お休みどころ

こころの相談活動を作り続ける
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花の寺だより 13号 2007年3月30日(金)

 三月二二日(木)熊本の個展(木工轆轤)を終り、「花の寺」の看板を届けに「お休みどころ」を訪問。グレッグさんの代理(?)としてチビの散歩をし、いざ、聖好さんと宮崎県高鍋町へ出発。しかし二一九号線が県境西米良村へ入った所で崩落のため通行止め。引き返し人吉から宮崎まで高速にのり夕方五時にバプテスト教会牧師横川澄夫さん、みさおさん、御夫妻の牧師館へ到着、澄夫さんの案内で高鍋の海へ。
 打ち寄せる波に手をつけてしょっぱいことを確認(ちなみに琵琶湖の水をなめて、汚いと顰蹙をかったことを思い出す)。澄夫さん、浜辺の店で殻付き牡蠣三キロを購入。
 よく飲み、よく喋り、よく笑い、就寝。
 翌朝また海へ。聖好さんはチビの土産にと打ち上げられていた骨と皮だけのチヌを拾う。
 さて出発。しかし、途中、大久保製茶(高鍋のバプテスト教会員、戦後まもなく開拓民として入植)に気付き、立ち寄り、奥さんとお喋りを。昨日は通行止めだった二一九号線が解除したのでそちらへ。湯山の阿部さんを訪問(自宅を自分で建てた大工さん)。奥さん(勤子さん)が石鹸を製作中。お茶を頂き、お喋りを。
 湯山は桜がちらほら、ダムの周りに桜が10万本とか。市房観光ホテルの温泉へ浸りに。
 上がって御主人の西さんとお話を。温泉をでた所で聖好さん、しょうけ(竹細工)を見付け、購入。おじさんとお話し。これから知り合いになるかも……よくのみ、よく喋り、眠りへ。
 二四日、朝から雨、杉山が煙っている。
 大変お世話になりました。聖好さんの人とのつながりと気力に少々圧倒され気味でした。その力のひとかけらでもほしいもの。もうすぐ出発です。お世話になりました。
               大益牧雄

 三月二十三日深夜、大益牧雄さんが母屋に眠っている。静かである。チビがネコに吠えかかる音、シカのキュンと鳴く音。時折聞こえてくるそれらの音以外、静けさを乱すものはない。
 大益さんはお休みどころのあと、荒川忍という人に会いに行くという。1963年三井三池三川鉱ガス爆発が大牟田で発生。その裁判で被害者の側に立ち(恩師に反旗を翻し)証言をした荒川忍さんという学者がいた。いま90歳のその人に、大益さんは会いに行くのだという。
 「荒川さんの評伝を書きたかった。が、もう無理だ。書きたかったなあ。」大益さんは二度三度、お酒を飲みながらいう。
 ほんとうなら、「酌み交わしながら」といいたいところだが、それは無理。なにせ大益さんの酒の師匠は上野英信(注1)なのだから。
 「詩を書いたらいかがですか。大益さんの詩はいい。大益さん、言葉を贈るのよ。」
 大益さんはピクンと動いた。
 「うん。詩なら書ける。書きたくなった。」
 ふとんに潜り込みながら、大益さんは声を弾ませる。
 これが、お休みどころの仕事。
 ゆっくりと眠ってもらえれば、うれしい。

 横川澄夫、みさお夫妻に会いに行く途次、大益さんとのクルマ旅は楽しかった。くねくねと続く山道。山桜ばかりが花と咲く山々。右に左に見やる。田圃に張られた水はきらめく。
 輝く水を見れば、心華やぐ。
 「もう田植えをしてあるぞ。」
 大益さんは驚いていう。
 みどりごだ。まさに。いっせいに。
 よきものによきものにと、成長する宇宙意志。この空間に遍く満ちるもっともよき心。
 友らと海岸を歩く。

 ハマダイコン口に含めば塩辛き

 薄紫色のハマダイコンが咲いている。
 水平線はなだらかに弧を描く。黒く見えるのは黒潮だという。

 黒潮の黒き帯地や彼岸潮

 地水火風空。お休みどころを守る五輪の塔をつくろうと浜辺に下りて、石を拾う。

 波光る大地を踏みしめ海にゆく

 ただ丸石を五ツ乗せただけのもの。それが、五輪の塔である。が、五ツどころではない。八ツも九ツも拾ってしまった。石たちは縁あってこの浜辺にある。動かしてはいけない。にもかかわらず私は海の石たちに山を見せてあげたかった。ごおごおと渡る海鳴りではなく、山鳴りをきかせたかった。
 石たちはいうのではないか。
 山の中に、海がある。おお、似ている、と。

