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迷走の末に 2013年2月11日(月)

 高校の同級生のSくんからある日フェイスブック上でメッセージが届き、「卒業生会報に近況報告を書いてほしい」と頼まれました。その原稿に一部加筆したのが以下の文章です。Sくんのおかげで思いを言葉にできました。感謝です。

迷走の末に

 洛星高校卒業生の皆さん、こんにちは。1995年卒業の興野康也です(38期生)。在学時には寺井治夫さんを始め個性の強い(?)教員の方々との出会いに恵まれ、卒業後も「人生の師」として教えをいただいています。 
 僕は「自分のやりたいこと」がわからず、また「これが自分に向いていることだ」と勝手に勘違いすることが続き、迷走の人生でした。最終的には精神科医になり、現在は熊本県の人吉市という人口3万5千強の市で、地域医療を実践しています。広いエリアに精神科病院が2つしかない状況で、「特殊で高度な医療」というよりも「とにかく何でも引き受けてできることをする医療」を目指しています。 
 僕は元来はボランティア相談所をしてお金を稼がずに生きていきたかったです。部分的ではありますがその夢が形になり、人吉市から車で1時間強山手に走ったところに古民家を借り、「お休みどころ」という無料の相談・歓談所を開設しています。この5月で10年目になります。あまりに山奥でなかなか人が来にくい面がありますが、水は湧き水を飲めますし、四方を山に囲まれてとても静かに過ごせるところです。
 ここではお茶を飲みながら語ったり、焚火をしたり、散歩して景色を楽しんだりしながら、「人生の曲がり角」に直面した人たちにリラックスしてもらい、「違った角度から問題を眺め直してもらう」活動を目指しています。病院のなかで薬などを使って現代医療をしているのとは対照的で、まさに「最も古代的な精神保健活動」をしていることになります。まぁ、夢ばかり大きくて、実現できていることはわずかですが…。
 現代的と古代的の両面のアプローチから精神保健活動に関わってみて思うのは、治療というのは「理論的で綺麗に進むもの」ではなく、「わけのわからない状況のなかで、関係者や友人などとの話し合いを繰り返しながら、少しずつ解きほぐしていくもの」だということです。始めから正解が用意されているわけではなくて、スタッフと関係者で「解答=落としどころ」を作り出していくのです。あれこれ模索しないことには、答えは見えてこないと言えるでしょう。 
 これは精神科医療だけではなくて、さまざまな分野の実地業務にも当てはまる原則なのではないでしょうか。人間の集まりである社会が回っていくには、このような「調整・調停役」の仕事をする人があちこちで必要なのでしょう。人の利害はなにかと食い違いやすいですから。
 いま日本は他国との関係で揺れています。経済面から言っても、安全保障のうえでも、武力の拡張ではなく、さまざまな国との協調が必要なことは明らかです。国際社会のなかで調整役として走り回れる人が洛星の卒業生から出てくることを期待します。僕は僕で細々ながら、気長に活動を続けていこうと思います。
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僕の愛する本(その3) 2013年5月3日(金) 

 『エセー掘ー匆颪叛こΑ戞淵皀鵐董璽縫綯、荒木昭太郎訳、中央公論新社、2003年)もとうとう読み終わってしまいました。「分厚い本を読みきった」という達成感もありますが、どこか寂しい気もします。知恵の宝庫であり、気楽な会話の相手でもあるようなこの3巻組の『エセー』を、しばらくは読まないことになるからです。 
 第3巻には副題の通りに、著者であるモンテーニュ(1533〜1592、フランス)の社会的な生き方に関する文章が多く集められています。彼は裁判官や市長職を勤めた人ですから、文筆ばかりではなく政治的な能力もあったのです。また当時のフランスやイタリアやドイツなどをあちこち旅して見聞を広めた人でもありました。多くの貴族や政治家たちとの交流もありました。
 これは『エセー』の全般に言えることですが、理論と実務の対比がとても鮮やかに描かれています。読書を通して哲学・文学・歴史から学ぶことと、日々の実際の労働をこなすこと。この2つがどう関わるかということについて、いろんな角度から詳しく考察されているのです。以下に長くて読みにくいですが味わい深い箇所を引用してみます。
 「わたしは昔、種々のおおやけの仕事を扱うのにあたって、わたしが自分の家ではじめて心に抱いた、またはわたしの教育から持ち帰った、似たようにかたくなな、未熟な、世なれていないか、さもなければ汚れていない、そして今もわたしが個人的に、快適にではないとしてもすくなくとも確実に使用している、生きるうえの考え方や規則のいろいろを、つまり学校ふうな初心者のひとつの徳を適用してみようと試みたことがある。そして、わたしは、それらが無力でしかも危険なものであることを発見したのだった。大衆のなかを行く者は、まわり道をしたり、肘をひきしめたり、あとへさがったり、前へ出たりしなければならない。まったく、出あうものによっては、本道からはずれたりもしなければならず、自分によりも他人に応じて、自分が言い出すことでなく他人が言い出すことに応じて、時と、人間たちと、種々の事件に対応して生きなければならないのだ」(445ページ)。
 理念の世界というのは一見すると日常生活の世界よりも複雑に見えますが、実は逆だということが彼の意見です。抽象的な哲学の方がずっと原理原則に忠実でシンプルであり、実務的な思考の方がはるかにたくさんの知識と観察と経験との入り混じった推論を含んでいるというのです。
 これは実は僕もよく感じていることです。妻の美紗さんは僕よりもはるかに実務的な人間です。僕のように本を読んであれこれ論評したりはしませんが、社会的手続き・経済管理・調理・育児・住環境・交際上の礼儀作法などなど日々の生活をしていくうえでより必要性の高い分野での運営能力が高いです。「私はあまり考えないから…」と美紗さんは言いますが、実際にはとても複雑な思考をしています。行動をするときには、社会的な制度や慣習、身近な人の意見、自分の経験・知識・希望、そして予想される結果などを、バランスよく見渡しながら決断しているのです。
 日常生活の小さな行動(例えば今日の夕食を何にするか)の1つ1つにも実はとても高度な知性が活用されているわけです。『エセー掘戮遼槓犬ら引用するなら、「ひとつの国家全体の管理の仕事よりもひとつの家庭の管理の仕事のほうが心労がよりすくないということはあまりないのだ。精神は、なにに専念する場合も、そこに全体で参加する。そして、それらの家庭での仕事は、より重要なものでないといっても、それだけ煩雑なものでないということはない」(139ページ)です。おもしろいですね。 
 僕の推測では、モンテーニュも若いころは「本を読めば読むほど賢くなる」と思って読書や思索に励んだのだと思います。ただ人生のどこかで、知識は多くなくても徳の高い人たちに出会って、考えがひっくり返ったのでしょう。そして「人間の役に立つ哲学」「その人を頭でっかちにするのではなくて、より慎み深く、寛容に、また朗らかで、実務的にする哲学」というものを探し始めたのだと思います。
 そのせいか、『エセー』には頭ごなしに読者に説教する言葉がありません。また彼の本を読んでも知識が増えたということがあまりありません。そうではなくて、「より人生の見通しがきくようになった」とか「心のなかのモヤモヤがすっきりした」とか、そういう感想を持つのです。彼の言葉が並外れて生き生きとしていて自在だからでしょう。
 「わたしの本来の意図は、話しながら、真底からのとらわれない態度、偶発的な、前もって考えておいてない、その場のきっかけから生まれ出たような動きをあらわし出そうということなのだ」(379ページ)。
 「そう、わたしは告白するが、わたしには、よりどころにすることのできるものが、なにひとつ、夢のなかにさえ、そうねがってみてさえ見えない。変化だけがわたしを満足させる。もしわたしを満足させるものがなにかあるとすれば、それは多様さをしっかりととらえるということだろう」(437ページ)。
 「わたしは、行動するさいには行動すること以外のみのりを得ようとはつとめないし、のちにひき続くさまざまな結果や予測をそこに持ちこんだりはしない。おのおのの行動が個別にそのはたらきをおこなうのだ。できれば的にあたるといい」(217ページ)。
 「わたしは、はじめに出会うだれにでも話すように紙にむかって話す」(212ページ)。
 これらの言葉からは、いかに彼が虚心に肩の力を抜いて作為を持ち込まずにペンを持って紙に向かったかが伝わります。彼の文章は全て実験的に書かれたと言えるでしょう。そして文章のかなりの部分は当時の常識や習慣を突き抜けていて、現代人の目で見ても納得のいく内容です。いまから400年以上前に亡くなった人だということを、読みながら忘れてしまいます。そこには時代を越えた普遍性があるのです。
 最後に1つ。モンテーニュは文中で「引退して孤独のなかに生きる」ことを勧めていますが、僕が好きなのは彼が人との交流を楽しんだところです。なにより彼自身が書いています。「わたしは、度が過ぎるほどひととのまじわりの好きな人間だ」(423ページ)。「ああ、友人というものはすばらしい」(421ページ)。
 彼の文章からは、こちらの心をいつのまにか開いてしまう豊かな香りのようなものが漂ってきます。彼の本質は、いつもいつも"心の友"との出会いを求めていたのでしょう。
 そして現代を生きる僕も彼を心の友としています。もう彼は生きていませんが、すぐに会話ができそうな気がするのです。このように目には見えない親しい友人を持てることは、読書の一番の喜びと言えるでしょう。読書を通して、人は著者の心と触れ合い、新たな自分になって新鮮に生きることができるのです。『エセー』を通して彼が与えてくれた喜びに、心からの感謝を表したいと思います。 

写真1 やすみを抱いて本を読む(美紗さん撮影)。
写真1

写真2 『エセー掘ー匆颪叛こΑ戞淵皀鵐董璽縫綯、荒木昭太郎訳、中央公論新社、2003年)の表紙。
写真2
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僕の愛する本(その2) 2013年4月4日(木)

