お休みどころ

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藤田省三さんの追悼文 

     2011年6月12日(日)

 今回は思想史家であった故・藤田省三さん(1927〜2003)のために僕と上島聖好さんが書いた追悼文をご紹介します。出版社の「みすず書房」が発行している雑誌『みすず』2003年10月号に掲載されました。
 藤田省三さんは上島さんが師としていた人物で、1つの学問領域にとどまらない巨大な知性を備えた人でした。その主張は常に過激でありましたが、一方で保守派にもファンがいたそうです。派閥に頼らず、自分自身の思索をされていたからでしょう。 
 僕がお目にかかったのは晩年で、大腸ガン手術の後遺症などでかなり衰弱されていました。やがて転倒骨折を機に寝たきりとなられ、昼夜逆転や不穏や暴言が現れてきました。いまにして思えば「せん妄」状態です。
 この時期、僕の医学の勉強のためにとの連れ合いの春子さんのご好意で、省三さんの病室の夜間付き添い介助をしたことがあります。そのときの様子が、僕の文章の内容です。 
 省三さんが亡くなられたのは、上島さんとグレッグさんと僕がお休みどころを始めた2003年5月1日の4週間後、5月28日でした。そのこともあり、上島さんの文章はお休みどころを作っていく様子が内容となっています。
 省三さんが亡くなるまでに、上島さんはたくさんのやり取りを続け、また最後の2年近くは関東在住の友人たちに呼びかけ、省三さんの介護を支援してきていました。いまにして思えば、そういう支援ネット形成の様子も書いておいてほしかったと思います。


藤田先生の言葉を生きる
        興野康也+上島聖好
 藤田先生は死んでしまったが、先生から言われたことをしばしばおもいだす。先生がどこかにいるような気もちになる。
 「君はほんとうにワガママで、運び人にもならないな」「どうして36度8分では熱がないと言いきれるのか」「理由を問うことは相手を規制すること」。2003年3月23日から29日、先生の夜の介助に行かせてもらったとき、病床の先生の言葉は珍妙新鮮で心をとらえられた。先生は完全に昼夜逆転で夜は目がランラン。腸閉塞疑いでなじみの病室を離れ、つねに興奮気味だった。人工肛門のウンチチェックを何度も指示され、深夜に数分に1回同じチェックのくりかえし。僕が閉口していると、先生の怒りの一閃が飛ぶのだった。
 「やることが機械的。手続きを飛ばす。非常に危険」。先生が怒って発した言葉は、あとでおもうと当たっている。先生は悪口の達人だったとおもう。
 病室を僕が出るとき、先生が敬礼の手つきをしておどろいたことがある。「上官は指先をやや丸く。下の者は指をピンとそらせて敬礼した」となつかしそうに言っておられた。先生ほどの戦争批判者はないと僕はおもってきたが、批判の相手はどこか遠くにいるものではなく、先生自身のからだにしみついたものではなかったのか。
 「僕はずるいんだ。保守が必要なときは保守の良さを説き、革新が必要なときは革新の良さを説く」とも言っておられた。ずるさというよりも、先生は何事に対しても批判者だったとおもう。
 介助を終えるまえ、「先生の著作を学びます」と言うと、「いやいや、ダメだよ」。たしかに先生の言葉は噛んでも噛んでも奥がある。茶目な先生をおもうとなつかしい。
     *
 2002年10月の終りに、先生を見舞った。
 「先生は野性でもって学者の世界に立ち向かったんですね」というと、「おまえ、よくわかっているじゃないか」とにっこりした。
 私は私の中心にでんといすわる野性を、先生になだめられてきた。
 「論楽社は相互扶助の場だから」と三度京都にも話しに来ていただいた。
 ならば、相互扶助とやらを生きてみよう。
 言葉の種はそのときぽかんと私の中に植えつけられた。
 だからおつれあいの春子さんが倒れ、先生が入院されたときも、「相互扶助の輪でたすけねば。先生、どこまでやれるか実験させて下さい」と即座におもいたったし、論楽社の相互扶助ハウス「お休みどころ」をこの5月1日、熊本県球磨(くま)郡水上(みずかみ)村に開いたのだった。
 トルストイの翻訳者で、徴兵拒否者、北御門二郎(きたみかどじろう)さん(90)の住む平和の地が、ここ水上村。北御門さんから「お休みどころ」にと紹介された家は、球磨川源流近く、長年の廃屋であった。
 むかしあったという天然林も杉林に変えられていて、通気も悪い。シカもイノシシも「横行」している。かてて加えて、捨てられた家というものは、再び住むに、じつに、困難である。
 たとえば、いまは、ノミ。ノミの大発生。一歩外に出るだけでも、20匹は足にくっついてくる。足元見いみいこわごわと洗濯を干す始末。私は虫アレルギー。赤く腫れて飛火する。ずいぶんノミに血を捧げた。人は「バルサンをたいたらいい」と教えてくれる。
 が、ちょっと待とう。
 ノミと対峙すること。
 困難の正体をみきわめること。
 徹底的に困ること。
 本や村の人との会話やらそれら言葉のきれぎれをつなぎあわせ、「ノミ忌避剤」をつくってみた。タバコの葉、トウガラシ、ニンニク、ヨモギなどを煮出し、木酢や焼酎を加えた簡単なもの。
 結果はいまから。ダメだったら、次の手を考えてみよう。
 この二、三日、蚊の多さに困っていたら、きょうは救援隊のヘリコプターのようにトンボが群れとんでいる。そのせいか、蚊も少ない。ノミともそのような接点はないものか。
 先生の言葉を、からだを通して味わっている。
(おきのやすなり+うえじましょうこう 論楽社・相互扶助ハウス「お休みどころ」)

