の文章をご紹介します。当時論楽社に集まる仲間たちと集中的にハンセン病療養所・長島愛生園を訪ねて、入所者の方たちのお話を聞き取っていました。そしてその成果を本にするためにバザーを1995年8月に開いたのです。また8月6日には長島愛生園から宇佐美治さんと金泰九(キムテグ)さんをお招きしてシンポジウムを行っています。ですので文中にハンセン病に関連する話題がたくさん出てきています。
 また8月5日にはあわせて論楽社で講座「言葉を紡(つむ)ぐ」が開かれ、講師の桝本華子さんのお話を聞きました。華子さんは内村鑑三(1861―1930、キリスト者、著述家)門下生たちが山形県西置賜郡に作った日本一小さな高校「基督(キリスト)教独立学園高校」の合唱の先生です。なので文中に独立学園のことも多く出てきています。

ふくろうは飛ぶか
             上島聖好
 1993年2月11日、島田さん宇佐美さんに案内されて、はじめて私は長島愛生園の納骨堂の前にたった。私はこれといった前準備もなくおふたりに会いに行き、導かれるまま万霊山(ばんれいざん、注1)に登った。
 万霊山に立ち、てらてらと光る瀬戸内の海をみたとき、聖フランチェスコの「アッシジ」(注2)はここだと思った。私はここから出発しなければならないとおもった。
 なぜそうおもったのか。
 ただ、誰もが立つ生の岐路に立っていたこと。「破産」し「難破」しかけていたこと。ただそれだけである。
 『次の冬』(注3)の表紙をうけとったとき、「ああ、あのときの光」とつぶやけば、「そうですか。ならば、うれしい。ぼくは瀬戸内海の光を描いたのです。」と佐々木マキさん(注4)は言った。
 ここはどこか。
 きょう私はらい療養所の納骨堂を「滅亡の種族のシンボル」と言っていた人がいることを知った(『来者のこえ』島比呂志)。1951年、秋山素男氏の言という。
 ここを掘れ。ここを掘れ。
 「現代の『ミネルバのふくろう』はそのように飛び始める。」(『全体主義の時代経験』藤田省三)
 導かれるままに。
(1995年9月14日記)
(注1)万霊山。長島愛生園の一角にある小さな丘。頂上に納骨堂がある。ハンセン病の差別のゆえに故郷に埋葬されなかった多くの入所者の遺骨が納められている。
(注2)聖フランチェスコ。1182?−1226。キリスト教の聖人、イタリア中部のアッシジで清貧の生を送った。
(注3)『次の冬』。文中に出てくる島田等さんの詩集。論楽社ブックレットの1冊。
(注4)佐々木マキ。漫画、絵本、イラスト、挿画など多面的に活躍。『次の冬』の表紙絵を描いた。

「夏祭り・バザー」についての個人的記録
             興野康也
 レポートを書いてほしいと頼まれたのですが、それを3通の手紙に代表させることをお許しください。

 8月5日、6日には木陰になった論楽社の自転車置き場でバザーが行われました。
〔手紙1〕ぶな(注1)のみなさま        1995.9.19
 論楽社の庭の手入れのために切られた木の幹を、清水くん、虫賀さん、僕の三人で汗をタラタラたらしながらセッセセッセと切り、いびつなこしかけをつくりました。「やった、できたぞー!」とばかり缶ビール一本を三人で分け、それからバザーの会場(自転車置き場)に運んでいきました。
 バザーの前日のできごとです。
 こういうふうにしてできた「手作り」バザーでした。
 たくさん届けられた品物の開封・保管・整理・値付け・配置……。みんなよく分からないけど、何とかできあがっていく。一人一人の出来ることは限られているけど、それを組み合わせてやっていく。
 “共同”の感覚。「なぜ『ブナの森の会』という集まりがあんの?」という問いに対する答えの一端を見ることができたなっておもいます。
 ですが、「やっぱりみなさん論楽社のためならっていうことで、これなら売れるという品を送ってくださっていますよ。」という深野千恵子さんの言葉通り、バザーの成功の理由は、品物を論楽社に送り届けてくださった方々のまごころの一点に尽きます。
 「葬式のようだ」と評された会場で、お客様がたくさん買っていってくださったのも、そのためです。
 ほんとうに。そしていっぱいの寄付金。
 パンフレット作りは、いろいろ変わりながら進んでいます。待っていてください。
 二日にわたってたくさん買っていってくれたおっちゃんありがとう。
                 おだいじに
                     興野康也
(注1)ぶな。論楽社の交流サークル「ぶなの森の会」のこと。