 『エセー』という本が僕の大好きな本であることは以前書きました(「僕の愛する本(その1)」)。そして手元にある3巻組みの抜粋版『エセー』の第1巻を読んでの感想も、そこに書きました。もう『エセー』について書くことはないと思っていたのに、第2巻である『エセーII 思考と表現』(モンテーニュ著、荒木昭太郎訳、中央公論新社、2002年)を読んだら、またじっとしていられなくなりました。この本はこちらの心を動かして、反響として生まれた自分の感情や経験や思考を表現させるところがあるのです。
 以前にも書きましたが、『エセー』を書いたのはいまから400年以上前に亡くなったミシェル・ド・モンテーニュ(1533~1592、フランス)です。彼は37歳まで当時のフランスで裁判官を勤めたのちに、自分の領地を管理しながら読書と執筆に打ち込みました。彼は職業的な作家ではありませんでしたし、この本を売って儲けようといった意図も必要もありませんでした。ただ彼のなかの創造性が彼を突き動かして、極めて斬新で自由な形式で思いや観察や思索の結果を書かせたのです。ですので“自然に生えてきた樹木”であるような伸び伸びとした感じが文章の隅々にまで行き渡っていて、この本の大きな魅力になっています。 
 僕は本を読むときに、印象に残ったところに赤線を引き、さらに赤線を引いたページには付箋(ふせん)を付けておく習慣があります。もともとは本の感想を書くときに引用する箇所を見つけるためにしていたのですが、「あの言葉、何だったっけ?」と好きな言葉を探したいときなどにも重宝です。付箋のあるページだけを見ていけばいいわけです。ただこの『エセー』に関してはあまりにも内容が充実しているので、ほとんど全ページに付箋が付いています。ですので、結局いい言葉を探すのに、1ページ1ページめくって探さないといけないので一苦労です(笑)。そのくらい文中のあちこちに「たしかに人間ってこうだよなぁ…」とうならせる精密でユーモアがあり深い思索に支えられた言葉が散りばめられているのです。
 この『エセー』は長短さまざまの、そしてテーマもさまざまな文章で構成されています。例えばこの2巻には、「暇な状態について」とか「はやい話し方とおそい話し方について」とか「子どもたちの教育について」といったタイトルの文章が収められています。初めのうちモンテーニュは題名そのままの文章を書いていましたが、次第に脱線や連想を多く含む自由な文章を書くようになっていきました。そしてこの”好奇心をいっぱい持って、あちこち寄り道をしながら、ゆっくり考える”というスタイルが、モンテーニュの創造した文体なのです。
 彼の文章では高度に抽象的な話題から日常生活の話題まで何でも取り上げられています。彼のなかには“深い話題”とか“浅い話題”とかいう区別はありません。彼の身の周りの出来事全て、彼が読んだり聞いたり体験したこと全てが彼の思索の対象です。文中にもあるように、まさに「世界は、探究の学校」(2巻428ページ)なのです。
 「わたしは、運命から手はじめの論議の種をなんでも取ってくる。さまざまな主題はどれもわたしにとって同じようによい」(26ページ)。
 「人間のおのおのの小部分、おのおのの材料は、ほかのどれとも同じように、人間をあらわし出し、示し出す」(同30ページ)。
 (友人の子どもの教育についての文章のなかで)「お子さんには、小部屋も、庭園も、食卓も、寝床も、ひとりでいることも、ほかの人といっしょにいることも、朝も、晩も、すべての時間が彼にとって同じように役に立つものであり、すべての場所が彼にとって勉強の場となるようにしたいものです。というのは、判断力と品性をかたちづくるものとして、お子さんのおもな教科となるはずの哲学が、あらゆるところに関係する特権を持っているからです」(同373ページ)。
 これらの言葉に見られるように、学問がただ頭のなかにとどまっているのではなくて、自分の生活全般に関わり、また全ての経験から新たな教えを汲み取ることができるということを彼は重視していました。そこまで消化されてこそ、“ただの物知り”でなくて“より賢く勇敢で思いやりのある人間”になれると彼は書いています。勉強は、実生活のなかで鍛えられて実用的になる必要があるのです。
 このように書くといかにも“上から目線”のお説教を彼がしているように皆さん感じられると思いますが、それは僕の文筆力のなさのせいです。実際に本文を読むと、彼がとても謙虚でユーモアもあって人生を楽しんだ人であることがわかっていただけるはずです。そこを生き生きと描き出せないのはほんとうに残念です。親しみやすくてくつろいで生き生きとした文体こそがこの本の素晴らしさであり、他の多くの本にまさって僕を惹きつけるところなのです。
 ところでモンテーニュは平和な時代にのんびりと生きたというわけではありません。当時のフランスはキリスト教内の改革派と保守派による内戦状態にあったようで、あちこちで殺し合いが行われていたそうです。またいわゆる「魔女狩り」も行われていて、罪もない女性たちが死刑に処されてもいました。“盗賊”のような集団もあちこちにいて、モンテーニュが旅の途中に捕まった様子も書かれています。さらには致死的な病気であるペストの大流行もありました。
 そんなわけで現代日本よりもはるかに死の危険が身近にあった時代でした。生きにくかったはずです。そういうなかでモンテーニュが一貫して心の平穏や他者に対する寛容や合理的な思考の大切さや権威に対する懐疑を説いているので、彼の本には説得力があるのです。厳しい状況のなかからこそ本物の傑作は生まれてくるのでしょう。
 さて、この『エセーII』には数多くの美しい言葉が含まれていますが、文章を書く難しさや充実感や楽しみについての言葉もたくさんあります。“読んで、考えて、その結果を書き記す”というのが彼の命の発露でしたから、言葉に力がこもっています。ここにいくつか引用してみましょう。
 「わたしの想念を、多少の秩序と計画にしたがって夢想することもできるようにととのえるためには、そしてそれが風にのって迷い子(まよいご)になり、とんでもないほうへ行ってしまわないようにするためには、その想念の上に現れる数おおくのこまごまとした考えにかたちを与え、記録にとるようにするしかない。わたしは、わたしのさまざまな夢想を記録にとどめなければならないから、それに耳を傾ける」(66ページ)。
 「わたしは、本を書くためにはすこしも勉強しなかった。しかし、本を書いたことによってすこしは勉強した」(67ページ)。
 「世間一般の種々の考え方にさからって自分の判断を確固としてうち出すことはむずかしい」(114ページ)。
 「しかし、弦はあらゆる種類の音に合わせなくてはならない。そして、もっとも鋭い音は、いちばん鳴らされることのすくない音なのだ。うつろな事柄をひきたてるには、重々しい主題を支えるのと同じほどの完成された技術がすくなくとも必要だ。あるときはさまざまな事柄を表面的に扱わなければならず、あるときはそれらを深くさぐらなければならない」(212ページ)。
 「作品は、それ自身の力と運によって、作者の創意と認識を越えて彼を支え、また彼を追い越すことがある」(454ページ)。
 どんなささいな心の動きや体験でも、文章の形に仕上げて他の人たちと共有できるようにしておくことにはとても意味があるのですね。モンテーニュは『エセー』の文章を1つ1つ書きながら、彼の時代をはるかに越えた視野を獲得していきました。彼のあとを生きる僕たちも、文章を書いたり、芸術作品を作り出したりしながら、自分を育てていけるといいですね。モンテーニュの言葉からは、「あなたの道をゆっくり進んでいきなさい」という励ましが聞こえてきます。

写真1
写真1 『エセーII 思考と表現』(モンテーニュ著、荒木昭太郎訳、中央公論新社、2002年)の表紙。
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僕の愛する本(その1) 2013年3月17日(日)

 以前から何度も書いているように僕は本読みが好きです。他には特に趣味らしい趣味もないので、読書は僕の唯一の「人生で長く続く楽しみ事」といえるでしょう。読むジャンルは特に決まっていないのですが、エッセイとか対談集が好きです。固い論理的な文章とか、長い長い物語とかはなかなか読みきれないです。
 そんな読書ですが、年齢を重ねる毎に満喫できる時間は減る一方です。10代のときは「ある程度まとまった時間を取って一気に読まないと」と思っていたこともありましたが、読書のために1時間を取ることはいまではとても難しくなりました。生活上のあれこれやらないといけないことがありますし、またそもそも「1人だけで自分の好きなことをする」という時間がほとんどありません。娘のやすみが生まれてからは、さらにそうです。
 なので“ちょっとした空き時間”をできるだけ見つけるようにしています。ここ1年は仕事前の10~15分です。僕は遅刻が嫌いですから職場に早めに着き、朝のミーティングが始まるまで自分の座席で待つのです。このときに本を読みます。
 同僚との打ち合わせがあったりするので、この時間すら確実に取れるわけではありません。ですが少しずつでも読み進めていけばいつかは読み終わることができます。いまでは僕にとって貴重な「本に没頭できる時間」です。1日のうちに短くてもこういう「現実を離れて本の世界に遊べる時間」がないと、ストレスを感じてしまうのです。
 さて、最近読んでいるのは僕が大好きな本です。いままでに読んだ素晴らしい本はいろいろありますが、そのなかでも最高に好きな本が、ミシェル・ド・モンテーニュ(Michel Eyquem de Montaigne、1533~1592)の書いた『エセー(Les Essais)』です。モンテーニュは当時のフランスで裁判官として働いた人ですが、37歳で引退して、自分の領地の管理をしながら自由に文章をつづりました。そうしてできたのがこの本です。
 長短さまざまなエッセイを集めた作品で、かなりのボリュームがあります。僕がいま読んでいるのは以前に買った3巻組の抜粋版です(荒木昭太郎訳、中央公論新社、2002年)。新書のサイズで1冊に450ページほどあり、それが3冊あります。これでも原著の6割ほどでしかないそうです。すごい分量ですね(笑)。
 モンテーニュは職業的な作家ではなく、主に書いたのは『エセー』だけです。この1つの作品に彼の人生の全てを籠めたのでしょう。またヨーロッパの文学のなかでエッセイという形式を意識的に使ったのは彼が始めてだそうです。書き方の上でも極めて斬新な本だったわけです。新しい実験的な本を出すには大きな勇気が必要だったことでしょう。
 僕の好きな作家のE・M・フォースターがモンテーニュのことを文中で書いていたので数年前に買ってみたのですが、すぐに夢中になりました。あまりにも本の世界にスーッと入っていけたので、「まるで自分の気持ちや考えをそのままに書いたようだ」とまで感じました。今回は1巻を再読したのですが、モンテーニュの文章表現の精密さに感銘を受けました。もちろん内容は素晴らしいし、彼の朗らかで謙虚な人柄はやっぱり大好きです。
 読書の良さは人によっていろいろあると思いますが、僕にとっての良さは「違った時代の独特な生き方をした友人たちを何人も持てるところ」です。優れた本はこちらの知性や感情を開かせてしまい、書いた人をまるで「顔見知りの友だち」であるかのように感じさせてしまうのです。僕はモンテーニュについて特別細かく調べたわけでもないのに、まるで「昔から心を分かち合ってきた友」のように感じています。完全な思い込みというかファン心理(?)だとわかってはいるのですが、自分の気持ちを訂正するのは難しいです。それほどまでにこちらの心の奥に入り込んでしまうのです。
 『エセー』の何が素晴らしいのでしょう?僕は「人間として生きていること、生活していることそのものに非常に近い」ところだと思います。「そうそう、まさにそんな感じだよね」と思わず言いたくなるキラリと光る言葉が文章のあちこちに埋め込まれています。「なんでここまで人の気持ちがわかるの?」と言いたくもなります。モンテーニュはよほど観察力の優れた人だったのでしょう。
 またこの本には過去の優れた文学作品からの引用が膨大にあり、それらもこの本に花を添えています。大読書人のモンテーニュが見つけてきた選りすぐりの言葉たちだけあって、美しくて深い内容のものばかりです。これこそまさにアンソロジー(=言葉の花々を集めたもの)ですね。
 この本を読んでいるとモンテーニュが生きていた時代と場所にまるで飛んでいけそうな気分になります。何気ない文章のなかにモンテーニュという1人の人間と彼の周りの友人たち、さらにはプロテスタントとカトリックの内戦状態が続いていた当時のフランスの様子、そして昔から変わらない人類の暮らしぶりなどが豊かに息づいているのです。まるで映画を観ているようでもあります。
 ところで、ちょっと意外ですがモンテーニュ自身は彼の生活そのものをありありと記録しようとしたわけではありません。「人間とはどういうものなのか?」「どのように生きるのが望ましいのか?」ということを、彼自身を1つのモデルケースとして考えようとしたのです。「正しい生き方とは何か?」ということがこの本のもともとのテーマでした。彼は哲学的に考えたことを実生活のなかでふるいにかけ、ほんとうに役立つ考え方を取り出そうとしたのです。 
 ですがモンテーニュの文筆力があまりにも優れていたため、人間一般の真理に加えて、彼という1人の人間の生き方、心構え、思索、感情の動き、体調、食事や香りの好み、彼が出会った人々、彼が読んだ本などなどがありありと記録されることになりました。これはある意味で彼の意図を超えることだったでしょうけど読者の僕にとってはうれしいことです。
 モンテーニュ自身は哲学者・思想家・読書愛好家として本を書こうとしたと思います。思索の成果を記録しようとしたのでしょう。ですが彼に宿っていた才能は文学者の才能でした。あらゆる物事を想像力豊かに変形して記録するという才能です。なので極めて「文学っぽくない文学」が生まれました。このあたりの「意図と行動の矛盾」も彼のおもしろいところです。
 それではここで本文中から2ヶ所だけ引用してみます。(残念ながら1文1文が長いところになってしまいました…。すみません)。一見読みにくいけれど味わい深い言葉です。
 「われわれの精神の歩みのような、あちこちさまよいあるく足どりをたどり、そのさまざまな内面の襞(ひだ)の不透明な奥深い個所のあちこちにまではいりこみ、その歩みの揺れ動きのあれほど数おおくのこまかい表情を選び出し、定着することは、思ったよりずっと骨の折れる仕事だ。これはまた、新しい並はずれた楽しみで、われわれを世間のふつうの職務から、そう、もっとも尊重される職務からもひきさがらせるものなのだ」(1巻185ページ)。
 「というのは、わたしの考えでは、もっともふつうの、もっとも一般的な、世間によく知られたさまざまな事柄も、もしわれわれがそれらの発する光を見つけだすことができれば、それらを、自然のなかでもっとも偉大な奇蹟(きせき)にも、もっともすばらしい範例にも仕立てあげることが可能なのだ。とりわけ、人間のいろいろな行動を主題にした場合、そうなる」(1巻361ページ)。
 ペンと紙さえあれば文学的表現力は何でも全てを描く対象としてしまうのでしょう。そして1行1行に意図した以上の普遍的な意味が宿ってしまう。この本は「言葉の表現力とはどういうものか?」のとてもいい例です。書く対象が何であれ、言葉のなかに「いまも昔も変わらない人間の生きざま」が表し出されるのです。 
 『エセー』というこの素晴らしい作品ができあがったのは、モンテーニュが既存の形式に捕われずに、自分の創造性の働きに身を委ねたからだと思います。僕たちは何かを思い付いたり何かの感情を感じても、「普通はこういうことは考えない」とか「普通こういうふうには言わない」とかついつい無意識に思ってしまい、押し殺してしまうものです。モンテーニュの表現力が素晴らしいのはもちろんですが、彼が「ペンが流れるのに任せた」その度胸もまた、素晴らしいと言えるでしょう。 
 さて、僕は1巻を読み終わったので、いまから2巻を読み始めます。読む過程でどんなことを感じ、どんなことを考えるのでしょうか。いまからワクワクしてきます。旅をして親しい友だちに会いに行くような感じです。
 モンテーニュが亡くなって400年以上が経った現在でも、彼の言葉は読み手の心に呼びかける力があります。これはおそらく今後も変わらないでしょう。その時代時代で『エセー』のなかの注目される部分は違ってくる。それでも人間というものの本質を描いた傑作として、この本は人類が生き続ける限り読者に語り続けるのだと思います。まさに「永遠の命」を持った本だと言えるでしょう。素晴らしい読書体験を与えてくれるモンテーニュに、この場を借りて感謝を伝えたいと思います。