「みすず」
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雑誌『京都TOMORROW』の原稿 

  2011年5月24日(火)

 お休みどころの創設時のリーダーだった故・上島聖好さんは、愛着のある自分の原稿を手元に置いていました。今回ご紹介する雑誌『京都TOMORROW−−それぞれの京都論』22号(1992年7月号、鴨叡出版発行、A5版で64ページ)に掲載された原稿、「前へ、前へ。」もそのひとつです。
 内容は書評でありながら、上島さん自身の理想とする生き方を強く表現するものになっています。実際、著者のメイ・サートンのように、上島さんも20代のころから、『経験』と題した日記(的ノート)をつけ続けていました。全187冊がお休みどころに残されています。上島さんが日記をつける姿は瞑想のようでもあり、心の平静を保つための自己治療のようでもありました。
 ところで、この『京都TOMORROW』22号の編集委員には、上島さんと論楽社を共同運営していた虫賀宗博さんの名前もあります。内容を見るとかなり虫賀さんが中心的に編集されたようで、論楽社につながる人たちの名前があちこちに出てきています。特集は「京都の自然・再発見」。いまから19年前の雑誌なのに、環境問題や自然との触れ合いについて多角的にとらえられていて現代的です。現在では入手することは困難だと思いますが、もし手にする機会がありましたら、お読みいただければと思います。


前へ、前へ。 ――人はいかに「敗北」を祝福できるか
上島聖好

 人はなぜ「日記」を書き出すのだろう。なぜそのように生きようとし、そのようにしか生きれなかったのか。ひとりひとりの存在の秘密が、「日記」にまるごと隠されているようで、私はことのほか「日記」の生まれる瞬間に興味があった。いい「日記」とは、時を経てもなお、生まれ出る瞬間の緊張をはらんだものであろう。
 たとえば『独り居の日記』のメイ・サートン。彼女は同性愛を言ったことにより大学の職を奪われ、本の出版も中止される。そういう「敗北」のなかを再び生きはじめる五十八歳の著者の一年間の再生の記録が『独り居の日記』である。
 「今朝は泣きながら目をさました。六十近くにもなって、人は自分を大きく変えることができるだろうか? 私はいったい、意識のずっと下で生まれた怒りや敵意や相反する感情などを統制することを学ぶことができるだろうか? それができなければ、私は愛している人を失うだろう。私にできることといえば、瞬間瞬間を、一時間一時間を、生き続けることだけだ――小鳥に餌をやり、部屋をかたづけ、たとえ私の内部には築きえなくても、せめて私の身の回りに、秩序と平和を創造することだ」。
 アウシュヴィッツを生きのびたシマンスキーさんが、京都講演でのおり、生還の秘密をきかれて、「朝、ほんとはそんなことをしなくてもいいのに、顔を洗ったり、身じたくをしたり、日常を身に保った人」というイミのことを訥々と語っていた。メイ・サートンの生活もそれに近い。
 魂の記録をするというその態度によってサートンはしだいに心のバランスを得、「敗北」を自らの財産としてゆく。
 「苦悩は往々にして失敗と感じられるが、実はそれは成長への入口なのである。そして成長は、どの年齢であっても苦しみを伴わぬことがない、とユングはいう」。
 ユング。シモーヌ・ヴェイユ。この本で、私はこのふたりの人にあらたに出会わせてもらった。ふところ深い本はさまざまの出会いの回路を持っている。
 「私は五十八歳であることに誇りをもち、いまだに生きて愛だの恋だのと関わりあい、かつてなかったほど創造力もあればバランスも保ち、可能性を感じている。肉体的な凋落のいくつかは気にならないことはないけど、つきつめてみれば気にはならない」。
 世界と別れるまで、私はいったいどれほどこの言葉に救けられるだろう。「五十八」が「四十五」だろうと「八十」であろうと、それは問題ではない。言葉をつらぬく背骨のつよさに一も二もなく感動する。この本はそういう宝のような言葉があちこちにぽろぽろとこばれている。
 一瞬一瞬をいかに生きのびたか。その軌跡に私はいまも励まされつづけている。前へ、前へ、生きよ。

『独り居の日記』メイ・サートン(みすず書房/2678円)

京都TOMORROW
写真1 『京都TOMORROW』22号(1992年7月、鴨叡出版発行)の表紙。

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「楽しさ」を解する心――Kさんとのつきあい

序文

 今回は季刊誌『いま、人間として』創刊第二巻(径(こみち)書房、1982年)に掲載された故・上島聖好(うえじましょうこう)さんの文章をご紹介します。上島さんの初期の文章になります。 
 Kさんとは故・金在述(キムジェスル、1907〜1993)さんのことです。金さんに僕は直接お会いしたことはなかったのですが、金さんにどれほど励まされたかということは、上島さんからたびたび聞いていました。
 この雑誌の編集者の1人が、このブログを作ってくださっている楢木祐司さんです。『いま、人間として』の創刊号に上島さんが投稿したことが、2人の出会いのきっかけになったそうです。
 楢木さんの編集後記にはこうあります。「三ヶ月がこんなに早いものだとは思わなかった。チョット油断していたら、もう二巻の校了だという。径書房はいま、千客万来で、活気に満ちている。不安定なお天気もなんのその、にぎやかな会話と紫煙の渦だ…」。
 たしかにこの第二巻には活気がみなぎっています。細部まで充実していて、例えば「筆者の横顔」欄には上島さんについてこう書いてあります。「『山の分校』という小さな塾をやりながら、大学院の聴講もするお嬢さん。同人誌や塾の子ども文集を作ったりで多忙」。これはいまの僕の目から見ても非常に的確な批評で、上島さんの一生の仕事が「文集作り」だったのだと教えられます。