 石たちを眠らす春の海の歌

 横川さんが20センチばかりのくさび形の石を拾っていう。
 「聖好さんの墓石だ。」
 ありがたい。私は墓石(杭)をたてることをわが仕事としてきた。(お休みどころの英訳は、レスティングプレイス。墓場という意味がある。)
 はじめて友の手から墓石が手渡された。

 春の海つづくいのちに信を置く

 「地水火風空」。以前こういう題で文章を書いたっけ。「墓石」を手渡されたいま、明かされる。私はひそやかに書きつづったこれらの紙片を、形にあらわしたいのだと。
               上島聖好

(注1)上野英信(1923〜87)―┬―晴子(1926〜97)
                  朱(1956〜)
ふたり 山口県阿知須(あじす)町(現山口市)に生まれた上野英信(本名・鋭之進)は、北九州市・黒崎で育つ。旧満州の建国大に在学中、学徒召集に応じ、広島で被爆。戦後、京都大学を中退し、故郷を出奔。筑豊や長崎で坑夫となる。労働者の文化運動に取り組むが解雇され、詩人の谷川雁や森崎和江らと「サークル村」を創刊。ほどなく中小炭鉱のルポを中心に執筆に専念。坑夫たちの足跡を追って中南米や沖縄にも関心を広げた。「上野英信集」(全5巻、径書房)がある。
 晴子(旧姓・畑)は福岡県久留米市に生まれ、福岡市で育った。56年2月、英信と結婚。その死後も鞍手町で半生を送り、自ら選んだホスピスで静かに最期を迎えた。
 英信は当初「ひでのぶ」と読ませたが、晴子は後年、外の人に夫のことを語るときは「えいしん」を用い、英信本人も晩年は「どっちでもいいのだ」と言っていたそうだ。
(朝日新聞2006年7月8日付)

地水火風空
               上島聖好
 宮崎県高鍋の横川澄夫さん、みさをさん。鹿児島県鹿屋(かのや)の島比呂志さん。大分県中津の松下竜一さん、洋子さん。冬の気配色濃く残る岩倉の山里から、南国の春がすみをかきわけて彼らを訪ねた。
 人間にとって必要にして十分な条件は、無垢なるたましいではないかとおもいしらされたこの春の三日間の旅であった。これらの人々に共通するのは素朴に包まれた無垢のたましいであった。
 高鍋の町を歩くと、いたるところ常緑の丈高い樹木たちに出会う。自由自在に枝を伸ばした樹木。からみつくツタ。植物たちのにぎやかな祝祭空間、藪。私は藪に出会えば心ときめく。
 島比呂志さんに会いに行く途次、車窓から、満開の桜が誇らかに笑む。
 単に暖かいというだけじゃなく、ここそこに光がたまるよう。と言い言い、虫賀くんや興野くんは光あふるる窓辺で手をかざし、手の平で光をすくう。
 向かいに座った人は、ゆったりとした品のよい、おくにことばでこう言った。
 「わたしは十二年間海軍にいました。乗った船の五隻のうち三隻は沈みました。人間は生きとるのじゃなくて、生かされとるんですなあ。自分の力ではどうにも死にきらん。役目が終わらんうちは死ねんとです。あかちゃんでもそれがしまえたら、死ぬとです。
 わたしですか? いまから詩吟の大会に行くとです。60歳から20年間やっとります。」
 外を見やると、田んぼに張られた水が満々と揺れる。
 春。水を張る。
 私は心を張って背を伸ばし、生きねばならない。冬の寒さにうちしびれたこのからだから、そうしてお金のないという状態からも、私を解放しよう。
 風と土のなかで、人はたましいを刻み、生きてゆく。砕かれ、削られ、叩かれるのは、あたりまえのことではないか。
 無垢の森が光る。
     論楽社ニューズレター『ぶな』7号(1996年10月10日発行)より
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花の寺だより 12号 2007年3月24日(土