[付記1] タイトルの「エセー」という言葉の意味は解説によると「試す」ということだそうです。モンテーニュが哲学の伝統に学びながら作り上げた「人間としての正しい生き方」についての思想を、実人生のなかで試してみて、その実験結果を記録する、というのが彼の当初の意図だったようです。書き進めるに従って彼はどんどん自由に書くようになり、できあがった文章は「考えたことや感じたことを自由につづる」という現代の「エッセイ」に近いものになっています。

[付記2] 『エセー』の文中には「男尊女卑」的な発言がいくつも見られます。これはモンテーニュが生きた時代がいまから400年以上前だったことを考えるとある程度仕方がないことなのですが、実に残念です。モンテーニュが実際には女性に対してとても礼儀正しい人であったことは本全体を読めば明らかなのですが、さすがの彼も全ての面で当時の常識から超越することはできなかったということでしょう。「完璧な本」の唯一の欠点だと思います。

写真1
写真1  『エセーI  人間とはなにか』(モンテーニュ著、荒木昭太郎訳、中央公論新社、2002年)の表紙。

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職人肌?それとも?

 2011年5月21日(土)

 僕はおもしろい人と出会ったりおもしろい話を聞いたりすると、すぐに記録に残したいと思ってしまいます。5月10日に鳥原真琴さん(お菓子職人、お休みどころから車で40分のあさぎり町に在住)がお休みどころに来られたときの会話もそうでした。普段は自分自身のことを語らずにじっと人の話を聞いている真琴さんが、珍しくいままでの人生の歩みを語られたものだから、さっそく記録に残したいと思ったのです。
 ただ、ここが問題なのですが、真琴さんは超シャイなのです。おまけに若干あまのじゃくなところ(?)もあります。なのでブログへの掲載の許可をもらうのにも一苦労です。僕が「〜したい」と思ったからといって、その流れに素直に乗ってくださるような方ではないのです。 
 5月10日の会話については僕がお話を聞きながらメモを取っていました。それを聞き書き文として再構成したところ、真琴さんがありがたいことに大幅加筆してくださいました。そして真琴さんがどんなことを考えてきたのかがありありとわかるとてもいい文章ができあがりました。会話風の文章です(以下では「真琴さんの聞き書き文」と呼びます)。
 あとはそれをこのブログに掲載できれば万事めでたしめでたしだったのですが、残念ながら掲載の許可はもらえませんでした。「あくまでも個人的な記録」とのことです。やっぱり真琴さんはシャイなのでしょうね。 
 そういうわけで、最終的に僕が手元にあるほんの少しの資料と「真琴さんの聞き書き文」の部分的な引用をもとに、僕の見た真琴さん像を新たに作り直さないといけなくなりました。わざわざ消極的な真琴さんを説得してまでブログ原稿を作ってどうするのか?と思われる読者の方もおられると思います。実際自分でも強引だしちょっとばかげているとも思うのですが、やはり真琴さんのお話と人間性は人々に共有してもらう価値のあるものだと思いますし、現代を生きるひとつの人間像としての普遍性を持つと思うのです。資料が乏しいので真琴さんの全体像を提示することはとてもできませんが、一断片だけでも残せたらと思います。

 さて、真琴さんの幼少期ですが、僕はほとんど知りません。知っていることといえば、2人姉妹の妹だということと、脳科学に興味を持っておられた、ということです。 
 真琴さんにとっての最初の人生の大きな転機は、大学に進学して社会学を学び始めたことです。そのときの衝撃については、「真琴さんの聞き書き文」から以下に直接引用します。 

 私が「生まれ変わった」と自覚できる程の大きな変化が訪れたのは、とりあえず入れた大学で「社会学」という学問と出会った時だった。
 人との出会いではなく、学問との出会い。それは予想外な出会いであり、また予想外な「生まれ変わり」のきっかけだった。
 社会学がどういう学問なのかを簡単に説明することは難しいが、最初の講義で先生が、「社会学とは、世の中の自明性(当たり前とか常識と思われていること)を疑う学問であり、正直なところ、役に立たない学問だ」とおっしゃったことに、私は驚くと同時に、とても魅力を感じた。
 そんな社会学を学んでいくと、今までの自分の価値観が音をたてて崩れていくのがわかった。それは、今までの自分を否定しかねないほどのショッキングな出来事であると同時に、自分の価値観を新たに築きあげていく面白い作業でもあった。
 普段私たちは、刷り込まれた考え方(例えば、女性は〜でなければならないという固定観念や、〜しない人は普通じゃないという偏見を助長するような考え方など)になかなか疑問を持つことはない。社会学は、そういうことが幻想だよ、仕組まれたものだよと気づかせてくれる学問である。
 私にとって、心理学や精神分析学のように、個人の人生史を振り返り、どこに今の苦しさや生きづらさの原因があるのかを見つけていくというやり方ではなく、個人を越えて、より大きな視点から、客観的に、社会システムの罠を解き明かすことによって、自分の苦しさを説明していくという社会学的なやり方のほうが、しっくりきたし、結果的に今までの自分を振り返り、向き合いなおす、つまり、生まれ変わるきっかけになったように思う。


 僕は精神科医の職業癖として、個人の人生史を聞き取り、1つの物語として再構成していく共同作業のなかで、その人を理解しようとします。でも真琴さんの学んだ社会学の場合は、社会の仕組みの点から個人を理解しようとつとめるようです。1人の人間を見るときにも、いろんな切り口があるのですね。 
 次の真琴さんの大きな転機は、大学を卒業して郷里に帰り、仕事を探したときに、お菓子作りの仕事と出会ったことです。このことについての真琴さん自身の文章がなくて残念ですが、それまで特にお菓子作りが好きで、自宅で作っていたわけでもなく、たまたま職があり、お菓子作りの経験はないけど、やってみようかな?と思って始めた、というような聞いたことがあります。人が「天職」と出会うとき、必ずしもいきなりすごい感動を覚えるとは限らないみたいですね。 
 その後、かなり仕事に打ち込まれたようです。「かつての自分はまさに『仕事の鬼』でした」と聞いたことがあります。会話のスタイルからして非常に緻密で論理的で粘り強い真琴さんです。かなり完璧主義的に「自分に厳しく、人にも厳しく」お菓子作りをされたことは容易に想像できます。
 8年ほど激しく仕事をした真琴さんに次の転機がやってきます。いろんな疑問が膨らんで、一旦仕事を辞められたのです。どんな疑問だったのかをあまり詳しく聞いたことはありませんし、真琴さん自身としても完璧に説明はできないのかも知れません。きっと自分がやってきたお菓子作りの仕事を、いったんちょっと距離を置いて、いままでとは違った角度から眺めて見たかったのではないでしょうか? 
 このときに真琴さんは鶴上うしをさん(うしをさんについては以下ををご参照ください)と深く出会われることになります。このときの衝撃についても、「真琴さんの聞き書き文」から以下に引用します。


 社会学という学問と出会った衝撃とは違うけれども、私にも自分の人生に影響を及ぼすほどの人との出会いがようやく訪れたのが、昨年しばらく仕事から離れていた時に交流することが多くなった鶴上うしをさんと、うしをさんを介して出会った人達である(興野くんもその中のひとり)。
 私にとって、うしをさんは、尊敬する人であり、理想の人である。興野くんにたくさんの恩師と呼べる人がいるように、私にもようやくそう呼べる人が現れたことがとても嬉しい。
 うしをさんとは「だんだんなの会」〔注:うしをさんが運営する無農薬野菜の会〕に、父が作った野菜を提供することになったのがきっかけで、徐々に交流が増え、講演会に誘ってくださったり、スローライフの本を貸してくださったり、だんだんなの会の総会やイベントに参加させて頂いたりした。
 うしをさんは、いろんな人と交流しながら、自分の人生を楽しんでるというのがよくわかる。うしをさんと接した人たちは皆、うしをさんにつられるかのようにその時々を楽しんでいるように見える。私自身もそういうことが多々あった。
 先月、うしをさんが「だんだんなの会」の会員を集めて、シイタケ原木の森の石がまを使ってピザパーティーを開いたら楽しそうと思いつき、呼びかけた時も、大勢の人が集まった。子どもから年輩の方まで、幅広い年齢層の人達が一同に集い、皆がその場をとても楽しんでいた。大勢の人が集まるイベントが苦手な私も、最初は少し戸惑ってはいたけれども、結果的にとても楽しい時間を共有することができた。でもそれはうしをさんが意図したことではなく、私が参加して勝手に楽しんでいただけである。さまざまな人達が交流し、楽しめる場を、うしをさんは最初から狙って作ろうと思ったのではなく、ただ自分がそうしたい、楽しみをみんなと共有したいという自然な気持ちから、軽々と無理なくやってしまう。結果として、うしをさんも参加した人達も、皆が楽しく、幸せな気持ちになる。そんなうしをさんの影響力はすごいなぁと改めて感じた1日だった。


 この鶴上うしをさんからの紹介で、僕も2010年の12月に谷口博文さんと共に真琴さんのお宅を訪ねたのでした。それから、僕が1度真琴さん宅に行き、真琴さんが3度お休みどころにこられて、いまでは気楽にやり取りをする友人どうしになっています。
 さて、僕にとって楽しかった真琴さんとのやり取りの1つに、オリジナルお菓子セットの製作を依頼したことがあります。僕が初めて真琴さんと会った2010年12月には真琴さんが仕事を辞めておられたので、僕の友人たち10数人にプレゼントやお土産としてのお菓子セットを作ってもらうことにしたのです。それも友人がどんな人か僕が手紙に書き、あとは真琴さんにイメージを膨らませてもらって自由にお菓子を作ってもらうというやり方でした。
 結果としてお菓子自体はもちろん、包装・内容・付属の郷土品まで凝りに凝ったうえに、真琴さんの手紙まで付いた豪華なスイーツセットができあがり、友人たちに大喜びされました。その様子を伝えてくれる手紙を以下に引用します。共に大阪府在住の渡邉典子さんと三島宗彦くんが真琴さんに書いてくれた礼状です。


