今回は興野と故・上島聖好(うえじましょうこう)さんの1994年の文章をご紹介します。上島さんが京都で共同運営していた「論楽社」(ろんがくしゃ。私塾、出版、講座開催など)のサークル交流誌に掲載されたものです(『ぶな 創刊号』、青山哲也編集、論楽社ぶなの森の会発行、1994年)。
どちらの文章も国立ハンセン病療養所・長島愛生園の入所者の方たちとの交流をテーマにしています。ハンセン病はかつて「らい病」と呼ばれ、病者は稀代(きだい)の悪法「らい予防法」のもと、強烈な差別を受けてきました。親族が差別を受けないように名前を変え、社会的には「死んだ」という扱いになって、ひっそりと生き延びてきた方も多かったのです。
そんな入所者の方たちの過酷な体験談には人間を変革する力があり、「ぶなの森の会」メンバーにも進路を変えた人たちが何人もいました。興野もその一人で、医学の道に進めたのは長島愛生園を何度も訪ねることができたおかげです。
入所者の方たちにはもう亡くなられた方もいますが、感謝の思いでいっぱいです。「ぶなの森の会」の仲間たちにも。
第二特集 愛生園訪問記
旅をふりかえって
興野康也
12月18日朝7時〜8時の間ごろ、京都駅の改札口に着いたところから僕の記憶は始まります。まわりを見ても知らない人ばかり。ひょっとして場所と時間を間違ったのでは(僕はすごく多いです)という不安が心のすみをよぎる。虫賀さんたちが来て他の待っている人がいっしょに行く人だと分かっても僕はこの時抱いた誰と、どこへ、何をしに行くのかといったことへの漠然とした不安を電車の中にまで持ちこんでしまいました。なんとなくいやな雰囲気がしばらく続いてから砂場さん(注1)、上島さん、トミジョーさん(注2)といっしょに座り、しゃべり出せたような気がします。このとき一つだけ覚えているのは、上島さんが「人はたてまえで生きていくべきだ。」というようなことを言われたことです。そのとき、なるほどこれが論楽社の原点になっているんだなあと思いました。
邑久(おく)駅(注3)に着き、そこからは両側に田んぼの続くなかをバスで進んで行きます。上下の揺れも加わって僕は車酔いにすっかりなりかけていました。そんな中でも虫賀さん(注4)は山の楽しさを説明してくださいました。山頂から見る壮大な日の出、快い疲れなどいろいろありましたが、その中でも自然のつくるハーモニーの話は、僕が虫捕りに夢中だったころのことを思い出させてくれました。涼しくさわやかな空気、あの独特の生命の営みにつつみこまれていくような感じ、そして空がかげって木々がさわぎだしたときの不安……どんどんわいてきます。もう一つおもしろかったのが深い思いの「映像でしかできない」表し方の話です。詩と似ているなと思います。いよいよ長島へとかかる橋(注5)をわたるとき、僕は何でもない小さな橋だと思いました。この思いは帰りにはすっかり変わっていました。
戸惑いながらも宇佐美さん(注6)、島田さん(注7)に会って自己紹介。そのあと島を案内していただいたのですが、島の第一印象は「静かだな」、それから「いいとこだな」でした。それが歩きながら話を聞いていくうちに、そのきれいさ、しずかさがかえってぞっとするような冷たさももっていると感じ始めた。正直にいって、僕は島の人々が強いられてきた苦しみをわかろうとするばかりで全く何もわかっていなかったのです。たださすがに自殺者がよくでるという崖の上に立ってみたときにはこわかったですね。僕は高いマンションやビルで下を眺めるとき、よくこんな所から飛び降りられるなと思いますが、この時ばかりは飛び降りること以上のものに追いつめられることを考えると恐ろしかった。でも一番怖かったのはそれをあっさりと言ってしまう宇佐美さんでした。「さすがに何度も死に直面している人は強いなあ……そうか、死かっ」。