 8月5日、桝本華子さんの講座「この世は天国座――桝本うめ子(注2)・桝本忠雄(注3)の精神史」が桝本うめ子さんの書展と同時に開催されました。
 華子先生はうめ子先生と内村鑑三さんの出会いから生徒たった三人で始められた基督教独立学園が現在までどのような困難にぶつかり、のりこえてきたか、そしてその中で自分がどれほど魂を清められてきたかを語られました。聞く側が退屈しないように多くのエピソードを笑いでもってはなされる姿が印象的でした。
 最後に結論として、内村鑑三、桝本うめ子・桝本忠雄(それから桝本華子)の三人が共通して持っていたものとして三点挙げられました。

〔手紙2〕桝本華子様        1995.8.28
 お久しぶりです。僕は8月5日、6日にバザーの売場にいたもののうちの一人である興野康也といいます。
 お元気でお過ごしでしょうか。バザーについてのお礼はお書きしたのですが、全然書き足りなくて、今日突然お手紙を書こうと思いました。
 華子先生の講座、僕はバザーにいたこともあり(また上島さんからテープをお借りしようと思ってます)、また自分の人間としての深さ太さがまだないこともあり、今の自分には講座全体を視野に収めてその底を流れる水脈を見つけ出すことは出来ないと考えております。
 にもかかわらず、(1)ほんとうに大切なことを知っていた
         (2)そのゆえに捨てることができた
         (3)どんな人とも対等に向かい合った
という三つの言葉は心に刻まれました。
 「心に刻まれた」と書きましたが、今の僕の段階では、単に「記憶された」ということにすぎません。そのことを上島さんから「捨てる」ということを問われることで意識していきました。
 なぜ「捨てる」なのか……。
 この問いを通じて、山形と長島が結びつきます。詩人の島田等さんも、やはり「捨てる」ことを問い続けたんです。
 僕は上島さんからも島田さんからも愛され、また(僕自身が意識するしないにかかわらず)問われてきました。
 しかし僕にとっての「捨てる」とは、豊かさゆえに余ったものを捨てるという以上の意味を持っておりません。まだまだ長く長く考えていかなければだめだと思っております。でも、長く考えるべき問いを(ほんとうは自分で見つけるべきなのですが)与えられたことがうれしい。
 僕は華子先生にそのことを感謝したい。
 上島さんは、うめ子先生、忠雄先生、華子先生の言葉によってますます励まされ、高められていると思います。言葉を得ることは世界を得ることであり、生を得ることでもあるんだということを考えます。
 上島さんから「もっとアンテナを磨いて」と言われ、その通りだと思っています。今のままでは僕は華子先生の言葉を受け取ることができません。
 いつの日か、僕が華子先生ときちんと向かい合ってお話ができることを楽しみにしております。お元気でお過ごしください。
           ありがとうございました 興野康也
(注2)桝本うめ子。1892−1992。書家。キリスト者。独立学園で100歳まで書道の教師をつとめた。
(注3)桝本忠雄。1914−1980。うめ子さんの次男。華子さんの夫。やはり独立学園で教員として働いた。

 8月6日は囲炉裏端シンポジウム「NAGASHIMA――長島愛生園で生きる日々」が行われました。愛生園からわざわざ来ていただいた宇佐美さん、金さんの自己紹介に始まり、京都新聞の吉田さんの質問によって三人のお話は「らい」の個人的歴史から、差別の思想史・時代史へと深まります。