 3月18日には、上島智嘉子さん(聖好さんの母)の7回忌法要に参加しました。(グレッグ、上島、興野の3人)。聖好さんの親類縁者26人が熊本市に集まったのですが、上島家の人たちは「よそ者」に対してとても寛容で、僕やグレッグさんも家族扱いで接してくださいます。僕にとって、こういうおおらかさは異文化で、いつもとまどいつつ、とても心あたためられます。
 ところで、この二次会の席で、ちょっとした事件がありました。二次会は聖好さんの実家(いまは弟さんの聖雄さん、ルミ子さんたち一家が住んでいる)であったのですが、高一功さん(ルミ子さんの父)が犬のテンにエサをやろうとしたとき、手を咬まれてしまったのです。(テンはわが家の犬のチビの子どもですから、僕たちとしても恐縮のいたりです。)ともかく、中指から出血があり、傷口を水で洗ってガーゼをあて、119番で休日当番医の「片岡外科」を教えてもらって出かけました。
 片岡先生は処置や縫合(9針)を見学させてくださったうえ、いろいろ教えてくださいましたが、応急処置のポイントは、
1. とりあえず傷口を水でよく洗う。
2. 小さな傷口が隠れていることがあるので、創部周辺もよく洗い、清潔にする。
3. 出血に対してはガーゼで圧迫止血。
といったことのようです。実際、中指だけでなく人指し指などに小さくて深い傷があって、びっくりしました。
 僕たちが片岡外科に行っているあいだ、聖好さんとグレッグさんは子どもたち(宮島栄伸くん(5歳)、宮島大伸くん(小3)、上島優貴くん(15歳)と春の菜つみをしていました。フキノトウ、カラスノエンドウ、ツクシなどが、夕食のかき揚げになり、大好評でした。
          興野康也(オキノヤスナリ)

 三月三日、「高木学校・関西の集い」で林洋子さんがスピーチするという。われらお休みどころファミリーの洋子さんが話をするのだ。それも昨年の暮れ、転倒して一時は車椅子にまでなった洋子さんの復活スピーチをぜひ聞きたい。私たち三人は出かけていった。洋子さんは「野生のライオン」として、「絶えざる挑戦」(高木仁三郎の言葉)をしつづける。私も「野生の子ライオン」としてそのように生きてゆこう。
 三月七日、与謝蕪村の墓のある金福寺(京都市左京区)を訪ねた。その日、友人の橘俟子さんと会うことになっていた。俟子(まちこ)さんは眼科医。おつれあいを自宅で看取った経験を生かし、この三月一杯まで京都のバプテスト病院でホスピス医として研修。
 宿まで私たちを迎えにきてくれた。俟子さんの自宅も近づいたころ、興野が「聖好さんはこのごろ俳句に目覚めて…」とオーバーにいえば、「ならば、金福寺に」ということになったのだった。二十年ぶりの金福寺訪問。二十年は短い。苔一本、枝一本のそよぎより小さい。

 紅梅に招かれ来たる金福寺

満開の紅梅が、私たちを呼んだのか。二年前、はじめて二郎祭りを開いた折、有村さんから梅をいただき、植樹した。時は二月、ただまっすぐの梅の苗。翌年、花が一輪咲いた。白い梅だった。紅と信じて疑わなかったので、肩すかしをくわされた。
 それでいい。金福寺の紅梅に出会えたのだから。

 風吹けばひらりと笑う落下の椿

椿は、藪椿の紅がいい。

 鈴のごと馬酔木は揺れし蕪村墓

 花と私の年齢は等しい。38億年と51歳になんなんとする。
          上島聖好(ウエジマショウコウ)

 今回、お休みどころには十二日までいる予定でしたが、水俣に行こうということになり、十二日の夕方に新水俣駅に到着しました。そこに有村さんが来て下さり、有村さんのお宅へ向い、お話を聞かせてくださいました。その後、有村さんの友人の緒方信秀さんをまじえて夕食をいただきました。緒方さんにお味噌や甘酒の話をしていただいたり、有村さんに手相をみていただいたりして、とてもすばらしい時間を過ごせたのではないかと思います。お二人とも初めてお会いしたのに昔から知っていたような不思議な感じがしました。
 十三日は緒方正人さんいお会いしました。いろいろお話をして下さったのですが、私には内容が難しく感じられたのでもっともっと知識をつけたいなと思いました。
 お休みどころできれいな星空や青空、空気に出会い、たくさんの人に出会い、心が洗われたような思いでした。
          久保真理子(クボマリコ)