「楽しさ」を解する心――Kさんとのつきあい
       上島聖好

  アムネスティで出会ったKさん

 今年の6月は不気味なほど雨が降らなかった。5月のようにさわやかで、晴れ渡った日が続いた。そこで、Kさんへの「梅雨みまい」のハガキに私は、「寒い夏です。ちっとも雨が降りません。晴れすぎた雨期で、なんとも気の重いことです」と書いた。
 2日後、Kさんから電話がかかってきた。「ハガキ、どうもありがとう」とはきはきとKさんはいう。「実はね、あのなかで私が60年間ではじめてみる表現がありましたよ。『寒い夏』なんてはじめてきいたなあ。60年ほど日本にいて、はじめてきいたことばだったなあ」とKさんは弾むような声でいう。Kさんの笑顔が伝わってくる。
 Kさんは1907年生まれ、今年で75歳である。出身は韓国の慶尚北道。父も母も朝鮮人である。Kさんは1928年(昭和3)年に日本に来た。以来、ずっと京都に住んでいる。私の年の倍以上も京都に、いや、日本に住んでいることになる。
 Kさんは焼肉店を営むかたわら、保育園の理事もしている。
「お忙しいですか」と電話で私がいうと、「はい。でも、忙しいということは自分が必要とされてることだから」と恥ずかしそうにKさんはいう。
 次の日曜日にバスを貸切って町内会で琵琶湖にいくという。「計画したときは、40人も集まるかなあ、と心配してたんだけど、フタをあけてみたら72人も行くんですよ。町内の半分以上の人なんだなあ。補助席を倒しても満員ですよ。」とうれしそうにKさんはいう。
 Kさんは町内会長なのである。「在日韓国人として初めて町内会長になった」(81年4月13日付毎日新聞)というので、当時、各紙に載った。Kさんはそのなかで、「私が会長に選ばれたことが話題になること自体、残念なことだ」(同)と述べている。
「琵琶湖ではミシガン号に乗るんですよ。そうだ、また、今度Mさんもいっしょにミシガン号に乗りに行こうか」とKさんはいう。
 Mさんとは私の友達である。
 私がKさんを知ったのは81年の5月である。
 アムネスティというのを御存知であろうか。ハガキ一本で政治犯を救けるボランティアである。私はそのメンバーである。81年5月にアムネスティ京都グループが中心になって、「アムネスティ論楽(ろんがく)会・国籍とは何か」というのを行なった。たとえば、日本というクニで生まれ、生まれた土地以外に住んだことがないというのに、住民票もなく、したがって、市民でもないというのはどういうことだろうか、それを分かつ「国籍」とは一体、自分にとって何なのか、という素朴な疑問から発した会であった。
 Kさんはその会にきていた。会も終わりの方に近づいたとき、Kさんは、「いいですか」と遠慮がちにたずね、話しはじめた。
 Kさんが日本にきた当時、日本人は2円50銭で働かせられたとしたら、朝鮮人は1円で使われたという。
「もちろん、教育なんか受けさせてもらえませんでした」とKさん。
 当時を振り返りながら、日本人には2つのタイプ、平和で仲良く、というのと、侵略好き、というのがあるんじゃないかという。いまの若い人には、後者のタイプがみられないという。
 きいている私は、ほんまに若い人には侵略好きというのはないのかなあ、といぶかる。モーロクしてはるんとちゃうか、と思う。
 Kさんは続ける。
「私はひとつの希望を持っています」という。
「私は焼肉店をするかたわら、保育園の理事をしています。園児は日本人半分、韓国人半分です。こどもたちはいっしょに元気で遊んでいます。差別はありません。20年もたてば、私のからだはこの世にないでしょう。しかし、そのとき、もう一人前になったこどもたちが、『みんないっしょやったなあ』と思い出してくれるような町にしたいと思っています。そんなふるさとの風景をあたえてやりたいと思います」。
 わずか、3、4分のことだった。会場がシーンとした。Kさんは若い人に、こどもに、20年後のこの世に、希望を抱いていたのだ。それは、いま生息している私たちに、希望をあたえた。