死の匂いが島を覆っているなと思い出すと、静かな部屋で一度時計の音が聞こえだすとその音が耳について離れないのと同じように、この考えもなかなか自分から離れません。それがうすれてきたのは、一つさびしく咲く花を見つけ、それから上島さんが日の光がぽかぽか照ってくるのであたたかいと言われたときでした。寂しいところにも花は咲くし、寒い冬でもあたたかい光がふりそそぐ。あたりまえのことですが、ほっとしました。
資料館(注8)にも行きました。いろんなものがありました。愛生園も高齢化が進んで放っておくと貴重な資料がどんどんなくなってしまう。これをくい止めようとする宇佐美さんはすごいです。「過去に背を向けるものは、現在にも目を向けていない」(注9)というあの言葉、まさにその通りだと思います。置いてあった物のことはあまりわからなかったですが、一体の像がありました。誰かが、「泣いているね」と言いましたが、本当にその顔は険しいけれども悲しいものでした。この像が全てを語っているなと思いました。
次の記憶は夕食の時へととびます。僕にできることは食器運びくらいしかなかったのでそれをしました。しばらく食べてから、自己紹介。僕はいい気になってつまらないことばかりしゃべってしまいましたが、みなさんは一人一人がいろいろな思いを持って集まっているんだなあと思って恥ずかしかったです。そう、みなさんは「勉強」をしに来られていたんですね。そんな中で僕がふと言ったことを虫賀さんと上島さんが大切なことばにまで高めてくださったのは恥ずかしかったですが、うれしかったですね。お二人が場の流れに常に気を配っておられる姿は印象的でしたよ。
僕は島田さんの隣に座っていました。初めは何を話していいかわからなかったですが、島田さんは僕のことを気づかってくださいました。何となくへだたりがあったのですが、僕がこのとき島田さんと握手できたことで少しずつうちとけてきました。時には言葉だけよりも手と手の方がお互いの気持ちをよく伝えてくれると思います。(その後も僕は調子にのって握手ばかりすることになった。)これがきっかけでその後も島田さんは僕にいろいろしてくださいました。宇佐美さんも隣に座っておられたのですが、すごい人ですね。何よりもまず、おもしろい。一人一人の自己紹介をフォローなさっていましたし、それに昼の島の案内の時から思っていたのですが、知識量がすごいです。そして何ともいきのいい反骨精神をお持ちだった。阿部さん(注10)も面白い方で、すぐにいい人だなとわかる人でした。それにお二人のコンビでびしびしと辛口のトークをなさるのはとてもおもしろかったですね。ただお二人の話にも僕がわからないことがたくさんあったのは残念でした。
そのうちにトミジョーさんの歌が始まりました。今までは話をしていておもしろい人だな、くらいにしかおもっていなかったのが、この強烈な自己紹介で180度かわってしまいました。全身からエネルギーがほとばしる叫びだったですね。何ら臆することなく自分を爆発させることができる。これはすばらしいことです。僕は自分が小学校のころ、音楽とくに歌が大きらいだったことを思い出して恥ずかしいというか情けないような気持ちになりました。音痴ではなかったのですが高い声がでなくてみんなに笑われるのがいやだったのでしょうか、トミジョーさんがうらやましかったです。あれは最高のプレゼントだと思う。それにブルーハーツの歌をうたっておられたことがさらに印象を強めました。これも小学生のときですが、あまりにも歌を知らない僕に、友だちがいい曲だからとわざわざ歌詞も自分で写しとってくれてテープといっしょにくれたものの中に「リンダリンダ」も入っていたんです。僕はいまだに邦楽で知っている曲はこのときのものだけです。
歌とおしゃべりとが長いこと続きました。とてもいろんなことを聞きました。あとでふろの中で虫賀さんが食事から6時間もしゃべったんだと言われて驚きましたが、それよりも驚いたのは行ったのが13人、案内してくださったのが3人、合わせて16人ですから、一人20分ちょっとでこんな時間になることでした。ほとんど初対面のような人々が集まり、交流してまた別れていく、難しいことですがこんなことができたらうれしいですし、この時もやっぱりうれしかったですね。
