花の寺だより 13号 2007年3月30日(金)
三月二二日(木)熊本の個展(木工轆轤)を終り、「花の寺」の看板を届けに「お休みどころ」を訪問。グレッグさんの代理(?)としてチビの散歩をし、いざ、聖好さんと宮崎県高鍋町へ出発。しかし二一九号線が県境西米良村へ入った所で崩落のため通行止め。引き返し人吉から宮崎まで高速にのり夕方五時にバプテスト教会牧師横川澄夫さん、みさおさん、御夫妻の牧師館へ到着、澄夫さんの案内で高鍋の海へ。
打ち寄せる波に手をつけてしょっぱいことを確認(ちなみに琵琶湖の水をなめて、汚いと顰蹙をかったことを思い出す)。澄夫さん、浜辺の店で殻付き牡蠣三キロを購入。
よく飲み、よく喋り、よく笑い、就寝。
翌朝また海へ。聖好さんはチビの土産にと打ち上げられていた骨と皮だけのチヌを拾う。
さて出発。しかし、途中、大久保製茶(高鍋のバプテスト教会員、戦後まもなく開拓民として入植)に気付き、立ち寄り、奥さんとお喋りを。昨日は通行止めだった二一九号線が解除したのでそちらへ。湯山の阿部さんを訪問(自宅を自分で建てた大工さん)。奥さん(勤子さん)が石鹸を製作中。お茶を頂き、お喋りを。
湯山は桜がちらほら、ダムの周りに桜が10万本とか。市房観光ホテルの温泉へ浸りに。
上がって御主人の西さんとお話を。温泉をでた所で聖好さん、しょうけ(竹細工)を見付け、購入。おじさんとお話し。これから知り合いになるかも……よくのみ、よく喋り、眠りへ。
二四日、朝から雨、杉山が煙っている。
大変お世話になりました。聖好さんの人とのつながりと気力に少々圧倒され気味でした。その力のひとかけらでもほしいもの。もうすぐ出発です。お世話になりました。
大益牧雄
三月二十三日深夜、大益牧雄さんが母屋に眠っている。静かである。チビがネコに吠えかかる音、シカのキュンと鳴く音。時折聞こえてくるそれらの音以外、静けさを乱すものはない。
大益さんはお休みどころのあと、荒川忍という人に会いに行くという。1963年三井三池三川鉱ガス爆発が大牟田で発生。その裁判で被害者の側に立ち(恩師に反旗を翻し)証言をした荒川忍さんという学者がいた。いま90歳のその人に、大益さんは会いに行くのだという。
「荒川さんの評伝を書きたかった。が、もう無理だ。書きたかったなあ。」大益さんは二度三度、お酒を飲みながらいう。
ほんとうなら、「酌み交わしながら」といいたいところだが、それは無理。なにせ大益さんの酒の師匠は上野英信(注1)なのだから。
「詩を書いたらいかがですか。大益さんの詩はいい。大益さん、言葉を贈るのよ。」
大益さんはピクンと動いた。
「うん。詩なら書ける。書きたくなった。」
ふとんに潜り込みながら、大益さんは声を弾ませる。
これが、お休みどころの仕事。
ゆっくりと眠ってもらえれば、うれしい。
横川澄夫、みさお夫妻に会いに行く途次、大益さんとのクルマ旅は楽しかった。くねくねと続く山道。山桜ばかりが花と咲く山々。右に左に見やる。田圃に張られた水はきらめく。
輝く水を見れば、心華やぐ。
「もう田植えをしてあるぞ。」
大益さんは驚いていう。
みどりごだ。まさに。いっせいに。
よきものによきものにと、成長する宇宙意志。この空間に遍く満ちるもっともよき心。
友らと海岸を歩く。
ハマダイコン口に含めば塩辛き
薄紫色のハマダイコンが咲いている。
水平線はなだらかに弧を描く。黒く見えるのは黒潮だという。
黒潮の黒き帯地や彼岸潮
地水火風空。お休みどころを守る五輪の塔をつくろうと浜辺に下りて、石を拾う。
波光る大地を踏みしめ海にゆく