泉谷君の願い、久保さんの車があって水俣へ行ってきてよかったです。お味噌職人の緒方さんのおすすめで、駅とチッソに近いボロボロの旅館で泊まって、水俣の今からの世代の人たちに会えました。ガイアみなまたの高倉ケン、あっちゃん、吉本友ちゃん、有村さん、緒方さん、そうして女(め)島の緒方正人さんに。正人さんの今のテーマは「生国(しょうごく)」で、国家(又は人種)ではなくて生活の範囲に所属して、そしてその「生」を大事にして生きる小さな「くに」をつくろうと。今日「生国」というのはヤクザ世界にもあると緒方さんが言ったし、昨日出会った脚立から落ちた事故から回復中の有村さん(お休みどころの溝、庭をつくってくれる人)もヤクザの経験を話してくれました。映画によって以外知り方のない僕にとっては、ヤクザの魅力を信じないようにしていますが、信頼をつくって生きたい気持ちもよくわかります。「どこかに花ヤクザ(平和ヤクザ?)でもいるのか」と最初出会った茨木さんの「花ゲリラ」という詩に入りかえる頭の中遊んでいるほど不思議な重ねた話を未来の水俣で聞きました。有村さんはヤクザの時代から手相を始めたそうです。僕たち五人のそれぞれの才能や性格を示して励まして下さいました。興野が「願えば叶う」、お休みどころは「これから、二00七年に。」そうなりますように。
          グレゴリー・ヴァンダービルト

 昨日から、一泊して二日間水俣に行ってきました。生まれて初めて、水俣に行きました。海も見ました。不知火の海って、本当に綺麗な海ですね。丁度、おだやかな春の日射しに包まれている日だったせいもあるかもしれませんが、びっくりしました。透き通る海底を海岸からずっと見てても飽きないし、見上げると、天草まで続く穏やかな不知火の海があり、なんて優しい風景なのだろうと思いながら感動してしまいました。「こんなんだけど、泣かされる時もあるよ。シケのときは大変や。」と緒方正人さん。さらに、台風の時は、岸壁であたってはねた海水が緒方さんの家の屋根にあたってくるそうです。こんなに美しい海でも、恐い風なときがあるのだなあと思いながら聞いていました。美しさと優しい抱擁力、厳しさや荒れ狂ったような様子と、まるで生きている人のような表情を見せてくれる海なんだなあと思いました。そして、緒方さんは、この海が本当に好きなんだろうなあと思いました。
 産廃で、傷ましいように傷つけられてもなお人を包んで見守って癒してくれるような神様が本当にいる気がしながら海を見てました。
          泉谷龍(イズミヤリョウ)

 十九日、グレッグさんが熊本を出発するということでお別れパーティに参加しました。
 十時半に熊本空港で待ち合わせだったのですが、時間になっても上島さん、興野先生、グレッグさんに会えず、そわそわしていると電話がなりました。私は待ち合わせ場所を間違えていました。お互いに早く到着していたけれど会えなかったのです。待ち合わせというものは難しく、携帯電話のありがたみを感じました。
 十一時過ぎに大住保子さんが到着して、五人で食事をいただきながらお話をしました。その後、場所を移していろいろなお話をしました。
 一時過ぎになってみんなで出発口に向いました。グレッグさんとのお別れのとき、とても寂しくなりましたが、どういう顔をしたらいいのかわからず、ただニコニコしていました。また会えるのを楽しみにしています。
          久保真理子
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花の寺だより 11号 2007年3月14日(水

 多良木町の荒木さんから「お休みどころに苗木を持っていって下さい」と電話を頂き本日、モッコク、アジサイ、デージー、シュロ、ドングリ、カシ、ノウビンガスラ、ムラサキシキブ、クジャクソウ、タラノキ、ホタルブクロ、イチジク、ツルニチソウ、冬知らず、クサノオウ、フヨウ、ホトトギス、白ヤマブキ、オオキンケイギク、オタフクカズラ、以上二十種類もの苗を植えました。グレッグさん、詩ちゃん、上島先生、私、4名で楽しく、「今度来た時咲いていたらいいネ」詩ちゃんとそう話しながら、花は見るだけでなく、植えながら未来を想い、咲いた時の感動を想像しながら「花の寺」が花いっぱいになってほしいなー。 2月27日
          吉田和江