●渡邉典子さんから真琴さんへの礼状

鳥原真琴様 

 お菓子届きました。明日興野さんがわが家に泊まりに来られるので楽しみにしています。昨年秋に鶴上夫妻にお寺をいくつか案内していただきました。同封していただいたパンフレットを見るとそちらに行きたくなります。
 さっそく湯山の紅茶を入れてチョコレートケーキをいただきました。「おいしい!!」。いちごジャムもおいしそうですね。興野さんを訪ねる時にお住まいのあさぎり町を通りました。
 去る1月17日に神戸のライブハウスで鶴上さんの娘さんのだんなさんに出会いました。その時、錦町の石橋さん御夫妻とも出会い、鶴上さんの教え子さんの歌を聞いていました。なにか人吉・球磨をすぐ近くに感じています。毎日、石橋さんが作ったお米をいただいているのですョ。
 私はお休みどころのあの水が大好きです。あの辺のお水は私の身体と心に合っているのですね。 
 お菓子作りはたくさんの工程があるので大変でしょうね。私にはとても作れません。あたたかい味のケーキですね。手間と時間をかけて作って下さりありがとうございます。
 今日、大阪はこの冬初めての雪です。早く春が来て欲しいですね。そうだ!!紅茶にいちごジャムを入れて、ひと足先に春をいただきます。同封のおひな様はテレビの前にかざって興野さんに紹介しますね。もちろんお菓子もいっしょにいただきます。
 もし鶴上さんとお会いになったらよろしくお伝えください。本当に心のあたたかい方ですね。私も知り合えたことを感謝しています。
 楽しく、おいしく、いただきます。
       渡邉典子 

追伸 紅茶のいちごジャム、ツブツブまでおいしかったです。春をありがとうございます。 


●三島宗彦くんから真琴さんへの礼状 

鳥原真琴様

 先日は素敵なお菓子をいただきありがとうございます。友人達と共に非常に美味しくいただきました。
 私は興野氏とは小学生時代からの付き合いで、子供の頃は毎日一緒に行動しておりました。昔から現在に至るまで、1番の親友であります。 
 確かに興野氏は変わり者ですが、とても純粋で、真っ直ぐな男です。今では会う機会も減ってしまいましたが、たまに会うと彼のあったかい雰囲気に私のよごれきった心も洗われ、あたためられる気持ちになります。 
 お聞きになったように私は板前をしております。休日も知り合いの店に飲みに行き、気付いたらなぜか調理場に入り、顔見知りの常連さんに料理を出しているくらい、料理ばかりやっています。
 そんな三流料理人の私ですが、鳥原さんのお菓子には大変愛情が込められてあり、素敵な仕事をなさると感じました。これからも、人を幸せにする、素晴らしいお菓子を作り続けて下さい。 
 同じ食に携わる人間として私も負けないように、人に感動と幸せを与えられる仕事ができるように頑張りたいと思います。
 この度は本当にありがとうございました。 
       三島宗彦 


 この2通の手紙が真琴さんの作るお菓子について語り尽くしてくれていますね。興味深いのは、これらの手紙を書いた2人が、渡邉典子さんは看護師、三島宗彦くんは板前で、共に身体を動かして人を楽にしたり楽しませたり元気にしたりする仕事をされているということです。2人共、真琴さんの仕事や生き方に重なる理想や目標を持っているのでしょうね。
 さて、5月23日にたまたま真琴さんの仕事場である「パンとお菓子の工房  ナチュラル 多良木店」(〒868−0501熊本県球磨郡多良木町1042−2、電話ファックス0966422262、営業8:00〜19:30、水曜日定休[水曜が祝日なら木曜日])を訪ねることができました。友人の谷口博文さんと2人でお昼ごはん用のパンを買いに行ったのですが、店内に素敵なテラスがありそこで食べられるとのことでしたので、途中真琴さんも加わりながら3人で昼食を楽しみました。真琴さんがケーキの新製品を2種類持ってきてくださったのですが、残念ながら谷口博文さんに2つとも食べられてしまいました(笑)。
 その後真琴さんの仕事風景も初めて見たのですが、厨房は思ったより狭く、銀一色です。2人ほどの同僚たちと共に、卵を割ったり材料をかき混ぜたりされています。みんな黙々と働いています。正直言って、この厨房に朝から晩までいたら、僕は息が詰まるだろうなと感じました。お菓子を作ることに没頭できる人、そして肉体的にも立ちっぱなしの重労働に耐えられる人でないと勤まらないと思います。ただ、もし真琴さんが僕の病院の診察室を見たら、やっぱり「こんなところに1日いたらウンザリ」って感じるのでしょう。どんな仕事も、適性が合わないとできませんね。
 さて、僕は人が自分の天職を見つけることにずっと興味がありました。またその援助ができればいいなと思ってきました。前にも書きましたように、僕が真琴さんと初めて出会ったときには真琴さんは仕事を辞めていました。ですが、明らかに真琴さんはお菓子作りに向いているし、生涯縁は切れないんじゃないかと直感したのでした。そして実際にその後復職されました。
 なので理屈で考えると、「これこそ私の天職です!!」って真琴さんが言ってくれそうなものですが、お菓子作りへの真琴さんの気持ちはあっさりしたものです。以下に再度「真琴さんの聞き書き文」から引用します。


 お菓子作りは天職です!と興野くんは言うけれども、私の中ではしっくりこない。たしかに、今の私からお菓子作り(仕事)をとったら何も残らないかもしれない。しかし、だからといって、お菓子作りが私の人生の全てだと言っていいのか?とも思う。
 最初のきっかけがどうであれ、長い間続けてきたことに意味があるようで、一旦仕事から離れたけれども、また同じ仕事を続けることになってしまったことにもまた意味があるようで…。
 今の段階では、まだぼんやりとしているこれからの自分の生き方、仕事に対する考え方も、おそらく徐々にわかっていくのだろう。
 とりあえず、今、目の前にある仕事において、“すべきこと”をし、その中でいくつか見えてきた“やってみたいこと”にも挑戦しながら、私はこれからもお菓子作りを続けていくのだろう。


 こういう感じです。まあ、シンプルでないところが真琴さんらしいと言えば真琴さんらしいですね。せめてお菓子職人として目指すものとか理想像とかないですか?としつこく聞いてみても、やはり「うーん。そういうことをあんまり考えたことがないというか、言葉にしたことがないので、よくわからないな。…『安くておいしいものを』とか『妥協せずに高水準のものを』というのは、当たり前のことなので、私の理想となるとよけいにわからない」といった回答でした。 
 というわけで、真琴さんは言葉としては言ってくださいませんが、求道者的なお菓子職人として生きていかれるのだと思います。言葉で真琴さんをつかもうとすると複雑というか安易な「理解」を拒否されてしまうのですが、実際会った人柄とか行動とかは大変シンプルです。真琴さんを知るには言葉よりも行動を見た方がよさそうです。
 それなのに僕はやはり言葉で相手をとらえようとしてしまうからどうしようもありません。これでは真琴さんとのやり取りは「理解のズレ」ばかりということになってしまいます。いつも僕としてはスッキリしない気持ちが若干残るわけですが、これでいいのかも知れませんね。「わかった」と思えばそこで終わり。「わからない」と思うからこそ、探求や工夫が続くと思うのです。 
 その意味では、真琴さんは僕に「妥協せずに発展し続けよ!」とメッセージをくださっているのかも知れません。そしてそこに真琴さんの本質もある気がします。絶えざる挑戦と精進と前進。真琴さんはやはりプロフェッショナルな技術者、すなわち「職人」なのでした。 

[追記]この文章は友人の成田泰士くんと泉谷龍さんにコメントをいただきながら書きました。2人に感謝します。

写真1〜3は5月10日の鳥原真琴さん来訪時の写真です。

鳥原さんのお菓子
写真1 鳥原真琴さんが(一部を)作ったお菓子たち。後列左から、チーズケーキ、ガナッシュショコラ、杏仁豆腐。前列左から、いちごタルト、チョコレートと抹茶のムース。 

ひだまりルーム
写真2 鳥原真琴さんと話したお休みどころの「ひだまりルーム」。

外の風景
写真3 そのときの外の風景。

写真4〜6は鳥原真琴さんが勤務している「パンとお菓子の工房 ナチュラル 多良木店」の様子です。 

写真4〜5  ナチュラルの店内。

店内1
写真4

店内2
写真5

テラス
写真6 食事を取れるテラス。 
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蛮勇の人


  2011年5月1日(日)