〔手紙3〕宇佐美治様・金泰九様・吉田賢作様   1995.9.18
 昨日は台風。雨戸を閉めていても朝からエンエンゴンゴンうなり声がやみませんでしたのに今日はすっきり快晴。久しぶりに布団が干せたので、夏ぶとんと冬ぶとんを入れ替えました。
 「あれだけいた蝉が、いなくなってしまったなあ」と友だちと話しておりましたら二時頃ニイニイゼミとツクツクボーシが一匹ずつ一鳴き、「鳴きのこしかな」っとおかしかったです。
 今日、8月6日の論楽社での講座のテープを聞きました。
 遅い再会です。
 驚き、そして恥ずかしくなりました。自分には聞こえてこなかったことがたくさんありましたので。
 長島愛生園――終生強制隔離は差別の一つの極限であり、そうであるからこそ他の問題(同和問題・在日朝鮮人問題)とも同根であること。これらを産み出した社会的・思想的な背景に目を向けていかないと、近代日本の歩みは全然見えてこないこと。限られてはいるが現在得ている自由や権利というのは激しい戦いや無数の敗者の上にあること。
 三人がはじめて出会う一人を前にして、自分の経験・自分史の一端を語り合うという形で、これらのことが編み上げられていったことに強くひかれます。うれしいなと感じます。
 「自分はあの人より優秀だから……というところに差別が生まれるのではないか。ではどうやって克服するかだが……。」
 「本来ここが差別というものを深く考えていく出発点である。」
 「いろいろな差別を通じて一つでも二つでも教訓を得て、『民族浄化』などの形で残るファシズムの思想に立ち向かってほしい。」
 ありがたくいただきました。友人は鼻をすすり出しました。(僕を含めてですが)朝の寒さにカゼなどひかれないでください。またお話を聞かせてください。
                 おだいじに
                     興野康也

地下水への旅
             上島聖好
 10月7日朝8時、福島駅到着。大阪から11時間バスに揺られる。だまって乗ったら目的地へ着く。こんなに楽なことはない。
 いくつもの渓谷をまたぎ山をこえ、列車は独立学園の地へとむかう。小国(おぐに)に降り立つと、是永さん(57)という方が迎えてくれた。この4月から女子寮の舎監をしている由。岡山から移り住む。3人のうちのこどもふたりを亡くし、たまたまのこと学園と出会う。
 小さな建物が学園であった。器ではないのだな。精神のかたちは必要であるが、かたちがすべてではない。「これが学園です」と言葉に出したとたん「学園」になった。そういうひっそりとした建物(かたち)が、うれしい。
 華子先生と手をとりあって再会をよろこぶ。『この世は天国座』(注1)の本をつくりたい。そのお願いと、忠雄先生についてのお話をさらにきくことが今回の旅の目的のひとつであった。入れ替わり立ち替わり、卒業生がみえる。
 「忠雄は、“お人好し”をつらぬこうと言ってました。こじきになって華子に迷惑をかけるかもしれないがやってみよう、と。それどころかそのおかげでわたしはいまほんとうに幸せです。」
 大内くんが東京からクルマで立ち寄って参加。華子先生に謝して、山形の斎藤たきち・幸子さん(注2)のところにむかう。途中おきのくんを拾う。クルマの免許を取りに彼はたまたま山形にきているのであった。
 斎藤さんは私どもに稲刈りをさせてくれるという。田植え、稲刈りの論楽社ブナの森の会の旅。これで大内くんは3回目。私たちははじめて。
 一反を刈らせていただいた。それにしても、ひとつひとつなんとていねいな所作で田仕事は組み立てられているのだろう。たきちさんは60歳である。働く姿のすてきなこと。見惚れる。幸子さんの料理はすばらしい。私は幸子さんの料理と人柄にしんから癒された。
 次の日、幸子さんが、山形駅まで送ってくださる。
 「行ってらっしゃい。」
 その言葉に涙がこぼれる。
 行ってらっしゃいがあるならば、ここは私の帰る場所。ぐるりを山に囲まれた美しいまち、山形。
 私はぞんぶんにいのちの水をいただいた。
(1995年10月13日記)
(注1)「この世は天国座」。桝本うめ子さんの言葉。
(注2)斎藤たきち、斎藤幸子。夫妻で山形市内で「斎藤農園」(990-2342 山形市門伝1039-3、電話ファックス023-645-0373)を営む、果樹栽培を中心とする複合農業を行っている。斎藤農園からの果実にはたきちさんの手書きの手紙のコピーが添えられている。
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『ぶな 創刊号』より