でもみんなでわいわい言いあっているその同じ時にも島田さんの一人静かにたたずんでおられる姿があった。なにか悟りきって涅槃の境地におられるかのようだった。でもまわりの話にはじっと耳を傾けておられる。僕はこういう人の姿を見たことがなかった。何もしておられないようで全てをなさっている。僕にはその姿は詩人にも見えたし哲人にも見えた。ただ漠然と尊敬の念を抱いた。自分が小さく見えたが、これでもいいんだなとも思った。「聖人、後其身而身先、外其身而身存。」「知者不言、言者不知。」(注11)習った老子の言葉がこのときほど身にしみたことはなかった。
そのうちに島田さんが自分の手で作られた詩集を僕たちにくださった。川名さん(注12)が「モナ・リザ」を朗読されたが、自分もこのとき読ませてもらえばよかったといまだに深い悔いが残る。それが僕にできる唯一の恩返しだったのではと……。そのあと、阿部さんとも少ししゃべりました。僕は握手していただいたがこの時には「なあんだ」という気持ちになりました。僕は出発前に本をちょっと読んだので、らいの方々の指が曲がる(注13)こと、そしてそうなったら最後、村には戻れなくなったことも知っていましたが、実際それは全然気にならなかったのです。こんなことでひどい差別をうけることになったのかと思うと何だか怒りの感情よりも先に拍子抜けした気分になってしまったんです。でももしも僕があの時代に普通の人として生まれていたら……と考えると悲しいような気分でした。
それからあとかたずけをして、島田さんたちに「おやすみなさい」と言ってから寝る建物にうつり、トランプが始まりました。それもこの旅のいいところで、みんなが真剣になるところでは真剣に、力を抜くところでは力を抜いて楽しんでいました。僕はビリだったですが、みなさんと友達になれたような実感がもてたことはうれしかったです。風呂につかりながら、虫賀さんがこの愛生園に来るには前もって届出をしないといけないんだ(注14)と言われたとき、橋ができても外の「社会」(三人はこの語を使っておられた)との間にはやっぱり海があるんだなと残念でした。
朝、砂場さんの声で起きてみるともうすぐ日の出だった。あわてて歯を磨いて外に出た。窓から見るだけではなぜか納得がいかなかった。外の空気は冷たかったが、海や島などすべてのものの輪郭がしまっていたので、陽の光もよりあたたかく見えた。一番きれいだったのは太陽が海の上に顔をのぞかせはじめたころ、それまで海の上の波がそれぞれ好き勝手にうごいたところへ突然風がさあっと吹き、朝日を受けて金色に光るいくすじものまっすぐな波が浜におしよせてきたときだった。これは目を疑うほどきれいだった。太陽が昇ってくるとただ、まぶしいな、真ん丸だなと思った。
その日、他に行きどころのない多くの方々が葬られているストゥーベのようなところ(注15)へも行った。何だかやりきれなかった。何かしてあげられることはないかと思ったが、ただ手を合わせる以外になにもできなかった。
しかし次に葬られることすらない多くの人骨が埋まっているというところを通ったときには、もうとても信じられなかった。きっと本当に骨を掘り出したとしてもとてもまだ信じられなかっただろう。明石海人さん(注16)の歌碑の短歌もたった一首しか読まなかったが、「我悔ゆるなし」なかなか言えないことだ。日の丸を昔は掲げたのだろうか、台とポールが残っていた。台座はきれいだったがポールの様子は日本の行き着いたさきを暗示しているようだった。まがって、さびて……。恵みの鐘は島全体を一望できる丘にあった。ここまで島の人々が手で引いてきたという。その音は体に直接伝わってきた。その響きのように幸せがこの島をおおってくれたらと思った。