 僕が鹿児島市内の精神病院・伊敷病院に勤めだしてもう6年と1ヶ月が経ちました。その間いろんなスタッフが辞めては新たに入ってくるのを見てきましたが、なかには強い個性で自分の印象を刻み付けていく人もいます。小林幹穂(みきお)さん(50歳、精神科医)はそんな人です。 
 2009年の何月だったか、小林さんはふっと伊敷病院に現れました。どこかの大学病院から派遣されてきたわけではなく、単独で勤務を希望されたと聞きました。直前に伝わった噂では、いままであちこちの病院で働いてこられたようでした。 
 実際にいっしょに働いてみた小林さんは、ちょっとあまのじゃくな、それでいてとても温かい心を内に持つ、シャイボーイといった感じでした。そして北海道や九州、沖縄のたくさんの精神病院で働いてこられた経験に加えて、「PTSD」や「解離性障害」といった精神障害の治療に深い学識を備えておられ、博士的な存在でもありました。さらに沖縄の宮古島を中心にシャーマン研究に従事してこられたこともあり、文化人類学や多文化精神医学、宗教学にも精通しておられました。 
 ただそれだけ膨大な知識と経験をお持ちの小林さんですが、シャイなせいかその教えを簡単には話してくださらないのです。直接聞いてもだめ。あまりストレートなやり取りは好まれないようです。ですので医局や勉強会での自然発生的な会話に加えて、僕の場合は小林さんが「これ、読んでみたら」と貸してくださる本を読み、感想をちょこっと話すことが教えを受ける主な方法でした。
 2011年に入ってから読んだものとしては、『あずさ弓−−日本におけるシャーマン的行為』上・下(カーメン・ブラッカー著、秋山さと子訳、岩波書店の同時代ライブラリー版、1995年)や『青い狐−−ドゴンの宇宙哲学』(マルセル・グリオール、ジェルメーヌ・ディテルラン共著、坂井信三訳、せりか書房、1986年)があります。これらはいずれも小林さんの研究領域に関連した古典的な本です。
 『あずさ弓』は日本のシャーマンの成り立ちや活動についてコンパクトにまとめてある本です。序文の冒頭はこんな言葉で始まります。「今から十年以上も前のことであるが、私は日本における他界の投影を保ってきたと思われる場所に興味をかき立てられるようになった」(序文3ページ)。
 そして「これらのシャーマンたちが、日本の宗教の非常に古い層からの残存者であることは明らかであった」(序文4ページ)。「ある特別の人間は、これらの二つの世界の間の障壁を越えることができる力を得るかもしれない」(上巻5ページ)。「シャーマンは第一に、霊的な世界から超自然的才能を授かっている人である。この才能は普通はある一つの霊的な存在から授かるが…生涯におけるこの決定的な瞬間まで、未来のシャーマンは何ヶ月も、または何年間にもわたって、奇妙な病気…に苦しむ。その徴候は身体的苦痛−−身も世もないほどの頭痛、吐き気、関節や背骨の痛み−−から、森に迷い込んだり、長い間気絶したり、眠り込んだり、または光を避けるようなヒステリー、または神経衰弱的な行為まで及んでいる」(上巻8ページ)。などなど、シャーマンがいかなるものであり、どんな働きをなすのかについて語られていくのです。
 「あずさ弓」とは古代のシャーマンが呪術の際に音を出して使った道具のことだそうです。著者は各地の修験道の行にも参加しており、山中での修行の様子がありありと伝わってきます。ちなみに羽黒山の修行には小林さんも1度参加されたそうです。
 一口にシャーマンといってもその力量はピンからキリまであり、演技的な人からほんとうに命の深みに根差したような人までさまざまなようです。「機械的、組織的観光事業、攻撃的な世俗思考による、他界とその霊的な住民への直観の破壊によって、急速に失われつつある古代の文化の記念として、この本を捧げたい」(序文5ページ)とある『あずさ弓』ではシャーマン(という仕事)の将来の存続に対して悲観的な予言が述べられています。しかし「人間の1つのなりわいなので、姿を変えて続いていくんじゃないかなあ」と小林さんは言います。実際、いろんな形で現代生活に溶け込んだ「都市型シャーマン」についての研究もあるそうです。
 僕の精神科医療の師である神田橋条治さんも「気に敏感」なせいか、多分にシャーマン的な要素を取り入れた診療スタイルです。精神科医というのは、現代・未来を生きるシャーマンたちの取りうる1つの姿なのかも知れませんね。
 一方『青い狐』は西アフリカのマリの国境付近に住むドゴン族に伝わる神話を、ていねいに聞き取り再構成した本です。神話といっても非常に抽象的な哲学からドゴン族の起源、さまざまな生活習慣や行事の由来までを語る包括的なもので、サブタイトルにある「宇宙哲学」という言葉がピッタリです。
 この神話自体はとても込み入っていて、ここで要約してご紹介できないのが残念です。ですのでここでは僕にとって興味深かったフレーズをいくつか挙げるにとどめます。それを見ていただけば、この本がいかに詩的・直感的な宇宙認識に満ちているかおわかりいただけると思います。また言葉や象徴、記号や図などの役割(事態を予言し、現実化する)がすごく重視されていることもおわかりいただけると思います。
 世界の創造主であるアンマが「世界に遣わした…記号は、物へとおもむき、その中に入った。(すると)物が存在した」(82ページ)。「人は物を描く。人は明日(つまり将来)来る物事を知るために絵を描くのだ」(91ページ)。「最も小さいもの(の象徴)であるフォニオの中には、もっと小さいものがあった。それが生命だ」(119ページ)、「火の魂は煙であり、灰もまたそうである。土の魂は土ぼこり、気の魂は霧、水の魂は大風のあとの雲である…アンマはこれらをひとつずつ混ぜあわせ…唾でくっつけて、全部を山形に折りたたんだ」(155ページ)、「子供は生きはじめるときに、渦巻きとして始まる」(363ページ)、「管の口は、天上から降下してくる祖先たちの息吹きの偉大な道だ」(420ページ)、「声(音)と雨は、両方とも同じだ。それ(ひえ)がとらえる声は、優しい心の声だ」(435ページ)。
 この神話には創造主アンマに反逆する狐が出てきます。この狐についての著者の解説も美しいものです。「アンマは、世界の中で狐を試すためにこれらすべてのことを狐にやらせたのだ」(264ページ)。「狐…は宇宙の秩序の破壊に手をつけたのと同じように、自分も未完成のままにとどまった。宇宙的な次元での<記号>すなわちことばの追求と、人格の次元での双児の妹あるいは女性の魂の追求という、彼の二つの追求は、つねに必要なものである。彼は宇宙の混乱のもとになったと同時に、心理的な個別性の発揮に道を拓き、そうやって心理と宇宙の双方の領域に、対立関係という望ましい要因をもたらしたのである」(265ページ)。
 引用はしませんでしたが、この神話には性的な要素もたくさん出てきます。難解でわけがわからないながらも、どこか世界の本質をとらえたようなふしぎな神話ですね。小林さんは2度にわたってアフリカのシャーマンの調査に行かれていますが、『青い狐』を読んでいると、「いつも水の流れている川はひとつもない」(19ページ)というすごく乾燥したアフリカの土や空が立ち上がってくるのです。
 さて、僕は興味を感じた人の人生史をすぐに聞いてみたくなる癖があるのですが、小林さんはさきほども書きましたように朴訥ですので、あまりはっきりしたことはわかりません。それでも時々聞きえた範囲の情報をまとめると以下のようになります。
 もともと小林さんは小学生のころから、ウルの発掘(古代メソポタミアのシュメール人の都市)やインカ帝国の幻の都を探すようなことがしたかったそうです。考古学や探検に憧れる子どもだったんですね。「失われた埋蔵資源の発掘」に惹かれたと小林さんは言いますが、これは精神科医として深層心理を研究・治療する活動につながるのでしょうね。
 同じような興味を持つ子どもは多いと思います。ただ小林さんがおもしろいのは、憧れるだけではなく、すぐに自分なりのトレーニングを開始したことです。「調査に行くにはジャングルにも踏み込まないと。そしてどこでも寝れないと」と考え、命綱を付けて屋根の上(!)に寝たり、机の下に寝たりしたそうです。またさらに「探検するには山登りができないと」と考え、中3のときに家から見えた十勝岳まで歩いて行きそのまま登ったそうです。
 こうして小林さんは高校時代も山登りに明け暮れるようになります(「同人山岳党」というグループを作っておられたそうです)。さらに文化人類学の本にも出会い、濫読が始まります。何かに興味があると自然自然に人はその方向へ進んでいくものですね。
 さらに高校3年生のときには校舎の3階から飛び降りてみて、右足首を骨折したりもされています。ただ単にどんな感じがするのかとやってみたそうです。僕は別の人からも子ども時代に屋根から転がり落ちてみた(!)という話を聞いたことがありますが、人間の好奇心ってすごいものですね。
 小林さんはもともと「蛮勇を振るう」という生き方が好きだったそうです。ですが、ここまで実際に生きて実験してみる人は少ないと思います。周りから担ぎ出されて応援団の団長までされていますから、きっと何かと目立つ人だったのでしょう。
 さて北海道大学の文類に進学された小林さんですが、「食っていきにくそうだな」と感じて翌年には札幌医大に再入学されることになります。そして卒業後の1989年、29歳のときに札幌医大の医局に所属します。最初に入ったのは神経病理班のアルツハイマー病研究グループだったそうです。
 ところが、人から研究テーマも含めて指図され、そのとおりに行動するような生活が性に合わず、小林さんは辞めたくなってしまいます。そして「何か突拍子もないことをすれば離れられるだろう」と考え始めます。その結果、何のツテもなくアフリカに行く、というアイデアが浮かんだそうです。それも当時「ザイールとラゴスは安全面から避けた方がいい」と言われていたので、あえてアフリカに行くことにしたのだそうです。 
 おもしろいのは小林さんの終生のテーマになるシャーマン研究も、半分アフリカ行きの口実として思いついたというところです。当時の教授がアイヌ民族のイム(アイヌの社会だけにみられる精神障害)の研究もするなど多文化精神医学にも理解のある人だったので、OKしてくれると思ったそうです。そして実際、行ってこいと言われたのです。
 こうして小林さんは帰りはオープンの飛行機チケットでナイジェリアやケニアに行くことになります。ナイジェリアでは軍の施設のそばと知らずに写真を取り、スパイ容疑で拘束されもします。いろんな目に遭いながらも、2度のアフリカ行きで10数人のシャーマンたちの治療様式について調査してまとめ、その結果を論文にされることになります。そしてそこから沖縄の宮古島でのシャーマン(ユタやノロと呼ばれている)の研究が始まっていくのです。 
 さて、小林さんはその後も何度か医局組織に所属しようと試みたのですが、最終的に一匹狼的な自由な生き方で選択されることになります。そうしかできなかったそうです。そして各地の精神科病院を転々とされる生活が始まります。その末に、伊敷病院にたどり着かれたわけなのです。 
 残念ながら小林さんは伊敷病院にも定着されることはなく、4月からは熊本の病院に勤務の主軸を移されました。それでもいまはまだ週に1〜2日お会いするチャンスがありますから、できるだけいろんなお話を聞いておきたいと思っています。 
 さて、このブログに掲載した「Oさんからのメッセージ」にもありましたとおり、4月には2週間にわたって小林さんは東北地方太平洋沖地震の被災地の医療グループに参加されています。例によって小林さんの詳しいレポートは聞けていないままですが、いつかまた現地の人たちの(特に精神面の)様子を教えていただきたいと思っているところです。
 人生の一部の時間だけであっても、自分の師となる人と出会えることは幸せなことですね。小林さんのように、生きる姿で誰かに長く残る影響を与えられる人間に、僕もなれたらなぁと思います。志は人から人にバトンタッチされながら実現していくものですよね。お休みどころという理念が僕の全然知らない時代に、全然知らない人に伝わり、僕の全然知らない形で開花したらおもしろいだろうなぁと夢見ています。

[追記1] 以下の文章は小林さんが症例報告会の参考資料として作られたものです。難しい単語がいくつも出てきて読みやすい資料ではありませんが、小林さんのトラウマ治療者としての本質が感じられる内容ですので、ここに掲載します。ちなみに大まかに言えば、文中の「プロトパシー的な性質」とは「精密詳細にではなく漠然と感受されるという性質」といったような意味、そして「リアルなβ要素」とは「言語化される以前の生の体験そのもの」といった意味です。 


《もうひとつの物語》

 1989年末に唐突に始まったリベリアの内戦は、その年の初めにナイジェリアに行った僕にはことのほか衝撃的だった。ナイジェリアがECOWAS(西アフリカ諸国経済共同体)の名の下に軍事介入したのも嫌な思いがしたが、何よりもアフリカの優等生とまでいわれたリベリアが、あれほど酸鼻を極めた泥沼のような部族戦争に突入するとは思ってもいなかったからだ。10年以上も経ってから、アマドゥ・クルマの『アラーの神にもいわれはない』という小説を読んで僕の疑問の幾つかは氷解した。解放奴隷によって建国されたリベリアとシエラレオネは、ブラック・アフリカの中で最も民主主義が浸透した国と思われていたが、実態はアメリコ・ライベリアンと呼ばれる一部の少数特権階級が土着の内陸先住民を一方的に支配する格差社会だったのだ。 
 クルマの小説の主人公はチャイルド・ソルジャーであるビマイラ少年である。チャイルド・ソルジャーの問題は様々な問題をも内包して深く考えさせられるが、この小説のラストはトラウマの治療者と患者のカリカチュアのようで秀逸である。トラウマ記憶のプロトパシー的な性質をよく示していると思うので、少し長いが引用してみよう。


 かわいいビマイラや。私にすべてを話しておくれ。おまえが見てきたこと、してきたことのすべてを私に話しておくれ。今までおまえの身におきたことのなりゆきを、のこらず私に話しておくれ。 
 だからぼく、ゆっくりと腰をおろして、きちんとすわってみたんだ。そしてこんなふうに話をはじめたんだよ。「これにしよっと。ぼくのとんちき話の完全決定版タイトルは、こんなだよ。『アラーの神さまだってこの世のすべてに公平でいらっしゃるいわれはない』。」それからぼくは何日もかけて、てめえのほら話をふきつづけたんだ。


 セラピストは悲惨な体験を話すよう促す(トラウマ焦点化治療)が、クライエントはとんちき話やほら話のような隠喩や寓話でしか語ることができない。何故なら生でリアルなβ要素は決して言語化されることも分節化されることもないのだから。そして、クライエントはこの世界が不公平で不条理なこと(世界に対する基本的信頼感の欠如)も身に染みて知っているのだ。かくて埋葬したはずの死者は亡霊の如く蘇る。何度でも、何度殺しても。
[追記2] この文章は友人の田嶋順子さんや泉谷龍さん、また友人たちにコメントをいただきながら書いたものです。ここに感謝いたします。