 今回は興野と故・上島聖好(うえじましょうこう)さんの1994年の文章をご紹介します。上島さんが京都で共同運営していた「論楽社」(ろんがくしゃ。私塾、出版、講座開催など)のサークル交流誌に掲載されたものです(『ぶな 創刊号』、青山哲也編集、論楽社ぶなの森の会発行、1994年)。
 どちらの文章も国立ハンセン病療養所・長島愛生園の入所者の方たちとの交流をテーマにしています。ハンセン病はかつて「らい病」と呼ばれ、病者は稀代(きだい)の悪法「らい予防法」のもと、強烈な差別を受けてきました。親族が差別を受けないように名前を変え、社会的には「死んだ」という扱いになって、ひっそりと生き延びてきた方も多かったのです。
 そんな入所者の方たちの過酷な体験談には人間を変革する力があり、「ぶなの森の会」メンバーにも進路を変えた人たちが何人もいました。興野もその一人で、医学の道に進めたのは長島愛生園を何度も訪ねることができたおかげです。
 入所者の方たちにはもう亡くなられた方もいますが、感謝の思いでいっぱいです。「ぶなの森の会」の仲間たちにも。


第二特集 愛生園訪問記
旅をふりかえって

               興野康也   

 12月18日朝7時〜8時の間ごろ、京都駅の改札口に着いたところから僕の記憶は始まります。まわりを見ても知らない人ばかり。ひょっとして場所と時間を間違ったのでは(僕はすごく多いです)という不安が心のすみをよぎる。虫賀さんたちが来て他の待っている人がいっしょに行く人だと分かっても僕はこの時抱いた誰と、どこへ、何をしに行くのかといったことへの漠然とした不安を電車の中にまで持ちこんでしまいました。なんとなくいやな雰囲気がしばらく続いてから砂場さん(注1)、上島さん、トミジョーさん(注2)といっしょに座り、しゃべり出せたような気がします。このとき一つだけ覚えているのは、上島さんが「人はたてまえで生きていくべきだ。」というようなことを言われたことです。そのとき、なるほどこれが論楽社の原点になっているんだなあと思いました。
 邑久(おく)駅(注3)に着き、そこからは両側に田んぼの続くなかをバスで進んで行きます。上下の揺れも加わって僕は車酔いにすっかりなりかけていました。そんな中でも虫賀さん(注4)は山の楽しさを説明してくださいました。山頂から見る壮大な日の出、快い疲れなどいろいろありましたが、その中でも自然のつくるハーモニーの話は、僕が虫捕りに夢中だったころのことを思い出させてくれました。涼しくさわやかな空気、あの独特の生命の営みにつつみこまれていくような感じ、そして空がかげって木々がさわぎだしたときの不安……どんどんわいてきます。もう一つおもしろかったのが深い思いの「映像でしかできない」表し方の話です。詩と似ているなと思います。いよいよ長島へとかかる橋(注5)をわたるとき、僕は何でもない小さな橋だと思いました。この思いは帰りにはすっかり変わっていました。
 戸惑いながらも宇佐美さん(注6)、島田さん(注7)に会って自己紹介。そのあと島を案内していただいたのですが、島の第一印象は「静かだな」、それから「いいとこだな」でした。それが歩きながら話を聞いていくうちに、そのきれいさ、しずかさがかえってぞっとするような冷たさももっていると感じ始めた。正直にいって、僕は島の人々が強いられてきた苦しみをわかろうとするばかりで全く何もわかっていなかったのです。たださすがに自殺者がよくでるという崖の上に立ってみたときにはこわかったですね。僕は高いマンションやビルで下を眺めるとき、よくこんな所から飛び降りられるなと思いますが、この時ばかりは飛び降りること以上のものに追いつめられることを考えると恐ろしかった。でも一番怖かったのはそれをあっさりと言ってしまう宇佐美さんでした。「さすがに何度も死に直面している人は強いなあ……そうか、死かっ」。
 死の匂いが島を覆っているなと思い出すと、静かな部屋で一度時計の音が聞こえだすとその音が耳について離れないのと同じように、この考えもなかなか自分から離れません。それがうすれてきたのは、一つさびしく咲く花を見つけ、それから上島さんが日の光がぽかぽか照ってくるのであたたかいと言われたときでした。寂しいところにも花は咲くし、寒い冬でもあたたかい光がふりそそぐ。あたりまえのことですが、ほっとしました。
 資料館(注8)にも行きました。いろんなものがありました。愛生園も高齢化が進んで放っておくと貴重な資料がどんどんなくなってしまう。これをくい止めようとする宇佐美さんはすごいです。「過去に背を向けるものは、現在にも目を向けていない」(注9)というあの言葉、まさにその通りだと思います。置いてあった物のことはあまりわからなかったですが、一体の像がありました。誰かが、「泣いているね」と言いましたが、本当にその顔は険しいけれども悲しいものでした。この像が全てを語っているなと思いました。