ただ丸石を五ツ乗せただけのもの。それが、五輪の塔である。が、五ツどころではない。八ツも九ツも拾ってしまった。石たちは縁あってこの浜辺にある。動かしてはいけない。にもかかわらず私は海の石たちに山を見せてあげたかった。ごおごおと渡る海鳴りではなく、山鳴りをきかせたかった。
石たちはいうのではないか。
山の中に、海がある。おお、似ている、と。
石たちを眠らす春の海の歌
横川さんが20センチばかりのくさび形の石を拾っていう。
「聖好さんの墓石だ。」
ありがたい。私は墓石(杭)をたてることをわが仕事としてきた。(お休みどころの英訳は、レスティングプレイス。墓場という意味がある。)
はじめて友の手から墓石が手渡された。
春の海つづくいのちに信を置く
「地水火風空」。以前こういう題で文章を書いたっけ。「墓石」を手渡されたいま、明かされる。私はひそやかに書きつづったこれらの紙片を、形にあらわしたいのだと。
上島聖好
(注1)上野英信(1923〜87)―┬―晴子(1926〜97)
朱(1956〜)
ふたり 山口県阿知須(あじす)町(現山口市)に生まれた上野英信(本名・鋭之進)は、北九州市・黒崎で育つ。旧満州の建国大に在学中、学徒召集に応じ、広島で被爆。戦後、京都大学を中退し、故郷を出奔。筑豊や長崎で坑夫となる。労働者の文化運動に取り組むが解雇され、詩人の谷川雁や森崎和江らと「サークル村」を創刊。ほどなく中小炭鉱のルポを中心に執筆に専念。坑夫たちの足跡を追って中南米や沖縄にも関心を広げた。「上野英信集」(全5巻、径書房)がある。
晴子(旧姓・畑)は福岡県久留米市に生まれ、福岡市で育った。56年2月、英信と結婚。その死後も鞍手町で半生を送り、自ら選んだホスピスで静かに最期を迎えた。
英信は当初「ひでのぶ」と読ませたが、晴子は後年、外の人に夫のことを語るときは「えいしん」を用い、英信本人も晩年は「どっちでもいいのだ」と言っていたそうだ。
(朝日新聞2006年7月8日付)
地水火風空
上島聖好
宮崎県高鍋の横川澄夫さん、みさをさん。鹿児島県鹿屋(かのや)の島比呂志さん。大分県中津の松下竜一さん、洋子さん。冬の気配色濃く残る岩倉の山里から、南国の春がすみをかきわけて彼らを訪ねた。
人間にとって必要にして十分な条件は、無垢なるたましいではないかとおもいしらされたこの春の三日間の旅であった。これらの人々に共通するのは素朴に包まれた無垢のたましいであった。
高鍋の町を歩くと、いたるところ常緑の丈高い樹木たちに出会う。自由自在に枝を伸ばした樹木。からみつくツタ。植物たちのにぎやかな祝祭空間、藪。私は藪に出会えば心ときめく。
島比呂志さんに会いに行く途次、車窓から、満開の桜が誇らかに笑む。
単に暖かいというだけじゃなく、ここそこに光がたまるよう。と言い言い、虫賀くんや興野くんは光あふるる窓辺で手をかざし、手の平で光をすくう。
向かいに座った人は、ゆったりとした品のよい、おくにことばでこう言った。
「わたしは十二年間海軍にいました。乗った船の五隻のうち三隻は沈みました。人間は生きとるのじゃなくて、生かされとるんですなあ。自分の力ではどうにも死にきらん。役目が終わらんうちは死ねんとです。あかちゃんでもそれがしまえたら、死ぬとです。
わたしですか? いまから詩吟の大会に行くとです。60歳から20年間やっとります。」
外を見やると、田んぼに張られた水が満々と揺れる。
春。水を張る。
私は心を張って背を伸ばし、生きねばならない。冬の寒さにうちしびれたこのからだから、そうしてお金のないという状態からも、私を解放しよう。