[追記3] この文章を読んだ友人からのコメントです。

 途中途中、いろんなことが頭の中に浮かび、なかなか面白い経験でした。あの『神話の力』をはじめて読んだ時に似ているかもしれません。例えば、具体的に瞬時に浮かびあがったものとして。
 地球は、顕微鏡等で見る細胞のひとつではないか…。地球から星が見えるけど、それは、私達が顕微鏡で見る世界と同じじゃないか…。私のこの肉体は宇宙の在り方に似ていて、あらゆる星(細胞)の集合体ではないか…。そのひとつひとつの星はかけがえなくバランスをとりあいながら存在している、そのことを覚知している人が、所謂シャーマン?またそういう久遠からのことを、宇宙の宇宙たる法則をいのちに感じながら生きていらっしゃるのかな、小林さんも…。

小林幹穂さん
写真1  小林幹穂さん。
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春日キスヨさんの新刊本

 2011年3月7日(月)

 3月5日の夜10時前にお休みどころに帰り着くと、1冊の本が届いていました。広島県の春日キスヨさんの新刊本『変わる家族と介護』(講談社現代新書、本体税抜き720円)です。春日キスヨさんは家族社会学の学者(現在は松山大学人文学部社会学教授)で、夫の耕夫さん(同じく広島修道大学人文学部教授)と2人で暮らしておられます。僕にとってキスヨさんは14年来の友人であり、精神的な「母」の1人です。
 キスヨさんとの出会いは1997年2月に京都で開かれた「すすむ・すすむフォーラム」の準備会の席上でした。このフォーラムは2人の医師(内科医の徳永進さんと精神科医の故・浜田晋さん)が意気投合したことがきっかけで始まったもので、さまざまなテーマを取り上げるシンポジウムでしたが、この時のテーマはたしか「家族って何だろう?」でした。キスヨさんはパネリストの1人として招かれていたのです。 
 故・上島聖好さんが徳永進さんと親しかったことから、僕も書籍販売の要員として参加していました。その準備会で偶然キスヨさんと席が近くなったのです。キスヨさんが上島さんの高校の大先輩(熊本市の済々校高校)だったこともあり、上島さんとキスヨさんはすぐにその場で意気投合したのでした。 
 たまたまその時キスヨさんは京都精華大学の教授をしていました。そして精華大は上島さんたちが運営していた論楽社(ろんがくしゃ、私塾、出版、講座開催など)から自転車で15分ほどのところだったのです。そんなわけでキスヨさんもしばしば論楽社に遊びに来られました。また上島さんと僕がキスヨさんの大学での講義を1学期間聴講したこともありました。 
 その後キスヨさんが広島に帰られてからも親しくさせていただいており、お宅へも2度お訪ねしたことがあります。また上島さんが亡くなった時にはキスヨさんと耕夫さんはお休みどころまではるばる車で来られ、四十九日の集いに参加してくださいました。「興野くんの出発だから来たんだよ」という励ましの言葉はいまも僕の胸に響いています。 
 さて、今度の新刊ですが、基本的には高齢者の介護困難や虐待の問題についてキスヨさんの調査と考察を含むエッセイ集です。どんな状況で起きやすいのか、なぜ増えているのか、それにはどんな社会的な背景があるのか、などが具体的な事例を掘り下げる形で描き出されています。
 中心的に論じられているのは「高齢の親と中年シングルの子の同居世帯」のことです。日本の経済的衰退などのため、中年の子どもが無職や非正規雇用であり、高齢の親に生活費を出してもらっているという家族形態が増加しているそうです。そしてこの状況で親が要介護になった時、家族危機が発生しやすい。なぜなら「中年世代に対するセーフティネットとしては生活保護以外みるべき施策がなく、かつ家族単位で成り立つ日本の福祉制度の下では、こうしたシングルの子と同居する高齢者のほうが、高齢者ひとり暮らしや高齢者夫婦世帯よりも、福祉面で不利益をこうむりやすいから」(19ページ)だそうです。福祉の落とし穴ということですね。
 僕は知らなかったのですが、日本の福祉制度は「家族に、最終的に個人を守る『セーフティネット』の役割を担わせるかたちでこれまでやってきた」(5ページ)のだそうです。その考えがもう現状に合わなくなってきているわけですね。キスヨさんは家族ではなく個人を援助する形の社会制度を再構築していく必要があると書いておられます。今後社会全体で充分に議論して新しい仕組みを作り上げていかないといけませんね。
 高齢者虐待というと、子どもや配偶者が介護をがんばり過ぎて疲れ果てて起こるものだとばかり僕は思っていました。でもキスヨさんの論述を読んでいると、国レベルの経済状況や福祉政策その他大きな社会問題が関係しているんだなぁとよくわかります。個人の問題や家族関係の問題だけではない。その辺を明らかに照らし出すのが社会学の醍醐味なんですね。
 この本の本文はやさしい日常語で書かれています。そして各章の最後に「コラム」が付いており、ここでキスヨさんはやや専門的になる内容を各種データを使いながら論じています。本文の客観的裏付けや補足をしているわけです。
 おもしろいのは、この本がキスヨさんの研究者人生の振り返りも含んでいるということです。形式にとらわれない自由な筆遣いで書かれているために、随所に「あの時あんなことがあった」「その時こんなことを感じた」といった雑感が含まれているのです。その点、キスヨさんのコンパクトな自伝とも言えます。正直言って社会学に全然くわしくない僕は、キスヨさんの人生史の方に注目して楽しみました。
 ところで、この本の冒頭の1行目は「私の専門は『家族問題』を対象とする臨床社会学である」(3ページ)という言葉です。「えっ、家族社会学でなかったの?」と思いましたが、それはこういうことだそうです。 
 キスヨさんは研究室で資料を読みこんで家族や社会のあり方について考察する学者として出発しました。しかしキスヨさんの性格として、家族問題で苦しむ人たちを目の前にした時、統計資料ばかり見て論じていることはできなかったのです。そして彼らを支援する活動に次々参加することになっていきました。
 この本によると、キスヨさんはまず「父子家庭、登校拒否、重度心身障害児といった子育て上の困難を抱える『家族(親)の会』に関わった」(4ページ)そうです。そこから高齢者介護に苦しむ人たちの支援活動に参加され、さらに高齢者虐待の問題に関わられています。
 そして現場で出会う人たちの生(なま)の語りに立脚し、その語りを学問的に分析することで、現代日本社会の構造的な問題に迫ろうとする。そういう現場主義の学風を作ってこられたのです。 
 つまりキスヨさんの場合、「社会学のなかの家族問題について研究する学者」であるよりも前に、まずスタートは「家族をめぐるさまざまな問題に苦しむ人たちへの支援者」であることなのです。そこからキスヨさんの学問が始まっている。そしてその後に客観的・学問的な分析を行い、問題の社会的な背景構造を描き出す。そういう意味をこめて、「臨床社会学者」と自分を位置づけておられるわけです。 
 臨床社会学という言葉は一般の方にはピンときにくいかも知れませんが、臨床医である僕にとってはわかりやすい言葉です。頭だけで考える学問をするのではなく、目の前の困っている人と共に解決法を模索してジタバタする、そういう活動を中心に学問するということですね。
 精神医学にも研究室で病気のメカニズムや薬の効能を追求する学問的な世界がありますが、僕のような人間がしていることは研究の成果に基づいて目の前の患者さんがどうすればより幸せになれるかを考え、そのためにできることをすることです。病院のなかでもお休みどころでも、僕は臨床の精神医療支援者であり、その点では支援者としてのキスヨさんと共通しているのです。 
 この本の各章の本文はキスヨさんが遭遇した日常的な出来事や事例の描写で始まっています。具体的な1場面から論述を始めていくのです。話の進め方は学問というより物語のようです。そしてこの物語性こそキスヨさんが長年支援現場に関わってきた証だと思うのです。そこには理論的にすっきり割り切れない複雑な味わいがあります。交錯した人間関係があり、思わぬ出来事があり、安易な解決を許さない厳しい事態があり、ああだこうだと揺れた末の結末があります。スカッと理解できる事例はほとんどないのです。
 この本は徹底して現場にこだわってきたキスヨさんが、学問的な力を総動員して書きあげた現代日本社会の見取り図です。読みながらわかることは、時代の流動的な状況に社会制度の変更が追いついていないということです。そしてキスヨさんのようにリアルに社会のありようを描き出すことが、変革のための議論の第一歩になるのだと思います。
 以上、キスヨさんの本をめぐって感じたことを書いてきましたが、まだ一番肝心な部分に触れていない気がします。この本を読んで印象的だったのは、厳しい状況と事例が続くのにも関わらず全体にどこか希望があるということです。
 特に最終章には、同居の息子一家とほぼ完全に断絶状態でありながら、社会とつながって生き生きと生きているおばあちゃんの話が置かれています。そしてこの最終章だけには章末のコラムがありません。既存のデータで論じる内容ではなく、未来的な希望が語られているのです。つまり「高齢者介護をめぐって多くの困難がある。でも場合によっては困難を通じて人間的に成長していける」といったメッセージが発せられているのです。
 いままでのキスヨさんの本の読後感には、どこか「なんでこんなに暗いのかなぁ」という気持ちが含まれていました。社会の闇ばかりに注目しすぎなんじゃないか、といった気すらしました。でもこの本では何かが違うのです。基本トーンは未来世代へのエールです。「難しい問題はある。でもぶつかって乗り越えて行ってね」といったメッセージが通底しているのです。 
 かつてのキスヨさんにはどこか救われなさというか絶望的な孤独感が漂っていました。鋭く激しい直感と根の深い怨恨が入り混じった感じです。キスヨさんも幼少期に家族関係で泣いた人です。その後遺症のようなものだったのかも知れません。 
 でもいまは変わりました。キスヨさんの眼差しは慈母の眼差しです。いまも多くの学生たちや相談者たちがキスヨさんの包容力に救われているでしょう。人を受け容れ、元気づけるのがキスヨさんの本来のありようなのです。あくまでも困っている人を見ると放っておけず、その場に出向いて何かしようとする。それがキスヨさんなのです。   日本に限らず世界の多くの国で経済的不況や少子高齢化といった問題は発生しています。そして簡単な解決法がないのは明らかです。少しずつ議論を重ね、新しい社会システムを作り出していくほかなく、それまでの移行期にはさまざまな社会的不幸が起こるでしょう。それに対応するためには国家レベルでの政策の充実を待っているだけではだめで、民間レベルでのさまざまな相互扶助活動が必要になると思います。キスヨさんの提示した大きな問題に対する小さな回答を求めて、地道にお休みどころを続けていきたいと思います。
         興野康也 

[追記1]以下はキスヨさんから本といっしょに届いた手紙の文面です。キスヨさんの人柄がよく表れていると思いますので、ここに引用します。 

 元気にしているようですね。 
 いつも「お休みどころ」のブログをみて、興野君は元気にやっているだろうかと確かめています。あなたの人生が実りゆたかに熟し、人を支える力になるだろうことを確信している見守り手がここにもひとりいることを知っておいて下さい。 
 新しい本を出しました。読んでよかったらまわりの人、必要な人にもすすめて下さい。 
 私も耕夫も元気です。        2011・2・28

[追記2]この文章は親友のグレッグさんと泉谷龍(いずみやりょう)さんからコメントをいただき、書き直してできあがったものです。新しい視点を提示してくれたお2人に感謝します。

変わる家族と介護
写真1 『変わる家族と介護』の表紙
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正確な情報の大切さ

      2011年3月13日(日)