  Kさんの信念を知る

 私とMさんは、希望をあたえてくれたお礼に、Kさんに手紙を書いた。
 Kさんはすぐに電話をくれた。そして、一度会おうということになったのである。
 そのとき、Kさんの考え方の核にあるのがキリスト教であることを知った。
 Kさんは大韓基督教会のボランティア活動で、病院訪問をしている。「この世でいちばん淋しいのが病人ですよ」とKさんはいう。
 ただ見舞うだけじゃなく、病人の手を握ったり、足をさすってやるといいという。
 Kさんはハンセン氏病患者のいる、瀬戸内の長島愛生園を訪ねたときのことを語る。
 「患者さんがね、ようきてくれはったといって手を差し出したんですね。私は思わず手を引込めてしまいました。移らないと頭ではわかっているのに。帰りの船の中で思いましたよ。患者さんの世話をする手伝いのひとたちのなかに天使はいるんじゃないかってねえ。」
 私は不覚にも涙がこぼれた。
 クリスチャンのKさんは、日米開戦とともに刑務所に送られた。ちょうど、床屋へ行こうとしたときだった。「それから髪は伸び放題でね。今はこんなにハゲのじいさんだけど、昔はふさふさと髪があったよ。信じられへんやろ」とKさんは笑いながら、頭のまわりで「ふさふさ」と描いてみせる。私は「ヘエー」と感心する。
 Kさんはタバコの火でひげを焼かれて拷問される。罪名は「公務妨害」。「公務」とはもちろん、戦争である。
 戦後、拷問した人と偶然会った。夏の暑い、ぎゅうぎゅう詰めのバスの中でヒョイと横をみたら、その人がいたという。彼は平身低頭、平あやまりにあやまった。
「仕方なかったんやね、その人も。ただ、まじめで、公務に忠実なだけだったんや、と思ったよ」と淡々という。
 私は「まじめさ」のもたらす害悪を思う。「まじめに」職務に従い、「まじめに」人を殺していったのだな、と思う。
「どうしてキリスト教に入られたんですか」ときく。
「教会に行きはじめたのは6つか7つのときやったなあ。入信したのは19やったけど。聖書のことばを覚えていくと牧師さんが、きれいなキリストの絵のついたメンコみたいなもんくれはるんやな。それが欲しくてねえ」とKさんはいう。
 その頃、遊び道具といえば、海岸でみつけたガラスのかけらだけだった。赤や黄色のガラスのかけらが水の中でキラキラ輝くのはとてもきれいだった。しかし、それ以上にカードは魅力的だった。
「キラキラ、キラキラ、日に輝いていたよ」と目を細めていう。
 それと同じような目をして、「朝鮮の月はまあるく大きい」という。空気が冷たく澄んでいるから月が大きく見えるという。
「この間行かれたときはどうでした」と私はきく。去年、Kさんは二度目(だと思う)の韓国訪問をしたのである。
「大きかったよ」とKさんはいう。
 だからといって、たとえば、「やはり、Kさんのふるさとは朝鮮なんですね」というと、Kさんはきっと首をかしげるに違いない。
 Kさんは「町内会長に選ばれ、初めて京都市に住んでいる、という実感がわいた」(81年6月5日付朝日新聞)という。それまでは、「日本にも、かといって韓国にも自分の籍があるという実感がわかなかった」(同)。
 Kさんにとってふるさとは、あるものではなく、つくるものだったのである。
 教会を「同朋の手」でつくっていくことが、「ふるさとづくり」の第一歩だったといえる。仕事に行く前の早朝、終わったあとの夜遅く、桂川のじゃりをリヤカーで運んで、文字どおり、地盤からつくっていった。
「教会の鐘が朝の6時と夜の9時になるんやな。それを町のひとがきいて生活の合図にしてくれはる。鐘の音、ええなあ、ていわれたときはうれしかったよ」とKさんはいう。
 私はクリスマスのミサの日、教会にいった。そこには「元気で若い」Kさんの姿ではなく、友人や家族に囲まれほっこりとした、「よきおじいちゃん」の姿があった。
 こうやって年をとっていくのも悪くはないなあ、と私は思った。
 総連と民団の争いについてきいたとき、Kさんはどうともいわなかった。かわりに、共産主義撲滅っていっても人間の心は撲滅できないから、といった。共産主義は共産主義の政策をやっているだけのこと、と何とも肩の力のスウとおりることをいう。
 だから、Kさんが、「ひとりのひとの魂がいちばん大切。人間が自由であることが大事だ」といっても、ちっともクサクない。また、その信念に拠って、Kさんは金大中さんを救う会をつくっている。
 私たちは茶飲み友達のようにときどき会い、ときどき手紙を書く。Kさんは手紙のかわりに電話をかける。電話がかかってくると、私は「ちょうど、どうしてはるかと思ってたんですよ」という。これはお世辞ではない。実際そうなのだ。だから、ときどき、手紙と電話が行き違いになるのだ。
 私はKさんが好きである。それは「楽しさ」を解する心をもっておられるからだろうと思う。
 Kさんの焼肉店の名前は「食楽園」である。
 私たちが出会った会は「論楽会」であった。

いま、人間として
写真1 季刊誌『いま、人間として』創刊第二巻(径(こみち)書房、1982年)の表紙。編集長は当時、径書房の社長であった原田奈翁雄(なおお)さん。
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講座「言葉を紡ぐ」の記録から(1994〜1995)

 今回は上島聖好さんが1994〜1995に書いた2つの文章を紹介します。いずれも上島さんが京都で共同運営していた論楽社(ろんがくしゃ)での講座「言葉を紡ぐ」の記録です。

 1994年8月30日
 8月28日の徐勝(ソスン)さん(注1)の講座の折は、ありがとうございました。
 8月の、それもとりわけ暑い年に100人。庭先まで、人が立って見て(聴いて)おられるというのは、はじめてでした。ほんとうに、きゅうくつなことで、ごめんなさい。
 きのう、(29日)後片付けをしていると、倉吉(鳥取県)の谷口さんという方からでんわがありました。谷口さんとはお会いしたことはありませんが、論楽社ブックレットを通しておともだちになりました。
「徐さんの会に行きたかったんです。何人来られましたか。」
 谷口さんはなんとはなしになつかしい倉吉のことばでたずねます。
 100人、というと、
「同じような気持ちをもっている人が100人もいるとは。」
 と、しんからよろこびます。
 黙っていて、言葉にはしなくとも、眼(まなざし)のあつさ、あつまりが大きな流れとなる。おもう力が流れをつくる。こういうことも、あるんだな。
 そのことを、徐勝さんにでんわで伝えると、
「そういう人には会いに行かなくちゃ。ぼくは会いに行くよ。」
 勝さんは野太い声で吠えるように言います。
 かつて、中村尚司(ひさし)さん(注2)は私どもの講座(93.11.7)の講座のとき、
「『貧しさ』『豊かさ』と、経済をやるものとしてその指標を言いますが、つまるところ、会いたい人に会える、そのことがいちばん大切なような気がします。
 ぼくががんの手術をしたとき、医者が三年間でやりたいことは何ですか。それをしてください、と言いました。
 ぼくはいろいろ考えましたが、友人に会いたい、会いにいこうとおもいました。そのことが、大事なんじゃないか。生きて、ごちゃごちゃといまだに“貧困指標”“富裕指標”とは言っていますが。」
 と、話しました。
 勝さんの「会いにいくよ」という声をきいたとき、中村さんの言葉をおもいおこしました。
 会いたいひとに会えない隔離の生を強いられた島田等さん(注3)の詩を私どもの生のために。