風と土のなかで、人はたましいを刻み、生きてゆく。砕かれ、削られ、叩かれるのは、あたりまえのことではないか。
無垢の森が光る。
論楽社ニューズレター『ぶな』7号(1996年10月10日発行)より
打ち寄せる波に手をつけてしょっぱいことを確認(ちなみに琵琶湖の水をなめて、汚いと顰蹙をかったことを思い出す)。澄夫さん、浜辺の店で殻付き牡蠣三キロを購入。
よく飲み、よく喋り、よく笑い、就寝。
翌朝また海へ。聖好さんはチビの土産にと打ち上げられていた骨と皮だけのチヌを拾う。
さて出発。しかし、途中、大久保製茶(高鍋のバプテスト教会員、戦後まもなく開拓民として入植)に気付き、立ち寄り、奥さんとお喋りを。昨日は通行止めだった二一九号線が解除したのでそちらへ。湯山の阿部さんを訪問(自宅を自分で建てた大工さん)。奥さん(勤子さん)が石鹸を製作中。お茶を頂き、お喋りを。
湯山は桜がちらほら、ダムの周りに桜が10万本とか。市房観光ホテルの温泉へ浸りに。
上がって御主人の西さんとお話を。温泉をでた所で聖好さん、しょうけ(竹細工)を見付け、購入。おじさんとお話し。これから知り合いになるかも……よくのみ、よく喋り、眠りへ。
二四日、朝から雨、杉山が煙っている。
大変お世話になりました。聖好さんの人とのつながりと気力に少々圧倒され気味でした。その力のひとかけらでもほしいもの。もうすぐ出発です。お世話になりました。
大益牧雄
三月二十三日深夜、大益牧雄さんが母屋に眠っている。静かである。チビがネコに吠えかかる音、シカのキュンと鳴く音。時折聞こえてくるそれらの音以外、静けさを乱すものはない。
大益さんはお休みどころのあと、荒川忍という人に会いに行くという。1963年三井三池三川鉱ガス爆発が大牟田で発生。その裁判で被害者の側に立ち(恩師に反旗を翻し)証言をした荒川忍さんという学者がいた。いま90歳のその人に、大益さんは会いに行くのだという。
「荒川さんの評伝を書きたかった。が、もう無理だ。書きたかったなあ。」大益さんは二度三度、お酒を飲みながらいう。
ほんとうなら、「酌み交わしながら」といいたいところだが、それは無理。なにせ大益さんの酒の師匠は上野英信(注1)なのだから。
「詩を書いたらいかがですか。大益さんの詩はいい。大益さん、言葉を贈るのよ。」
大益さんはピクンと動いた。
「うん。詩なら書ける。書きたくなった。」
ふとんに潜り込みながら、大益さんは声を弾ませる。
これが、お休みどころの仕事。
ゆっくりと眠ってもらえれば、うれしい。
横川澄夫、みさお夫妻に会いに行く途次、大益さんとのクルマ旅は楽しかった。くねくねと続く山道。山桜ばかりが花と咲く山々。右に左に見やる。田圃に張られた水はきらめく。
輝く水を見れば、心華やぐ。
「もう田植えをしてあるぞ。」
大益さんは驚いていう。
みどりごだ。まさに。いっせいに。
よきものによきものにと、成長する宇宙意志。この空間に遍く満ちるもっともよき心。
友らと海岸を歩く。
ハマダイコン口に含めば塩辛き
薄紫色のハマダイコンが咲いている。
水平線はなだらかに弧を描く。黒く見えるのは黒潮だという。
黒潮の黒き帯地や彼岸潮
地水火風空。お休みどころを守る五輪の塔をつくろうと浜辺に下りて、石を拾う。
波光る大地を踏みしめ海にゆく
ただ丸石を五ツ乗せただけのもの。それが、五輪の塔である。が、五ツどころではない。八ツも九ツも拾ってしまった。石たちは縁あってこの浜辺にある。動かしてはいけない。にもかかわらず私は海の石たちに山を見せてあげたかった。ごおごおと渡る海鳴りではなく、山鳴りをきかせたかった。