 次の記憶は夕食の時へととびます。僕にできることは食器運びくらいしかなかったのでそれをしました。しばらく食べてから、自己紹介。僕はいい気になってつまらないことばかりしゃべってしまいましたが、みなさんは一人一人がいろいろな思いを持って集まっているんだなあと思って恥ずかしかったです。そう、みなさんは「勉強」をしに来られていたんですね。そんな中で僕がふと言ったことを虫賀さんと上島さんが大切なことばにまで高めてくださったのは恥ずかしかったですが、うれしかったですね。お二人が場の流れに常に気を配っておられる姿は印象的でしたよ。
 僕は島田さんの隣に座っていました。初めは何を話していいかわからなかったですが、島田さんは僕のことを気づかってくださいました。何となくへだたりがあったのですが、僕がこのとき島田さんと握手できたことで少しずつうちとけてきました。時には言葉だけよりも手と手の方がお互いの気持ちをよく伝えてくれると思います。(その後も僕は調子にのって握手ばかりすることになった。)これがきっかけでその後も島田さんは僕にいろいろしてくださいました。宇佐美さんも隣に座っておられたのですが、すごい人ですね。何よりもまず、おもしろい。一人一人の自己紹介をフォローなさっていましたし、それに昼の島の案内の時から思っていたのですが、知識量がすごいです。そして何ともいきのいい反骨精神をお持ちだった。阿部さん(注10)も面白い方で、すぐにいい人だなとわかる人でした。それにお二人のコンビでびしびしと辛口のトークをなさるのはとてもおもしろかったですね。ただお二人の話にも僕がわからないことがたくさんあったのは残念でした。
 そのうちにトミジョーさんの歌が始まりました。今までは話をしていておもしろい人だな、くらいにしかおもっていなかったのが、この強烈な自己紹介で180度かわってしまいました。全身からエネルギーがほとばしる叫びだったですね。何ら臆することなく自分を爆発させることができる。これはすばらしいことです。僕は自分が小学校のころ、音楽とくに歌が大きらいだったことを思い出して恥ずかしいというか情けないような気持ちになりました。音痴ではなかったのですが高い声がでなくてみんなに笑われるのがいやだったのでしょうか、トミジョーさんがうらやましかったです。あれは最高のプレゼントだと思う。それにブルーハーツの歌をうたっておられたことがさらに印象を強めました。これも小学生のときですが、あまりにも歌を知らない僕に、友だちがいい曲だからとわざわざ歌詞も自分で写しとってくれてテープといっしょにくれたものの中に「リンダリンダ」も入っていたんです。僕はいまだに邦楽で知っている曲はこのときのものだけです。
 歌とおしゃべりとが長いこと続きました。とてもいろんなことを聞きました。あとでふろの中で虫賀さんが食事から6時間もしゃべったんだと言われて驚きましたが、それよりも驚いたのは行ったのが13人、案内してくださったのが3人、合わせて16人ですから、一人20分ちょっとでこんな時間になることでした。ほとんど初対面のような人々が集まり、交流してまた別れていく、難しいことですがこんなことができたらうれしいですし、この時もやっぱりうれしかったですね。
 でもみんなでわいわい言いあっているその同じ時にも島田さんの一人静かにたたずんでおられる姿があった。なにか悟りきって涅槃の境地におられるかのようだった。でもまわりの話にはじっと耳を傾けておられる。僕はこういう人の姿を見たことがなかった。何もしておられないようで全てをなさっている。僕にはその姿は詩人にも見えたし哲人にも見えた。ただ漠然と尊敬の念を抱いた。自分が小さく見えたが、これでもいいんだなとも思った。「聖人、後其身而身先、外其身而身存。」「知者不言、言者不知。」(注11)習った老子の言葉がこのときほど身にしみたことはなかった。
 そのうちに島田さんが自分の手で作られた詩集を僕たちにくださった。川名さん(注12)が「モナ・リザ」を朗読されたが、自分もこのとき読ませてもらえばよかったといまだに深い悔いが残る。それが僕にできる唯一の恩返しだったのではと……。そのあと、阿部さんとも少ししゃべりました。僕は握手していただいたがこの時には「なあんだ」という気持ちになりました。僕は出発前に本をちょっと読んだので、らいの方々の指が曲がる(注13)こと、そしてそうなったら最後、村には戻れなくなったことも知っていましたが、実際それは全然気にならなかったのです。こんなことでひどい差別をうけることになったのかと思うと何だか怒りの感情よりも先に拍子抜けした気分になってしまったんです。でももしも僕があの時代に普通の人として生まれていたら……と考えると悲しいような気分でした。