 橋
 すでに親の身罷った世で
 親の齢を越えて生きています

 親の無念と
 己のが無念が
 重なる齢となりました

 憎しみ合うこともできぬくらい
 隔てられたまま
 みんなこの世を去っていきます
 橋が架かっても
 会いたい人はもういません

 欅の芽吹く空には
 朧月がかかり
 やがて 夜は
 蜜柑の花の匂いにむせる頃です
『次の冬』(注4)より

(注1)徐勝。東アジア比較人権法学者。京都生まれ。1971年ソウル留学中に当時の軍事独裁政権に逮捕され、19年間を獄中で過ごす。1990年に釈放。日本の救援活動の力も大きかった。
(注2)中村尚司。経済学者。南アジア経済を専門とし、スリランカのシンハラ語についての著書もある。
(注3)島田等。1926―1995。詩人・思想家。1947年に国立ハンセン病療養所・長島愛生園に収容され、以後そこに生きた。興野にとって人間の精神的成熟のモデルとなった人。
(注4)島田等さんの詩集。論楽社ブックレット。


 みなもとの風景
     上島聖好

「講座・言葉を紡ぐ」も25回を経て、やっとひとつのかたちを結びました。
 囲炉裏端(いろりばた)シンポジウム。
 さまざまな場所で生き、問題を抱え右往左往している。
 それが私たちの日々の姿です。
 その問題のあらわれ方はどうであれ、根っこはひとつ。と、私は考えています。
 苦のみなもとはひとつ。
 そのみなもとを、共に考えてみたいと思いました。あなたやわたしの問題をもちよって、共に、みなもとの風景を見たい。味わいたい。そうしたときに私を縛っていた糸がほろりとおのずからほどけるのではないか。意図せずして、ね。
 今回、阪神大震災を経験された方の三人の話をききました。三人の経験に、三十三人(出席者)――愛媛、東京、岡山、宮津からきた人もいます――が揺すぶられ、照らされ、言葉を重ねました。(そうそう、最年長は84歳、今谷千歳(いまたにちとせ)さん。最年少は三ヶ月、阿久沢麦人(あくざわむぎと)さん。)
 それは、この時代をどう生きたらよいか。
 日々を、刻々を、どう処していったらよいか。
 知恵の重なりとなりました。
 知恵のシンフォニーでした。
(95年7月4日記)
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重なる樹木 ――恵楓園の庭

 上島聖好(うえじましょうこう)

 熊本へ行く前日、長島愛生園の宇佐美さんに会った。「熊本には二ヶ所ハンセン病療養所がありますね。菊池恵楓園(キクチケイフウエン)と琵琶崎待労院(ジロー)院」と言えば、宇佐美さんはあわれな顔をして、「待労院(タイロウイン)です」と言う。
 「熊本は差別のきついところですよ。」と宇佐美さん。
 熊本には加藤清正廟のある日蓮宗の本妙寺という寺があり、ハンセン病の人たちの信仰をあつめていた。1940年7月9日午前5時、県の警察の手によって、「らい部落の患者一斉検挙」が行われる。それは当時の「無らい県運動」の推進ばかりではなく、かてて加えて「観光“熊本”の風致を害」するという理由もあった。そのへんが「熊本県の特殊事情」(『日本ファシズムと医療』藤野豊)であり、宇佐美さんのいうところの「差別のきつい」意味であった。
 今回、中学時代の友人に卒業以来はじめて会った。
 「この近くに恵楓園があって、わたしはクリスチャンなのでときおり訪ねるんだけど、まあなんというか、木が生い茂り、タイムスリップしたような庭で」と友人は大きな息をついて言う。
 この旅の五日間、毎日まっ青な空がつづいた。光の量が豊富だと、雲一点ない空を仰ぎ見ていた。丈高いクスノキと枝のからみあう雑木の点在に心ひかれた。
 恵楓園の庭に立ってみたい。友人の話をきいて、心騒いだ。
 「そういえば中学のときのMさん、そこの皮膚科の医者よ」と友人は言う。
 私はにっこりとする。(94年11月9日記)
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海にそそぐ川――十一月初めの熊本への旅

上島聖好(うえじましょうこう)