宇佐美さんのお宅に寄せていただき、ビデオを見てはじめて島の歴史のことが少しわかったが、それまで自分が何も知らずに見てまわっていたのかと思うと何とももったいなかった。海人さんについてもビデオを見たが彼の短歌は想像を絶する病気との闘いから生まれてきたものだった。故郷も失い、光も失い、すべてを失った人々の力になるほど短歌とはすごいものなのか……。
驚いたのは宇佐美さんの蔵書数だ。家の中だけでもすごいのに書庫が二つも。そこには“記録”に対する宇佐美さんの執念が感じられた。
そのうち砂場さんが中心となってラーメン作りが始まった。みんなでやると早いし、おもしろい。みんなが自分のできることを出し合う、先に食べ終わった人があとかたづけにまわる。こんなあたりまえのことが自然にできてしまうことがとてもうれしかった。
書庫の前では、あまり話していなかった栗生さん(注17)からお話しをきけた。虫賀さんのスキーの先生だとは聞いていたが、本当に学校の先生だとは。しかも小中高と全て教えられたという。その経験から「教える、学ぶ」ことをもっと考えなさいと教えて下さった。生徒の身である自分がこういう話を聞けたことはなにより貴重だったし、「戦争」を体験された方々のお話はとくに大切だと思う。この旅が始まってからずっとそうだったが、みなさん一人一人が自分の宇宙をもっておられる方ばかりだったので、ただしゃべるということが宝の山になってしまう。これは本当にありがたかった。
いよいよ愛生園から出発するときに島田さんが「これ、あげるよ」とぽつっとひとこと言われ、テレホンカードをくださった。だまっておられるが本当は笑顔で僕たちを送ってくださっているのだなとわかった。このカードはおそらく二度とは使えないだろう。別れはなごりおしかったが、涙を見せる人もなく、自然に出発できたし、また一人一人も自信に満ちて、心のおみやげもどっさりとかかえて笑顔で帰っていった。このことがやっぱりこの旅が最初から最後まで本当の旅であったことをよく表していると思う。
みなさんどうもありがとうございました。
(注1)砂場隆浩さん。朝日新聞記者。
(注2)富田譲治さん。当時、信州大学の学生。歌がうまかった。
(注3)JR邑久駅。長島愛生園行きのバスが出ている最寄りの駅。岡山県瀬戸内市。長島は瀬戸内海に浮かぶ小島であり、島内に長島愛生園と邑久光明園の2つの国立ハンセン病療養所がある。
なお、京都・大阪方面から行く場合には、JR日生(ひなせ)駅で下車し、タクシーで行くのも便利。
(注4)虫賀宗博(むしがむねひろ)さん。上島と共に京都で「論楽社」を運営。現代表。
(注5)邑久長島大橋。ハンセン病への根強い偏見のため本土とわずか200メートルしか離れていないのになかなか橋を架けられなかった。入所者たちの粘りづよい運動で1988年に開通。
(注6)宇佐美治(うさみおさむ)さん。ハンセン病の元患者。長島愛生園の入所者。1998〜2001年のらい予防法違憲国家賠償請求訴訟においては瀬戸内地区原告団長として活躍した。人生史をまとめた本として『野道の草』(みずほ出版)がある。
(注7)故・島田等さん。1926〜1995。詩人・思想家。1947年にハンセン病のため長島愛生園に収容され、以後そこで生きた。著書に『病棄て(やみすて)――思想としての隔離』(ゆみる出版)や詩集『次の冬』(論楽社ブックレット)などがある。
(注8)資料館。(注6)の宇佐美治さんが園内外の諸資料を集め、独力で開設した歴史資料館「恩賜記念館」のこと。現在は発展して「長島愛生園歴史館」になっている。
(注9)「過去に背を向けるものは、現在にも目を向けていない」。1985年に西ドイツのリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー(Richard von Weizsäcker)元大統領が語った演説中の一節。より正確な訳文は「しかし過去に目をつぶる者は、現在に対して盲目になります」(『まいにちドイツ語』テキスト2010年5月号(NHK出版)、小塩節訳)。ヴァイツゼッカーは第2次世界大戦中のナチ・ドイツによる非人道的な戦争犯罪の数々を忘却するのではなく、あえて想起することの必要性を西ドイツ国民に説いた。