 多良木に住む荒木満里子さんに出会ったのは、「囲炉裏」にて。去年の今ごろ東京から遊びに来た森まゆみさんと食事に行くと「もしかしたら、森まゆみさんですか。TVで観ました。」と声をかけてくれたのが、荒木さんです。以来、お休みどころの園芸顧問。
          上島聖好

 お休みどころに帰ってきました。苗木をたくさん植えました。まずはどれをどこに植えるか相談します。上島さんは、次々にお花や木の居場所をみつけます。グレッグさんはその花や木に合った穴をほります。和江さんは優しく土をかぶせて祈ります。
 「根付いてちょうだいね」
 時々穴をほっても岩やコンクリートにぶつかり、植えるのをやめにします。すぐに次の居場所がみつかります。どの花や木も前から決まっていたみたいにぴったり、どっしり。
春に咲く花を集めたところを花壇にしました。丸太と石で囲みます。「気付いてね」と私は願いました。私はどこに根付くのだろう。急がずあわてずさがします。たくさんの人の祈りや願いが綿毛のようにフワフワ。どこかで何かが根付いて芽を出して、たくさんの人が気付いて。欲張りなくらいわくわくします。
          渡辺詩美

 花を植えながら未来を語る。ヒッヒッヒッヒッ。日入鳥が加勢します。

 青空に 梅と見まがう 夕の月

          上島聖好

 「田んぼと焚木さえあれば、世の中で何があっても生きていける。」この山奥ではよく言われます。近代史を振り返れば、そうではないとわかります。でも、お休みどころの目指すあり方ではあるのです。
 僕が3月19日にアメリカに出発するまでに、一番手近な田んぼ一枚をきれいにしたいと思っています。この田んぼで二郎祭(2005年、北御門二郎さん誕生日の2月16日にお休みどころで開催)のとき石原孝之君が踊ってくれました。でもいまでは、田んぼの上に「花の寺」建設の際の廃材や、田嶋譲治・順子さんからいただいた焚木2列が積まれています。廃材はチェーンソーで焚木にします。錆びた波板は「燃えないごみ」袋に入るサイズまでかんたんにちぎれます。
 お休みどころには田んぼはたくさんありますが、もう何年も耕されていません。田んぼが生命でいっぱいになれば、海辺の藻場のように豊かになるでしょう。海辺の藻場は、現代社会が道路のために埋め立ててしまった場所なのです。
 お休みどころでは、僕たちはいつもメタファーとメタファーでないもののはざまに生きています。そのはざまに、そして片付けられ耕されるのを待っている外の田んぼにも、僕たちは生の意味を探すことができるのです。
          グレゴリー・ヴァンダー・ビルト(興野訳)

(原文)
Here in the mountains it is said that if you have rice paddies and firewood, you can survive whatever happens to the society below. The lesson of modern history is that this is not so but it is still a worthwhile goal for the O-yasumi-dokoro. One project before I leave for America is to finish clearing the first paddy, the one where Ishihara-kun danced two years ago on Jiro-san’s birthday which is now filled with the discards from the construction of the Hana no Tera and with two cords of wood given by the Tajimas. The scrap logs are turned to firewood with the chainsaw and the crumbling tin roofing is easily ripped into pieces that fit into燃えないごみ sacks. The fields here are wide but they have not been cultivated for many years. When paddies are full of life, they are like the藻場 at the edge of the of the sea, places that are modern society fills in to make roads. Here we are always on the edge of metaphor and non-metaphor, but we can search out meaning there, and in the fields that wait outside, first to be cleared, then cultivated.