 四年ぶり、父の十三回忌で熊本に帰った。熊本での最後の夜、すすきの群れが風に舞い、空いちめん穂の湧き立つ夢を見た。サンゴの産卵のときには――それはきまって満月の夜という――海はまっ赤に染まると友人は言っていたが、すすきの綿毛で空は白くけぶっていた。
 夢のごたる。
 夢を夢のごたる(よう)というのもおかしなもんだが、私どもはこの風景の只中を旅した。
 秋をなぜ白秋というのか。すすきの穂波がお日さんに輝く姿ではなかろうか。あちらとおもえばこちらが揺れ、ざわめき、重なり、出会い、別れ、高く、低く、海は山野にもあったのだった。
 有明海に注ぐ白川という川をのぼってゆくと、阿蘇である。父の里は阿蘇なので、私は阿蘇には馴染んでいた。この世と別れ、たましいの降り立つ地が許されるならば、この草原であろうと心に決めていた。
 しかし、同じく有明海に注ぐ緑川沿いの山野にはくらかった。それが、この旅ですっかり目がひらかれた。
 緑川の上流には「穿(うげ)の洞窟」というのがあり、むかし緑の宮という社が洞窟の前の川原にあったという。「緑の宮の川」、つまり、緑川である。
 川沿いの道の端に、青空市場がある。市場を賑わす食の豊かさに仰天した。あわ、きび、とうもろこしの雑穀類から、豆の多様さ。豆腐、こんにゃく、栗、筍、椎茸などの保存食の類い。まあまあ、あふれんばかりである。よもぎまんじゅうの皮の歯ごたえと、黒砂糖を使ってあるらしいあんのこくには、舌がとろけた。
 かさかさっと落葉を踏みしめ、山に少し入ると、カニが歩く。栗はぼろぼろ、くぬぎがぽろぽろ、雑木の山は深ぶかと呼吸する。
 私どもは上流の清和村で文楽をみた。この里の人たちは農のあいまに浄瑠璃を楽しみ、それが文楽という形になった。江戸時代の終わりのことである。
 きょうのだしものは「傾城阿波の鳴門」。
 すすり泣きがおこる。上演が終わって黒衣の頭巾をとれば、その顔がまたよろしい。黒衣は、じいちゃんばあちゃんたちであった。山野の気品に輝き、自然の恵みを映している。
 こういう顔が、もの言わぬ人形たちにたましいを吹きこんでいたのか。生きてあることを楽しむ。文楽は、生楽であった。
          (94年11月8日記)
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雁、虚空に帰る

 今回は1995年に故・上島聖好さんが書いた2つの文章を掲載します。文中の谷川雁さん(たにがわがん、1923−1995)は詩人でありながらさまざまな社会活動に打ち込んだ人でした。晩年は宮澤賢治の童話作品を子どもたちと「人体交響劇」にして上演したり、音楽付きの朗読テープを作ったりしていました。文中の「セロひきのゴーシュ」は、その物語テープのことです。

雁、虚空に帰る
              上島聖好
 立春の朝、ミッシャ・マイスキーの話をしながらお茶を飲んでいた。
 マイスキーは1948年旧ソ連ラトビアに生まれ、二年間、強制労働収容所に送られた経験をもつチェリストである。いらい、彼は水や風、光の恵み、生かされていることじたいに感謝の念を抱きつづける。「どんな困難や悲劇のなかにも希望を探す」のが、彼の「信念」だという。
 土間の天窓から射しこむ光の矢が白い土壁にまっすぐに輝き、それが、私の目の前のガラス戸に波のようにきらめき映る。
 光が、うれしい。
 と、私は目を細めた。
 そうして、マイスキーという人の話を虫賀さんにしていたのだった。
 光への感謝を。
 どうしてわれひともみな、非日常を経験しないと、日常のありふれたことどもに感謝しないのかを。
 それではいまからマイスキーのCDを借りて来ようと、私は自転車に乗った。
 バッハの無伴奏チェロ組曲が運よくあった。
 帰ってほっこりする間もなく、でんわがなった。横浜のTさんから本の注文。Tさんとは論楽社ブックレットを通してともだちになった。同じ横浜のなじみのお客さんFさんと、Tさんは実は偶然にも友人同士であったという話をひとしきりしたあと、Tさんが、
「Fさんとふたりで話していたのよ。あなたの文章、わたしたちは大好きで、なぜ中央の、もっと大きいところで活躍しないのかって。」
と残念がる。私はすぐさま
「論楽社でやっているじゃないですか。どんなものでも最初は粟粒みたいなものなんですよ。そこから芽が出るんですよ。中央志向はやめてください。」
 となまいきに返す。
 私は心の中で谷川雁(たにがわがん)さんのことを考える。雁さんは言った。「みなもとをめざせ。狂って生きよ。」そのことばはいまや私の「港」であった。
 Tさんはこちらが拍子抜けするほどに「ごめんなさい」と謝し、つづいて、Tさんが大切におもっているひとりのことを語った。その方の活動を谷川雁さんが応援しておられるという。おもいがけず雁さんの名がでたので、じつはこんど雁さんを見舞うつもりだとほろりというと、
「あら、お亡くなりになったと今朝の朝刊に書いてあったわよ。」とTさんは言う。
 私のすっとんきょうな声に、虫賀さんは新聞をひらいた。はたして、そうであった。私たちはあまりに小さすぎるその記事を見逃していたのだった。
 私は言葉を失った。
 昨夜、床について、私は雁さんのことを考えていた。
 私は、もの言わぬ雁さんの足をさすっていた。ほおずりをしていた。
 昼は昼で、虫賀さんと雁さんの話をしていた。
 それらすべて雁さんの波動の中に私たちはいたのだろう。
 それが、お別れであった。
 雁さんが眠りについたという節分の夕方、私はホーム・スクール山の分校のこどもたちふたり、日本の人とフランスの人と、『オッベルと象』を読んでいた。
 そしていま「セロひきのゴーシュ」を聴いている。
                     (95年2月4日記)

 三月三日、四日と、谷川雁さんの葬儀のために上京いたしました。四日、葬儀の日、東京はめずらしく雪でした。宇宙の塵となった雁さんの心にくい贈り物とおもわざるをえません。一泊二日の短い上京でしたが、私どもの生の途上でお出会いし、励ましをいただいた藤田省三・春子さん、安江良介さん、鶴見俊輔さんにも会えました。茨木のり子さんとは、おでんわで。
 旅の、人生という旅路の、道標の、なつかしい方々に、深ぶかと頭を下げました。
 深夜、京都に帰りつけば、闇の中白い雪がくるくるくるくる舞いちり、巻きあげられ、たわむれておりました。
 これも、雁さんのいたずらね。と、笑いました。
 雁さんは71で逝き、永瀬清子さん(『次の冬』の書評を書くとおっしゃっておられたそうです。)は88で共にこの二月に逝き、「ああ、あと30年、いや50年生きつづけねば、長いなあ。」とりきんでいた緊張が旅(葬儀)いらい、ほうろりほうほうとほどけ、いまは、眠りほうけています。「もういいよ」と、からだの許しがでるまでこのままでゆきます。
 論楽社は「ナルニア国」のようにたんすの奥に入口がある。と、夢をみつづけようとおもいます。
 そうそう。大石芳野さんの写真展にもまいりました。「HIROSHIMA半世紀の肖像――やすらぎを求める日々」。「やすらぎを求める日々」とはどんな日々なのでしょうか。写真でしかできない仕事があるということを、示されます。アウシュヴィッツ、カンボジア、ベトナム、広島と写真を撮り仕事を続けられている大石さんに、「見る・見られる」という関係を越え、私たちは共に苦しみ、共に在ることができるのかを、95年のある日、論楽社で語っていただくことになっております。
              (95年3月7日記)
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血をこえて育ちあう