 3月11日に発生した東北地方大平洋沖地震の被害は想像を絶するものがあります。テレビ画面で見るだけですが、揺れと津波と壊れる家屋と火災。さらには福島原発の爆発。実際に現場にいないのでその緊迫感や夜の寒さ、避難所で待たされる倦怠感や余震がもたらす恐怖感などは全て想像するほかありません。あっという間の巨大な破壊に慄然とする思いです。 
 テレビや新聞の情報の他に、各地の友人たちがメールで送ってくれる情報もこの3日間たくさん届きました。僕は11日の午後の往診の際に患者さんのお宅のテレビで初めて地震について知ったのですが、その日の夕方にはもうイギリスのピーター・デュポン(Peter Dupont)さんから心配のメールが届きました。僕はそこまで大規模で世界的に報道されるほどの地震とはまだ実感していませんでしたので、イギリスでも断突にたくさん報道されている(The coverage is massive here. It's by far the biggest item on the news.)とのメッセージを受け取り、びっくりしたのでした。
 その後同種のメッセージがオーストリアのBruno Fuxさんやドイツ、アメリカの友人たちからも届き、彼らが情報をよく知っていることに驚くと共に、心強くも思ったのでした。日本の災害を知って心配している人は世界中にたくさんいるのだと体感できたからです。 
 僕は11日と12日、鹿児島市内で病院勤務していました。幸いなことに鹿児島市内では揺れもほとんどなく、津波の被害もありませんでした。ですが僕の母の郷は茨城県の海辺にある大洗町です。それも海から数百メートルしか離れていないところです。そこに住んでいるおば夫妻は避難所に逃げたとのことです。命が無事であったからよかったものの、おそらく家は津波で破壊されたことでしょう。
 いまのところ僕の友人・知人たちに命に別状のあった人はいませんが、関東方面の人たちは大変な目に遭っています。本が落ちてきた。家のなかがめちゃくちゃ。電車が止まり家に帰れない。停電。弟の家が壊れた。などなど。こちらからの安否を尋ねるメールに対して返ってくる内容に、ほっとしたりぞっとしたりを繰り返しています。 
 さて、今日13日に2つの情報がメールで届き、いろいろ考えさせられました。以下そのことを書いてみたいと思います。
 1つ目は友人の泉谷龍(いずみやりょう)さんからのものです。福島原発の爆発についての「原子力資料情報室」の記者会見の動画です。泉谷さんの友人がフェイスブックにアップロードされていたそうで、こちらにも回してくださったのでした(http://www.ustream.tv/recorded/13269582)。
 「原子力資料情報室」(http://cnic.jp/)は皆さんにとってはなじみのない名前かも知れませんが、僕は知っていました。故・高木仁三郎さん(1938〜2000。科学者。原子力資料情報室の代表をつとめた)たちの活動だからです。原子力(特にその危険性)についての正しい情報提供を目的とするNPO団体です。
 僕は仁三郎さんに直接お会いしたことはありません。ただお休みどころ芸術祭の講師を3度つとめてくださった林洋子さん(女優、宮澤賢治童話の一人語り芝居)が仁三郎さんの大親友だったのです。その縁で仁三郎さんの妻の久仁子さん(高木仁三郎市民科学基金理事・事務局長)とも知り合い、お休みどころ芸術祭でも話していただきました。
 そういうわけで「原子力資料情報室」に関わる人の一部を僕は顔を合わせて知っていますから、僕にとってはこの動画は信頼性の高い情報なのです。さらに(なぜかはわかりませんが)原子力の話題となると政府はかたくなと言っていいほど危険性を隠したがりますから、余計にほんとうの情報が知りたいのです。
 僕の携帯電話では残念ながら動画(2時間あるそうです)が見れないので、さっそく友人たちに転送し、見てもらいました。以下に2人の感想を引用してみたいと思います。
 まずはこのブログを作ってくださっている楢木祐司さん。普段から原子力への問題意識の高い方です。「私も昨日見ました。原発を実際に設計した技術者の説明が明解で、現在の状況がよくわかりました」。楢木さんらしい理知的なコメントですね。
 次に僕と同世代(30代前半)の友人のコメント。普段原子力への問題意識は全然なかった方です。「一時間あたり1015マイクロシーベルト(?)。一時間で年間浴びる量の一万倍を浴びることになるんだって。 今はもっと増えてるかもって。 電力が供給できないから冷却できないらしいよ。」
 2人のコメントからわかることは、今回の爆発が現時点での政府発表よりもはるかに深刻な事態だということです。一刻も早く原発周囲の方たちがヘリコプターなどで少しでも遠方に避難できるように希望します。特に放射線の影響が強い妊婦さんや子どもたちを優先して移送してほしいです。
 さて、もう1件の情報は別の友人から届きました。以下にメールの全文を引用します。

「できること少しだけでも 
九州電力で働いている人からのお願いです 
出来るだけ多くに回してとの事です

■お願い■
 この度の大地震の被害で本日22時以降関東から東北地方への電気供給が難しくなり、中部電力や関西電力、九州電力からも送給電を行います。
 一人が少しの節電をするだけで、東北地方周辺の方の携帯の充電、病院での医療機器の使用が可能になります。
 九州に住む私たちには、節電ぐらいしか出来ませんが、このメールをできるだけ多くの方に送信することできっと役に立ちます。」

 このメールを読み、すぐに僕は携帯電話のアドレス帳に載っているほとんど全ての友人たちに転送しました。あまりにも悲惨な状況に対して何もできない自分にも、情報の転送くらいならできると思ったのです。ところが友人たちから返ってきたメールは予想外のものでした。いちばん代表的な2つのメッセージを以下に引用します。 
 「こんにちは。この節電のメールですが、色々と誤解があります。
 関西方面からの送電は確かに行われているし、今後も行われるのですが、ご存知の通り西日本と東日本では周波数が違います。なので中部地区にある特殊な変電所を経由しないといけないのですが、そこの最大送電量は100万キロワットで、既にその量を送っています。なので、これ以上過剰に節電しても残念ながら送電量が増えるわけではありません。
 もちろん、無駄に電気を使用しないことは全体の負荷を下げるのでよいと思いますが、それで過剰な不便を被ることはないのです。」
 「僕もよくわからなくて、今日ようやく事情がわかったのです。こういうのは善意で広がるから難しいよね。
 因みに僕が入手した情報の出所は、大阪の平松市長の発言です。よろしく〜」
 つまり節電お願いのメールの内容は事実に基づいていなかったのです。おそらくはただ人から人へ転送されることをねらったいたずらメールではないかとのことでした。そして僕も「善意」で一生懸命転送しただけに、考えさせられたのです。
 なんでこんな失敗をしてしまったのでしょう。1つには情報の発信元についてよく知らないまま信用したことがあります。はっきりした人命や団体名のない情報は信頼性が低い。また人名があっても自分が直接会ったり長年にわたって活動を知っていない人の情報は、やはり信頼性が低くなると思います。このように情報の内容だけでなく信頼性にも注目して読まないといけないんですね。
 さらに重要なこととして、援助は簡単にできないということがあると思います。仮に東北地方に物資を送るとしても、現時点で交通網が機能しているのか、とか、どこにどれだけ困っている人たちがいて、そのなかの誰に届けようとするのか、などが問題になってきます。対象を熟知しない安易な援助などありえないのです。 
 今回の地震についていまの自分ができることは、まず東北・関東方面の友人たちと連絡を取り合うことです。彼らのなかに困っている人がいれば、自分として何かできるか考える。きわめて小さな援助ですが、そういう形で災害からの復興を助けていくのがいちばんいいのではないかと思いました。
            興野康也 

[追記] いま(3月13日の23:30)オーストリアのBruno&Brigitte Fuxさんから情報が届きました。海外の方が福島原発の状況をより客観的に報道しているようです。以下に英語の原文を引用し、興野の日本語訳も提示します。 
It was fine to read your message! There is still a serious danger for the meltdown of 3 reactors!! The free radioactivity increase. The spread of radioactivity depends on weather! There is a now a danger for the area of Tokyo (weather forecast). The Flight of Austrian Airlines today therefore has been cancelled.
Best wishes. B&B

 (興野のおば夫妻が避難できたという)あなたのメッセージを読んでよかったです。いまもまだ3基の原発の炉の融解の危険性がかなりあります!!散らばった放射線の量は増加しています。そして放射性物質の広がりの程度は天気によるのです。天気予報によればいまでは東京でも被曝の危険があります。そのためにオーストリア航空の今日の運行は欠航になりました。   あなたの幸福を祈って
   ブルーノ&ブリギッテ・フックス

[追記2]  インターネット上で見つけた情報です。可能な限り正確に書いてあると思います。今日13日福島第一原発の3号機でも水素爆発が起こったことが報道されました。この情報の発信元である小出氏の言うように、最悪の事態が防がれることを祈ります。
タイトル:「福島原発の現状について」小出裕章(京都大学 原子炉実験所) ストップ浜岡原発@ブログ livedoor Blog

[追記3] 以下は泉谷龍さんから届いた2通のメールです。今回の震災と津波と原発の爆発について、泉谷さんは重要な情報をいち早く教えてくれました。 

メール1  「いま、被災者を大規模に西日本に拡散させて受け入れるべきなんじゃないかなとか考えたりしています。
 地形が変わるほどの被害をうけた地域の復興には数年かかるだろうし、被災地に数年に渡って支援を続けるよりも被災者自体を移動させて、受け入れ地域で細かく支援できないかな。
 西日本の空き家とかを使うだけで、数十万人の受け入れができるんだと思うんだけどな。
 どう思う?
 いずれ被災者は、ずっとは小学校とか体育館とかにはいられないし、仮設住宅も全然足りないだろうから、自然発生的に被災者は移動しはるやろうけど、能動的に西日本で受け入れ体制を整えてもいい気がするんだけどな。
 被災者の今後の選択肢を増やす意味で、西日本でやるべきとちゃうかなー。
 国の経済的なバックアップがあれば、西日本のインフラと地域コミュニティを有効に使えるんだと思うんだけど…。
 どうかな…。」

メール2  「離れ難いよねー。住み慣れた土地は、自分の肌身みないなものやしなー。辛い気持ちでいはるやろなー。
 大阪で『仮住いプロジェクト』を立ち上げた人がいるそうです。中谷さんという建築家らしいです。」

[追記4] 15日午前9時過ぎ、千葉県の友人から電話がありました。「家もひどい状態。まだぐらぐら揺れてる。原発もだめでしょう。1歳と3歳の孫がいる。万が一の事態になったら一時お休みどころにあずかってもらえないか?」。
 もちろん僕はOKしました。何かの形で役に立ちたいと思っていたので。また東北・関東方面からの被災者避難という事態に備えて、球磨地方の友人たちに連絡して一時預かりを依頼することにしました。追記3の泉谷さんの構想が、現実化するかも知れません。

[追記5] 15日にスコットランド(イギリス北部)のDavid Simさんから届いたメールです。彼の真心と祈りが伝わってきますので、ここに掲載します。英訳は興野が付けました。 

It's great to hear that you are ok. I hope your friends and family pull through. I really wish there was something I could do. Here in Scotland we can only watch and wait. Our news broadcasters here have made us aware of the dangers of explosions. I really hope that the staff keep it under control. It looks like people all over Japan are working very hard and I think the staff in the nuclear plants must be very competent.