(注10)阿部はじめさん。1938年(14歳)から現在まで長島愛生園に在住。著書に『ハンセン病療養所入所者 語り部覚え書』(私家版)がある。
(注11)老子の言葉。現代語訳はそれぞれ「『道』の体得者である聖人は、己れを後まわしにして他人を優先させながら、結局は他人に推されて己れが優先し、己れを無視して他人を立てながら、結局は他人に重んじられて我が身が立つことになる」
「本当に分かっている者は言(こと)あげせず、言あげする者は本当に分かっていない」(『老子 上・下』福永光司著、朝日文庫による)。
(注12)川名紀美さん。当時、朝日新聞記者。
(注13)ハンセン病では、末梢神経炎のため手指変形が生じる。また、手指その他の温痛覚も障害され、痛みを感じられなくなるため、ケガをしても気づかず化膿して手指切断に至ることが多かった。
(注14)現在は長島愛生園訪問の届出をする必要はない。園内の宿泊所に滞在するためには、入所者から面会人として届出てもらう必要がある。
(注15)万霊山(ばんれいざん)納骨堂。故郷の墓に入ることを拒まれた多くの入所者かの遺骨が納められている。
(注16)明石海人(あかしかいじん)。1901〜1939。長島愛生園に生きた歌人。歌集『白描』が著名。本文中に触れられている短歌は「美(み)めぐみは言はまくかしこ日(ひ)の本(もと)の癩者(らいしゃ)に生(あ)れて我悔ゆるなし」。
(注17)故・栗生喜夫(くりうよしお)さん。1924〜1997。小学校教員を長くつとめた。
先駆植物、先駆人間
上島聖好
四月九日、下鴨に住む今谷さんという女の方からおでんわをいただいた。島田等さんを訪ねた折、『次の冬』を進呈されたのだという。友人たちに贈りたいので十冊欲しいとのことであった。声が大きい。受話器がぴんぴん踊るよう。
数日後、ブナの森の会のキャプテンと共に今谷さんを訪ねた。「らいきち」(注)同士、弾む話もあるだろう。
1911年生まれ、小柄な、あたまの毛の真白の、品のいい老女が今谷千歳さんであった。
若い方が十何人もこられたというじゃありませんか。驚きました。そりゃ、「物見遊山」で来られる方はありますよ。
あなたがたの小さな働きに照らされて、わたしは生かされているのです。
人間て、ほんとうにおもしろい。おもしろいのね。苦をくぐりぬけないと、他者の苦に出会えないものなのね。
感に堪えて老いた人はいう。
今谷ご夫妻(おつれあいは21年前に亡くなった)は戦前のある時期、光明園で働いていたのだった。
帰途、しゃらしゃらと雨にぬられる樹木を見やり、私は「先駆植物」のことを考えていた。川の端の砂地にはまずグミやカワヤナギが生え、それを「先駆植物」と呼ぶという。たくさんの「今谷さん」がいて、私どもはある。
連綿とつながるいのちの川の深みを眺め、私は茫々と佇む。
できることはといえばただ、みなもとへと遡上するだけであった。
(注)
園にはね、おもしろい人がいて、フランス語関係の本だったらすべて集めるとかね、そういう人を「フラきち」というんです。わたしと島田さんはらい関係の本ならすべて集める、いわば、「らいきち」ですな。
宇佐美さんはうつむき加減にくふっと笑う。
「なにもないものは狂って生きるほかないだろう。もっと狂えよ。狂って生きろよ。みなもとをめざせよ。」
そう言って谷川雁さんに励まされたことがある。
私は下を向き、じっと恥じいるばかりであった。
『次の冬』をつくり終え、いままで一度も早まったことのなかった生理が初めて大きく狂った。私は小さくほくそ笑む。「狂い」の仲間に少しでも入れたとしたら、こんなにうれしいことはない。
(94.4.14記)