 それからあとかたずけをして、島田さんたちに「おやすみなさい」と言ってから寝る建物にうつり、トランプが始まりました。それもこの旅のいいところで、みんなが真剣になるところでは真剣に、力を抜くところでは力を抜いて楽しんでいました。僕はビリだったですが、みなさんと友達になれたような実感がもてたことはうれしかったです。風呂につかりながら、虫賀さんがこの愛生園に来るには前もって届出をしないといけないんだ(注14)と言われたとき、橋ができても外の「社会」(三人はこの語を使っておられた)との間にはやっぱり海があるんだなと残念でした。
 朝、砂場さんの声で起きてみるともうすぐ日の出だった。あわてて歯を磨いて外に出た。窓から見るだけではなぜか納得がいかなかった。外の空気は冷たかったが、海や島などすべてのものの輪郭がしまっていたので、陽の光もよりあたたかく見えた。一番きれいだったのは太陽が海の上に顔をのぞかせはじめたころ、それまで海の上の波がそれぞれ好き勝手にうごいたところへ突然風がさあっと吹き、朝日を受けて金色に光るいくすじものまっすぐな波が浜におしよせてきたときだった。これは目を疑うほどきれいだった。太陽が昇ってくるとただ、まぶしいな、真ん丸だなと思った。
 その日、他に行きどころのない多くの方々が葬られているストゥーベのようなところ(注15)へも行った。何だかやりきれなかった。何かしてあげられることはないかと思ったが、ただ手を合わせる以外になにもできなかった。
 しかし次に葬られることすらない多くの人骨が埋まっているというところを通ったときには、もうとても信じられなかった。きっと本当に骨を掘り出したとしてもとてもまだ信じられなかっただろう。明石海人さん(注16)の歌碑の短歌もたった一首しか読まなかったが、「我悔ゆるなし」なかなか言えないことだ。日の丸を昔は掲げたのだろうか、台とポールが残っていた。台座はきれいだったがポールの様子は日本の行き着いたさきを暗示しているようだった。まがって、さびて……。恵みの鐘は島全体を一望できる丘にあった。ここまで島の人々が手で引いてきたという。その音は体に直接伝わってきた。その響きのように幸せがこの島をおおってくれたらと思った。
 宇佐美さんのお宅に寄せていただき、ビデオを見てはじめて島の歴史のことが少しわかったが、それまで自分が何も知らずに見てまわっていたのかと思うと何とももったいなかった。海人さんについてもビデオを見たが彼の短歌は想像を絶する病気との闘いから生まれてきたものだった。故郷も失い、光も失い、すべてを失った人々の力になるほど短歌とはすごいものなのか……。
 驚いたのは宇佐美さんの蔵書数だ。家の中だけでもすごいのに書庫が二つも。そこには“記録”に対する宇佐美さんの執念が感じられた。
 そのうち砂場さんが中心となってラーメン作りが始まった。みんなでやると早いし、おもしろい。みんなが自分のできることを出し合う、先に食べ終わった人があとかたづけにまわる。こんなあたりまえのことが自然にできてしまうことがとてもうれしかった。
 書庫の前では、あまり話していなかった栗生さん(注17)からお話しをきけた。虫賀さんのスキーの先生だとは聞いていたが、本当に学校の先生だとは。しかも小中高と全て教えられたという。その経験から「教える、学ぶ」ことをもっと考えなさいと教えて下さった。生徒の身である自分がこういう話を聞けたことはなにより貴重だったし、「戦争」を体験された方々のお話はとくに大切だと思う。この旅が始まってからずっとそうだったが、みなさん一人一人が自分の宇宙をもっておられる方ばかりだったので、ただしゃべるということが宝の山になってしまう。これは本当にありがたかった。
 いよいよ愛生園から出発するときに島田さんが「これ、あげるよ」とぽつっとひとこと言われ、テレホンカードをくださった。だまっておられるが本当は笑顔で僕たちを送ってくださっているのだなとわかった。このカードはおそらく二度とは使えないだろう。別れはなごりおしかったが、涙を見せる人もなく、自然に出発できたし、また一人一人も自信に満ちて、心のおみやげもどっさりとかかえて笑顔で帰っていった。このことがやっぱりこの旅が最初から最後まで本当の旅であったことをよく表していると思う。
 みなさんどうもありがとうございました。