                     上島聖好(うえじましょうこう)
 「力と気品とは彼女の着物である。そして後(のち)の日を笑っている。彼女は口を開いて知恵を語る。その舌にはいつくしみの教えがある。」(『旧約聖書』「箴言(しんげん)」31・10以下)
 正月にこのことばを拾い出し、横川みさおさんに捧げたいとおもっていた。クリスチャンでもない私がこのことばを知っていたのは、ボンヘッファー(注1)の本に書かれていたからであった。獄中にあった彼は友人の結婚式に出席できず、かわりにことばを贈り、祝った。その一節である。
 何年も前のこと、みさおさんのつれあいの澄夫さんが「家族という血族は成人したら自然に解体すればいいと思っている。息子の結婚式のときそういうスピーチをしたら、ぼくの母にはさすがにこたえたようである。みさおさんは情の厚い人だからこどもたちにも情深くする。ぼくはそれを手出しのしすぎですと言うんです。」というようなことを私に言った。私はおもわずまじと横川さんの顔を見た。バスを待つ間のこと、私たちはお茶を飲んだ帰りではなかったか。
 横川澄夫さんは詩人であり、牧師である。しかしなみの牧師ではない。1970年のはじめ教会闘争(注2)がおこり、そのときに、牧師の職で食べてゆくのをいさぎよしとせず、教会からでなく、印刷業、本屋さんの倉庫番、経理、などの職で口に糊(のり)する。その間、四人目のお子さんの耕くんを白血病で看取る。七歳であった。その記録集『よこかわこう』がすばらしい。病院で付き添うみさおさんの文章がいい。元気な「病人」、力にみちた「病人」とはいるものだ。耕くんのようにありたいとおもった。
 横川宅に行くと、いつも耕くんの写真の前には紅茶が供えられ、茶色のランドセルがかけてあった。私は耕くんの気配だけで充分安らいでいたので、それ以上のことをきくことも、また、おふたりが語ることもなかった。耕くんはたしかに在る。在った。なので、『よこかわこう』という本の存在をしったのは、横川さんと知り合って十年以上もたってからではなかったか。
 横川さんの「家族解体論」をきいたとき、我意(わがい)を得たりとおもった。私は血族ではない家族をさぐっていた。家族(血族)におこる問題やゆがみはひとしく社会のそれでもある。問題を小さい幅で解決しようとしても、どうもこうもならない。器を広げること。より深い方、底の方へ降りてゆくこと。心をひらくこと。生の諸問題の解決法は、家族(血族)にもあてはまる。
 父や母は、血を越えてあった方がおもしろい。
 子供は血縁によらない方が楽しい。
 むろん、血族をまじえるのも、言わずもがな。
 私の血族の父は戦争体験者であった。父からは一度たりと戦争の話をきいたことがない。中国に行ったという以外は。泥のごとく酔ったとき父は「23で死んだ身だけん」とつぶやいた。一枚の古い写真をみたことがある。綿毛とぶ中国の平原。すす色にけぶる写真から女と子供たちの叫喚(きょうかん)がきこえてくる。そこに鬼のような顔で父が立っていたとしても、ふしぎではない。果樹試験場、農業試験場、畜産試験場などを転々とする公務員の技術者として、父は家族を養った。晩年は減反政策のふきあれる中、農を営む人に減反をといてまわるという公務を果たしていた。根っから百姓の血の流れる父にはつらかったようである。引き裂かれた58歳の死であった。
 十代の終わり、私は熊本という故郷を出奔した。
 横川さんは去年三十年住んだ京都を離れ、宮崎県の高鍋に移った。みさおさんの「鶏が飼いたい」という願いに添うて、友人の住む地の高鍋に居を移した。
 私の住むべき土地、帰るべき地のひとつは高鍋ではないかとおもっている。「ぶな」(注3)の宇乃ちゃん(注4)がこのたび私よりも前に「私の故郷」を訪ねてくれて私は、うれしい。
(95年1月13日記)  

(注1)ディートリッヒ・ボンヘッファー(Dietrich Bon hoeffer、1906〜1945)。20世紀を代表するドイツの牧師・神学者。第2次世界大戦中、ナチ党による非道な独裁政治が行われていたドイツで、反対闘争を展開した中心人物。1943年に別件にて逮捕され、1945年に絞首刑にて殺される。獄中書簡が有名。

(注2)教会闘争。横川澄夫さんによれば、「教会闘争は、ベ平連運動・70年安保・学園闘争などと、ほぼ時を同じくして起こりました。キリスト教・仏教・金光教など各宗派にわたって起こり、教派や個々の教会の事情によって様々な形態をとりましたが、教会と社会との関わり方、教職制度への疑問などから、更に、70年闘争共通の命題・自分自身を問うことと関連して、自分は聖書をどう読むか、自分自身の福音理解を問い直す動きへと深化してゆくことになりました。この意味では、教会闘争は今なお続いています。」