 初めてお休みどころにやってきました。お休みどころを訪ねるきっかけになったのは、興野先生からの「お休みどころに来てみませんか?」の一言でした。私は緊張しながらも車を走らせ、やってきました。上島さん、グレッグさんとは初めてお会いしたのですが、お二人から声をかけて下さったので、緊張もすぐにほぐれていきました。
 お休みどころへ来て気付いたことがたくさんありました。上島さん、興野先生、グレッグさん、泉谷さんが話しをしているのを聞いていると、みなさんの心がとてもきれいで、私の心はなんて汚いのだろう。醜く歪んでいるのだろうと思いました。そしてもう一つ、私は世間のことを何も知らない、無知な人間であると感じました。
 お休みどころを訪ねてみて、人として大切であろう事を学べてとてもよかったと思います。まだまだ学ぶべきことはたくさんありますが、焦らず、ゆっくりでもいいのでいろいろなことを身につけていきたいです。ここでの出会いを大切にしていきたいと思いました。
          久保真理子

 初めてきました。興野さん、上島さんがずっと、「おいで、おいで」と誘って下さっていたのですが、この度、やっとこられました。こんなにも山奥だとは……来てみて、びっくりでした。来るの本当に大変でした。
 「空港で4時前に、待ち合わせしましょう。お友達(久保さん)と車で迎えに行きますよ」と興野さん。久保さんと二人で鹿児島空港で待っていてくれたのですが、私が熊本空港の方に間違えて行ってしまったために、バスとタクシーを乗り継いでお休みどころに行くことになりました。空港から、5時間ほどかかりました。タクシーから「お休みどころ」の看板がみえたときは嬉しかったです。熊本空港からは遠い……。
 着くと、みんなが笑顔で迎えてくれました。山奥で再会するうれしさは平地の1.5倍ぐらいはあります。夜は大宴会でした。カリフォルニアからグレッグさんが「一生に一度」といって買ってきた高級ウィスキー、広島さら届いた大振りのカキ、豆と野菜のたっぷり入った炊き込みご飯、とれたてのイチゴ、おいしいお汁。すごいご馳走でした。
 やっとこれて本当によかった。ここに呼んで下さってありがとうございます。
          泉谷龍

 3/11(日)は一行5人(泉谷、久保、グレック、上島、興野)で水上村の湯山地区(10数km)に行ってきました。隣家の椎葉ミツ子さんが山を下りて2年ほどでしょうか。現在は湯山地区の村営ディサービスセンター「桜寿苑」におられます。5人で会いに行きました。ミツ子さんは転んで足を骨折して以来、足が不自由ですが、のんびり毎日すごされている様子。毎日温泉で肌はツヤツヤ。ミツ子さんを5人で囲んでいると長島愛生園の古老たちを論楽社一行で訪ねたときのことが思い出されます。10年前にタイムスリップしたようでした。
 その後、おたけさん会の市、阿部雅弘さん宅、市房観光ホテルの温泉、民宿「いろり」を訪ねました。道中、明日からの水俣行き(泉谷龍さん発案)が話題になりました。水俣に行くなら緒方正人さんに連絡しないと。が、出先なのでわからないのです。僕の手帳にあるのは林洋子さんのケイタイ番号のみ。どうしよう……。
 林洋子さんに電話すると「正人さんはわからないけど『ガイアみなまた』はわかる」。「ガイアみなまた」の吉本友子さんに電話すると、「緒方正人さんはわからないけど、緒方正実さんはわかる」。というわけで、緒方正人さんまで連絡がとれたのです。
 正実さんは、水俣病患者としての認定を受けるための裁判を続けておられましたが、きのう非公式に認定が決まった由。「熊本県下では8年ぶりの認定。個人的には11年の闘いのすえ、真実が認められた」と声を弾ませておられました。多くの人の手を借りて、歴史的場面に立ち会うことができ、感無量でした。
          興野康也(オキノヤスナリ)

 和江さんや詩美ちゃん、グレッグさんと共に土に降ろした植物の苗。まちがってみどりごを刈ってしまわないように、目印の杭を打ちます。

 陽を浴びて 今朝も今朝もと 伸びるなり

 森羅万象よきものにと成長したがっている声が聞こえます。
          上島聖好
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花の寺だより 10号 2007年2月12日(月)

 夫は菜の花マラソン(注1)は走りきらんかった。病気(脳腫瘍)になる前の年は宿がとれずにあきらめて、翌年は8月から予約していたけど9月に病気になって10月手術。手術しなければ2ヶ月もちませんと言われた。手術後3ヶ月で再発が見つかり、亡くなるまで1年1ヶ月だった。
 夫は33の頃から、体力づくりのため365日走るようになった。
 病気がわかってから、最初の1ヶ月が地獄だった。胃潰瘍もおこして、3日間、点滴を受けた。八代と水上村を日に三往復したり。でも、人間強くなれるとよね。
                談:金崎三重子 記録:興野康也