(注1)砂場隆浩さん。朝日新聞記者。
(注2)富田譲治さん。当時、信州大学の学生。歌がうまかった。
(注3)JR邑久駅。長島愛生園行きのバスが出ている最寄りの駅。岡山県瀬戸内市。長島は瀬戸内海に浮かぶ小島であり、島内に長島愛生園と邑久光明園の2つの国立ハンセン病療養所がある。
 なお、京都・大阪方面から行く場合には、JR日生(ひなせ)駅で下車し、タクシーで行くのも便利。
(注4)虫賀宗博(むしがむねひろ)さん。上島と共に京都で「論楽社」を運営。現代表。
(注5)邑久長島大橋。ハンセン病への根強い偏見のため本土とわずか200メートルしか離れていないのになかなか橋を架けられなかった。入所者たちの粘りづよい運動で1988年に開通。
(注6)宇佐美治(うさみおさむ)さん。ハンセン病の元患者。長島愛生園の入所者。1998〜2001年のらい予防法違憲国家賠償請求訴訟においては瀬戸内地区原告団長として活躍した。人生史をまとめた本として『野道の草』(みずほ出版)がある。
(注7)故・島田等さん。1926〜1995。詩人・思想家。1947年にハンセン病のため長島愛生園に収容され、以後そこで生きた。著書に『病棄て(やみすて)――思想としての隔離』(ゆみる出版)や詩集『次の冬』(論楽社ブックレット)などがある。
(注8)資料館。(注6)の宇佐美治さんが園内外の諸資料を集め、独力で開設した歴史資料館「恩賜記念館」のこと。現在は発展して「長島愛生園歴史館」になっている。
(注9)「過去に背を向けるものは、現在にも目を向けていない」。1985年に西ドイツのリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー(Richard von Weizsäcker)元大統領が語った演説中の一節。より正確な訳文は「しかし過去に目をつぶる者は、現在に対して盲目になります」(『まいにちドイツ語』テキスト2010年5月号(NHK出版)、小塩節訳)。ヴァイツゼッカーは第2次世界大戦中のナチ・ドイツによる非人道的な戦争犯罪の数々を忘却するのではなく、あえて想起することの必要性を西ドイツ国民に説いた。
(注10)阿部はじめさん。1938年(14歳)から現在まで長島愛生園に在住。著書に『ハンセン病療養所入所者 語り部覚え書』(私家版)がある。
(注11)老子の言葉。現代語訳はそれぞれ「『道』の体得者である聖人は、己れを後まわしにして他人を優先させながら、結局は他人に推されて己れが優先し、己れを無視して他人を立てながら、結局は他人に重んじられて我が身が立つことになる」
「本当に分かっている者は言(こと)あげせず、言あげする者は本当に分かっていない」(『老子 上・下』福永光司著、朝日文庫による)。
(注12)川名紀美さん。当時、朝日新聞記者。
(注13)ハンセン病では、末梢神経炎のため手指変形が生じる。また、手指その他の温痛覚も障害され、痛みを感じられなくなるため、ケガをしても気づかず化膿して手指切断に至ることが多かった。
(注14)現在は長島愛生園訪問の届出をする必要はない。園内の宿泊所に滞在するためには、入所者から面会人として届出てもらう必要がある。
(注15)万霊山(ばんれいざん)納骨堂。故郷の墓に入ることを拒まれた多くの入所者かの遺骨が納められている。
(注16)明石海人(あかしかいじん)。1901〜1939。長島愛生園に生きた歌人。歌集『白描』が著名。本文中に触れられている短歌は「美(み)めぐみは言はまくかしこ日(ひ)の本(もと)の癩者(らいしゃ)に生(あ)れて我悔ゆるなし」。
(注17)故・栗生喜夫(くりうよしお)さん。1924〜1997。小学校教員を長くつとめた。