石たちはいうのではないか。
山の中に、海がある。おお、似ている、と。
石たちを眠らす春の海の歌
横川さんが20センチばかりのくさび形の石を拾っていう。
「聖好さんの墓石だ。」
ありがたい。私は墓石(杭)をたてることをわが仕事としてきた。(お休みどころの英訳は、レスティングプレイス。墓場という意味がある。)
はじめて友の手から墓石が手渡された。
春の海つづくいのちに信を置く
「地水火風空」。以前こういう題で文章を書いたっけ。「墓石」を手渡されたいま、明かされる。私はひそやかに書きつづったこれらの紙片を、形にあらわしたいのだと。
上島聖好
(注1)上野英信(1923〜87)―┬―晴子(1926〜97)
朱(1956〜)
ふたり 山口県阿知須(あじす)町(現山口市)に生まれた上野英信(本名・鋭之進)は、北九州市・黒崎で育つ。旧満州の建国大に在学中、学徒召集に応じ、広島で被爆。戦後、京都大学を中退し、故郷を出奔。筑豊や長崎で坑夫となる。労働者の文化運動に取り組むが解雇され、詩人の谷川雁や森崎和江らと「サークル村」を創刊。ほどなく中小炭鉱のルポを中心に執筆に専念。坑夫たちの足跡を追って中南米や沖縄にも関心を広げた。「上野英信集」(全5巻、径書房)がある。
晴子(旧姓・畑)は福岡県久留米市に生まれ、福岡市で育った。56年2月、英信と結婚。その死後も鞍手町で半生を送り、自ら選んだホスピスで静かに最期を迎えた。
英信は当初「ひでのぶ」と読ませたが、晴子は後年、外の人に夫のことを語るときは「えいしん」を用い、英信本人も晩年は「どっちでもいいのだ」と言っていたそうだ。
(朝日新聞2006年7月8日付)
地水火風空
上島聖好
宮崎県高鍋の横川澄夫さん、みさをさん。鹿児島県鹿屋(かのや)の島比呂志さん。大分県中津の松下竜一さん、洋子さん。冬の気配色濃く残る岩倉の山里から、南国の春がすみをかきわけて彼らを訪ねた。
人間にとって必要にして十分な条件は、無垢なるたましいではないかとおもいしらされたこの春の三日間の旅であった。これらの人々に共通するのは素朴に包まれた無垢のたましいであった。
高鍋の町を歩くと、いたるところ常緑の丈高い樹木たちに出会う。自由自在に枝を伸ばした樹木。からみつくツタ。植物たちのにぎやかな祝祭空間、藪。私は藪に出会えば心ときめく。
島比呂志さんに会いに行く途次、車窓から、満開の桜が誇らかに笑む。
単に暖かいというだけじゃなく、ここそこに光がたまるよう。と言い言い、虫賀くんや興野くんは光あふるる窓辺で手をかざし、手の平で光をすくう。
向かいに座った人は、ゆったりとした品のよい、おくにことばでこう言った。
「わたしは十二年間海軍にいました。乗った船の五隻のうち三隻は沈みました。人間は生きとるのじゃなくて、生かされとるんですなあ。自分の力ではどうにも死にきらん。役目が終わらんうちは死ねんとです。あかちゃんでもそれがしまえたら、死ぬとです。
わたしですか? いまから詩吟の大会に行くとです。60歳から20年間やっとります。」
外を見やると、田んぼに張られた水が満々と揺れる。
春。水を張る。
私は心を張って背を伸ばし、生きねばならない。冬の寒さにうちしびれたこのからだから、そうしてお金のないという状態からも、私を解放しよう。
風と土のなかで、人はたましいを刻み、生きてゆく。砕かれ、削られ、叩かれるのは、あたりまえのことではないか。
無垢の森が光る。
論楽社ニューズレター『ぶな』7号(1996年10月10日発行)より