 あなたが無事と知ってすばらしくうれしかったです。あなたの友人たちや家族がこの難局を切り抜けられますように。何か僕にできることがあればと本当に思うのですが…。ここスコットランドで僕らができることといえばテレビで情報を見てじっと待っていることだけです。ニュースキャスターたちは原発の爆発の危険性を伝えています。スタッフがなんとかコントロールしてくれるように祈ります。日本全土の人たちが(事態の改善に向けて)懸命に努力しているようですし、発電所スタッフも有能に違いないと思います。
      デイビット・シム
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自殺を「予知・予防」するためには

 実際に小冊子『いそがないで−−苦しんでいるあなたへのメッセージ』(企画:NPO法人自殺防止ネットワーク風、発行:ぱんたか)に掲載された文章です。 


興野康也(精神科医)

 自殺予防活動は大切です。1人でも多くの方が自殺の予防に関心を持つことが、死を考えている本人や周囲の人たちを力づけることになります。
 自殺予防の上で特に難しいのが自殺の予知です。周囲の人が全く気づかないうちに亡くなっていく方もいます。しかし多くの方は「死にたい」という気持ちを直接どこかでほのめかしたりします。ですから、周囲が注意していれば自殺願望に未然に気づくことは可能です。
 死への誘いは多くの場合、一時的な現象です。自殺行為をして助かった人の多くがしばらく経つと「なんで死のうと思ったんだろう」という気持ちになっています。追い詰められ、疲れ果てた結果としての衝動的行動であることが多いのです。ですから自殺予防の社会的な努力は必要なのです。

◆具体的な注意点

(1)まず、親しい人が自殺する可能性が「本当にあり得る」と信じることです。「そんなはずはない」と思っていると、自殺願望のサインを見逃してしまいます。
(2)また、「もう疲れました」「待てません」「私なんかいない方がいい」「どこかに行ってしまいたい」など、死をにおわせる発言があれば、その言葉を誠実に受けとめて心配をすることです。「言ってるだけ…」「オーバーな…」と思ってしまいやすいので、気をつけないといけません。
(3)そして次に、第三者である専門家(精神医療者など)に相談することです。身近な人だけで解決しようとすると、かえってうまくいかないものです。
 さらに心理学全般について学んでおくと、自分自身や周りの人の精神的な不調に、より早く気づくことができます。

◆自殺の原因は「性格の弱さ」ではありません

 名著『人はなぜ自殺するのか』(張賢徳著/勉誠出版)によれば、自殺者の約9割は精神医学的に病気の状態だったと診断できるそうです。自殺願望は性格の弱さでもなく、またもちろん悪いことでもなく、回復しうる一時的な病(うつ病など)の症状であることがほとんどです。このような自殺願望・行為については、精神科受診が一番です。病院やクリニックを受診すれば、多くの場合、脳の失調を改善し、自殺を減らすことができるのです。
 ただ「専門家に相談を」と言われても、なかなかきっかけがなければ受診や相談をできないものだと思います。そのためにも日頃から自殺予防や心理学などに関心を持って、本を読んだり講座に参加したりテレビを見たりして、知識を得ておくことも大切です。それが早期発見・早期受診につながります。

◆痛みを分かち合える社会を目指して

 人間は一人ではなかなか重荷とたたかっていけません。誰かに苦しさを伝え、分かち合ってもらうことがとても大切です。一人ひとりが悩みを話せるような人間関係を持つことが重要ですし、また社会的なサポートシステムの構築も必要です。
 ひとつの試みとして私は「お休みどころ」(2003年、熊本県の山中に開設された無料の悩み・医療相談所)を運営しています。豊かな自然のなかでゆっくりお話をすることで、人にくつろいでもらうボランティア活動です。同様の活動をしている人たちとのネットワークも作ろうとしています。人の痛みを分かち合える社会はまた、人が希望を持って生きられる社会であると思うのです。

(プロフィール)
鹿児島市内の伊敷病院に勤務する精神科医。また熊本県水上村の山中で「お休みどころ」を運営している。

いそがないで

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痛みを分かち合うこと――自殺を予知し予防するために

 この文章は千葉県の篠原鋭一さんに頼まれて、自殺予防活動の小冊子『いそがないで−−苦しんでいるあなたへのメッセージ』(企画:NPO法人自殺防止ネットワーク風、発行:株式会社ぱんたか)に載せるために書いたものです。2010年11月〜12月にかけて書きました。字数の制限もあり、冊子自体にはこの文章の短縮版が載ることになりました。ただ内容的にはこちらの方が充実していると言ってくださる方も多いので、このブログに掲載することとしました。(興野康也)

 私は鹿児島市内の民間精神病院に勤務する精神科医です。また週の半分は熊本県水上村の山中で「お休みどころ」という心の保養所をボランティアで運営しています。この二つの立場から、自殺の予知と予防について感じるところをつづってみたいと思います。
 まず精神科医として、自殺予防と聞くと反射的に「難しいなぁ……」と思ってしまいます。まったく予期しない、患者さんの唐突な死や、心配していたのに防ぎきれなかった自殺など、亡くなられた幾人もの顔が浮かびます。何度も何度も死のうとして、その末に亡くなっていく方もいます。過労や失職、孤独や過疎に追い詰められて亡くなる方もいます。特に自分が主治医として関わった方が自殺されると、責任や悔恨など、いつまでも消えない思いが残ります。
 一般に精神病院では入院時のボディーチェックをはじめ、患者さんの自殺防止には細心の注意を払っているものですが、それでもなお止められない自殺というものがありました。この絶望に近い痛恨の思いを、程度の差はあれ、多くの精神科医療者が共有していると推測します。

◆自殺は十分に予防できます

 では自殺は、本人や周囲がいくら努力しても防げないもので、自殺予防の活動には意味はないのでしょうか。私はそうは思いません。実際に自殺予防活動が自殺者数を減らすというさまざまなデータが出ており、我々の病院でも対策をたてることで防げたケースもありました。また家族や友人が何かおかしいと気づき、本人を説得して医療機関に受診して回復につながることも多いのです。苦しむ本人が「いのちの電話」などの団体にSOSを出し、助けられたというケースに至っては枚挙にいとまがありません。
 自殺を身近に経験した人は、絶望感から「自殺なんて止めようがない」と感じてしまう傾向にありますが、実際には本人と周囲の力で予知して防ぎうる自殺も多いのです。多くの場合、死を考えている人はどこかで自殺願望をほのめかす発言をしています。また自殺はいきなり起こることは少なく、たいていは「漠然と死にたい気持ち→具体的な死の計画→小さな自殺行動→致死的な行動」と徐々に進展していくので、周囲が注意していれば未然に気づくことも可能です。
 また自殺願望は多くの場合、一時的な現象であり、ずっと続くわけではありません。自殺行為をした多くの人が、しばらく経てば「なんで死のうと思ったんだろう」という気持ちになっています。危機を通じて命の大切さや人に生かされていることに気づいたという方もいます。追い詰められ疲れ果てた結果としての衝動的行動であることが多いのです。
 このように自殺は予防できるものですし、また予防の社会的な努力が必要なものです。そのことを一人ひとりがはっきりと信じることがまず必要だと私は思うのです。

◆言葉を「真に受ける」ことが大切です

 次に、私のもう一方の活動である「お休みどころ」について述べます。「お休みどころ」は九州山地の一角の、標高500メートル超のところにある古民家です。活動の内容は、豊かな自然のなかで湧き水や空気や夕景や星や静けさを味わってもらい、来られた方と共に一緒に時間を過ごし語り合うというものです。素朴な交わりのなかで、傷ついた心が優しく癒される。山の「気」にはそんな不思議な力があるようです。
 これは直接的な自殺予防の活動ではありませんが、その一部には位置しています。人が人生の挫折や落胆などを誰かに受けとめてもらい、分かちあってもらえる場を作り、その場所どうしがつながりあって、個々の悩みや苦しみに共同で対応するネットワークをつくる。そういう取り組みもまた大切な自殺予防活動(および残された人たちのケア)の一環だと考えるからです。
 実際、「お休みどころ」の創設リーダーだった故・上島聖好さん(文筆家)が設立を思いたったひとつの理由は、親友のうつ病による自殺でした。その親友は最期にひと息つける場所に行こうとしていました。ですが、たどり着けなかったのです。そのような人を待つところとして、上島さんは「お休みどころ」を作りました。
 しかし3年前に、その上島さん自身が自殺をして亡くなるということが起きました。当時の私は彼女の死の危険を察知して手を打つことができなかったばかりか、「またわざとらしい自殺未遂の演技をして……」と苛立ってすらいました。
 なぜこんなことになってしまったのかを考えると、二つの慢心に思い当たります。一つ目は、まさか身近な人が実際に亡くなるとは考えていなかったことです。彼女が自殺をほのめかす言葉や行動を何度も発していたにも関わらず、そんなことはあり得ないと思っていたのです。二つ目は、自分は上島さんの精神状態を理解していると思っていたことです。いくら精神科医療者であっても身近な人の診察・治療はしてはいけないという鉄則があるにも関わらずです。身近な人とは心の距離が近すぎて、客観的に観察・判断することが難しいのです。
 この体験から言うと、親しい人が自殺する可能性がほんとうにあり得ると信じること、また死をにおわせる言動(「もう疲れました」「待てません」「私なんかいない方がいい」「どこかに行ってしまいたい」など)があれば誠実に受けとめて心配し、第三者である専門家(精神科医療者など)に相談することが、自殺予防活動の中心になると考えます。これはあたりまえのようでいて実は難しく、また大切なことであるのです。

◆自殺の原因は「性格の弱さ」ではありません

 名著である『人はなぜ自殺するのか』(張賢徳著、勉誠出版)によれば、自殺者の約9割は精神医学的に病気の状態だったと診断できるそうです。またこの結果は海外の諸研究でも確認されているそうです。自殺願望は心理学的な悩みだけではなく、脳の変調によっても起こります。特に最多の割合を占めるうつ病の場合、病気そのものの作用で死への衝動が起こることが知られています。死について考えたり口にしたりすることは性格の弱さの結果や悪いことではないのです。
 このような脳の変調によって引き起こされる自殺願望・行為については、精神科受診が一番です。病院やクリニックを受診すれば病気の症状を軽減し、精神状態をより安定させ、再発を減らし、自殺を減らすということはできるのです。
 ただ「専門家に相談を」と言われてもなかなかきっかけがなければ受診や相談をできないものだと思います。そのためにも日頃から自殺予防や心理学などに関心を持って、本を読んだり講座に参加したりテレビを見たりして知識を得ておくことが大切です。それが早期発見・早期受診につながります。あと医療スタッフ(医師、看護師、臨床心理士、作業療法士、ソーシャルワーカーなど)の友人を持っておくとすぐに相談しやすく安心ですね。

◆痛みを分かち合える社会を目指して

 人間は一人ではなかなか重荷とたたかっていけません。誰かに苦しさを伝え、分かち合ってもらうことがとても大切です。一人ひとりが悩みを話せるような人間関係を持つことが重要ですし、また社会的なサポートシステムの構築も必要です。NPOなど大小さまざまな民間団体の活動も大切です。
 さらに一人ひとりが周囲の人のために心と体を休めるための場所をつくっていけば、この世界が心の傷ついた人たちにとってもっと住みやすい場所になるのではないかと私は思います。そのひとつの試みとして、私は「お休みどころ」を運営しています。豊かな自然と清い泉のもとで心疲れた人が休む、というのは古来みられる現象です。
 同様の活動をしている方は各地におられるので、連絡を取り合い、精神的な休息のためのネットワークを作りたいと考えています。1ヶ所で対応できる人の数は限られていますが、連携して紹介し合えば、その何倍もの方の相談に対応できるからです。
 自殺予防活動の遠大な目標は、人の痛みを分かち合える社会の形成だと思います。そして苦しむ人への援助を提供できる社会はまた、人が希望を持って生きられる社会でもあると思うのです。

[追記]この文章は多くの方に意見を言っていただき、何度も書き足したり書き直したりしてできあがったものです。コメントしてくださった以下の友人たちに感謝いたします(あいうえお順)。興野健也、国重浩一、グレゴリー・ヴァンダービルト、小林幹穂、小堀郁江、斉藤庸子、白澤雅子、田嶋順子、谷口博文、鶴上うしを、楢木祐司、成田泰士、増山博之、松本学、光岡美瑛子、八木義人さん。
 さらに文章を直してくださった編集者の石川光則さん、そしてお名前を揚げませんが貴重なコメントをくださった方々に感謝します。この文章を書くことで、お休みどころの未来と進んでいく方向性についての見通しが立ちました。ありがとうございました。
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