先駆植物、先駆人間
               上島聖好   

 四月九日、下鴨に住む今谷さんという女の方からおでんわをいただいた。島田等さんを訪ねた折、『次の冬』を進呈されたのだという。友人たちに贈りたいので十冊欲しいとのことであった。声が大きい。受話器がぴんぴん踊るよう。
 数日後、ブナの森の会のキャプテンと共に今谷さんを訪ねた。「らいきち」(注)同士、弾む話もあるだろう。
 1911年生まれ、小柄な、あたまの毛の真白の、品のいい老女が今谷千歳さんであった。

 若い方が十何人もこられたというじゃありませんか。驚きました。そりゃ、「物見遊山」で来られる方はありますよ。
 あなたがたの小さな働きに照らされて、わたしは生かされているのです。
 人間て、ほんとうにおもしろい。おもしろいのね。苦をくぐりぬけないと、他者の苦に出会えないものなのね。

 感に堪えて老いた人はいう。
 今谷ご夫妻(おつれあいは21年前に亡くなった)は戦前のある時期、光明園で働いていたのだった。
 帰途、しゃらしゃらと雨にぬられる樹木を見やり、私は「先駆植物」のことを考えていた。川の端の砂地にはまずグミやカワヤナギが生え、それを「先駆植物」と呼ぶという。たくさんの「今谷さん」がいて、私どもはある。
 連綿とつながるいのちの川の深みを眺め、私は茫々と佇む。
 できることはといえばただ、みなもとへと遡上するだけであった。

(注)
 園にはね、おもしろい人がいて、フランス語関係の本だったらすべて集めるとかね、そういう人を「フラきち」というんです。わたしと島田さんはらい関係の本ならすべて集める、いわば、「らいきち」ですな。
 宇佐美さんはうつむき加減にくふっと笑う。
 「なにもないものは狂って生きるほかないだろう。もっと狂えよ。狂って生きろよ。みなもとをめざせよ。」
 そう言って谷川雁さんに励まされたことがある。
 私は下を向き、じっと恥じいるばかりであった。
 『次の冬』をつくり終え、いままで一度も早まったことのなかった生理が初めて大きく狂った。私は小さくほくそ笑む。「狂い」の仲間に少しでも入れたとしたら、こんなにうれしいことはない。
               (94.4.14記)
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