(注3)ぶなの森の会。上島が共同運営していた京都の論楽社(ろんがくしゃ。私塾、出版、講演会開催)を中心とするサークル。論楽社のホームスクール「山の分校」のOB会が母体となり、1994年に発足。登山や援農などの活動のほか、ハンセン病療養所訪問の記録集を作るなどした。

(注4) 磯田宇乃さん(旧姓樋口)。大阪でおもちゃの博物館「宮本順三記念館 豆玩舎ZUNZO」を運営。2010年3月に長男又三朗くんを出産した。
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空は海、海は空

                   上島聖好(うえじましょうこう)
 東寺(注1)国宝展を観る。
 空海(注2)の筆の気宇(きう)に、水をあびたようにしゃんとなる。
 自在に。
 まっすぐ泳ぐのだ。
 文字の深みから、励ましが湧く。
 空海。774年〜835年。
 31歳のときに中国に渡ったという。ちょうど生の折り返し点である。満潮から潮が引きはじめるときに、人は生まれるというが、まさしくそのときに空海は再生する。生きなおす。
 密教(注3)初期の仏像たちの力のみなぎりに心たかなる。
 水牛にまたがり、水鳥の背にのり、輩(やから)を踏みしめ、仏たちのたたかう姿に見惚れる。同じくらいに傷ついて、そのみなぎわの勝利宣言が誇らしい。
 ああ、私もたたかわねば。
 ていねいに。ていねいに。
 はじめて仏像に動物が登場したのが密教だという。
 野生からのいのちをくみあげるほとばしりに、私は打たれる。目を覚ます。(95年5月11日記)

(注1)東寺(とうじ)。京都駅の近くにある仏教の大寺院(真言宗)。(注2)の空海に823年に与えられ、以後真言宗の総本山のひとつとなった。なお毎月21日に境内で「弘法市」(植木、骨董、衣料品、陶器その他なんでも売られている)が開かれており、上島は好んで出かけていた。
(注2)空海(くうかい)。真言宗の開祖である仏教僧。804年に中国の唐に渡って新しい仏教の教え(真言密教)を学び、806年に帰国。以後は布教や著作のみならず身分を問わない学校の開設や土木工事など、多面的な活動を行ったとされる。書家、詩人としても才能を発揮した。
(注3)密教。仏教の流派のひとつ。他の仏教の教えに比べ一般により象徴主義的である点と、師から弟子への伝承によって教えを伝えていく点に特色があるとされる。日本仏教における密教教派には真言宗、天台宗などがある。
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汗と涙と――50年目の夏に(注1)

                     上島聖好

 蝉しぐれ降る樹陰バザー(注2)は、盛会でした。
 二日間の売上げ20万、ご寄付20万余りの会計報告はおってお送り申し上げます。かてて加えて、添えていただいた言葉に、励まされました。責任の重さに、足がふるえました。
 よい仕事をします。
 五日の「講座・言葉を紡(つむ)ぐ」(注3)は、桝本華子さん(73歳)(注4)のお話に、眼も心も洗われました。桝本忠雄さん(1914〜1980、華子さんの夫)、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」のモデルといわれた斎藤宗次郎の隣家に育ち、深い影響を受け、その思想を実践する一生でした。忠雄さんの母うめ子さん(1892〜1992)は内村鑑三の弟子。山形の山里で生徒数三人から基督教独立学園の生活は始まります。「忠雄が亡くなったときよりも今の方が忠雄を好きだ」と明るくまっすぐに語る華子さん。何気ない言葉にどきんとします。
 うめ子さんの書15点(注5)がりん然と涼やかな「風」を送っておりました。
 六日の宇佐美治さん(69)金泰九さん(70)(注6)のお話と風格も、高貴なものでした。「日本の国に生きる者の共同の責務として、われわれは『らい予防法』を廃止し、国家は彼らに謝罪し、賠償しなければならない。彼らではなくわれわれ一人ひとりがその責務を負っている」という吉田賢作さん(64)の発言は示唆に富みました。
 その日おふたりは論楽社に泊まられました。翌日、京都駅への道すがら「わたしの人生も無駄ではなかったかもしれない」という金泰九さんの言葉に胸つかれました。(1995年8月9日記)

(注1)この文章は日本の第2次世界大戦における降伏(1945年8月15日)から50年目の夏に書かれた。
(注2)上島聖好(うえじましょうこう)が共同代表をつとめた京都の「論楽社(ろんがくしゃ)」(私塾・出版・講座)で開かれたバザー。以前から上島たちは岡山県にある国立ハンセン病療養所・長島愛生園を訪れる旅を大勢の仲間と続けていた。このときのバザーで集まった基金は、後に仲間たちとハンセン病問題についての本『病みすてられた人々――長島愛生園・棄民収容所』(論楽社ブックレット)を出版するために使われた。
(注3)論楽社で開かれる講座。
(注4)桝本華子さんは山形県にある日本一小さな高校「基督(キリスト)教独立学園高校」の教員。基督教独立学園とは、内村鑑三(かんぞう)(1861〜1930、無協会主義のキリスト者・思想家)の弟子たちが理想の教育を求めて山里で始めた学校で、1934年設立。現在も続いている。生徒数は3学年で70人。以下の文中に出てくる桝本忠雄さんと桝本うめ子さんも同じく教員として働いた。
(注5)桝本うめ子さんは書家でもあった。この日、「風」の書も展示されていた。
(注6)宇佐美治(うさみおさむ)さんと金泰九(キムテグ)さんは長島愛生園に住むハンセン病の元患者。共にらい予防法違憲国家賠償請求訴訟で活躍。
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