 三重子さんは委託の郵便配達婦。水上村湯山の酒屋のおかみさんで、ご主人亡きあと女手ひとつで4人の子供を育てました。毎日お休みどころに郵便物と新聞を届けてくださいます。
 僕はひょんなことから、今年1月の第26回菜の花マラソン(鹿児島県指宿(いぶすき)市)に参加しました。患者さんのTさんは長距離ランナー。Tさんを元気づけようとおもって、いっしょに走ろうと言ったのです。が、Tさんは退院し、その話は立ち消えに。結局、石川しづ子主任(主任看護師と精神科ソーシャルワーカーを兼務)率いる病院一行7人で参加することになりました。
 Tさんは薬の副作用で心臓が悪いので、無理せず10kmを走ろうと約束していました。が、同じ出場するなら一生に一度フルマラソンに出てみたい、と欲が湧いてきました。ちょうど川上圭子さん(精神科ソーシャルワーカー)が間違ってフルマラソンにエントリーされていましたので、すり替わっていただき、結局フルマラソンに出場できました。
 1回しか練習もせず、下調べもせず、いきなりフルマラソンに出るなど「自殺行為」と評した人がありましたが、実際そのとおりでした。池田湖が見えてくる15km前後までは意気揚々と走っていましたが、開聞岳(922m)以降の15〜30kmは足が棒。沿道の氷砂糖やアメをむさぼり食っても体が動かず、「前へ前へ」と考えようとしても頭の中は自己非難ばかり。拍手をして応援してくれる沿道の人もこちらを憐れんでいるように見え、「うつ状態」のようなものだったのでしょうか。風邪でひどい下痢になり、8kmおきのトイレをいつも探し求める状態で、31km地点でトイレを出ようにも出られなくなってしまいました。
 が、ふしぎなことがあるもので、その31km地点から妙に心が明るくなったのです。ちょっとずつでも小走りをまぜよう、と妙に前向きな気もちになり、実際動かなかった足が動くのです。うつむいて歩いてばかり、ということではなくなりました。体は38km地点で力尽き、以後は歩くことしかできませんでしたが、精神的には妙に淡々とした気もちでした。ランナーズ・ハイと言いますが、これは無茶をしないと味わえない気もちです。こういう気もちを味わうために、昔から人々が修行や苦行をしたり、マラソンを走ったりしたのかな、と思ったりしました。
 レース後は肩を借りないと歩くこともできない状態で、一行のみなさんが僕をベッドまで連れていき、ふとんをひいて寝かせてくれました。
               興野康也(オキノヤスナリ)

 乞食(こつじき)志願というのがあるのやらないのやら。
 私は小さいころから洞窟や神社に住まうお乞食さんにあこがれておりました。小さな住まいを掃き浄め、朝々お天道(てんと)様に祈る日々。と、吉田和江さんもいうのです。「じつはわたしも。」驚きました。とはいえ私は口先だけ。フィリピンの宿で蚊一匹に眠られず。ついにはグレッグさんが蚊帳(かや)を買いに行く始末。宿の人に私は笑われ、私につかわれるグレッグさんは憐れまれ。
 春雷やわが身は神への捧げ物
               上島聖好

 本日は青天なり! 久しぶりに私の心も晴れ渡りました。ずっとずーっと曇りだった私の心が、「夜勤明けの朝」一人の女性がくれた小さな手紙で、こころが晴れました。その手紙とおそろいの「お休みどころ」の皆さんからのメッセージ♡♡
ヤッターと心から嬉しい思い。また頑張れそうです。どこまでも青い空の下で。

(イラスト)心はやぶれても骨でツッパッているぞ!
              2月11日 吉田和江

 お休みどころの本願のひとつは、この「ゴミの時代」に、できるだけゴミを出さずに生活することです。お休みどころが始まった4年前、僕は川村君と大型ゴミを人吉のいろいろな施設に運びました。軽トラックで13往復。壊れた機械や家電製品、古タイヤや鉄クズなどです。現代のゴミの捨て方に、ショックを受けました。
 上島さんと僕はフィリピンで、2ヶ所のゴミ山を訪ねました。人々はペットボトルやタイヤの中の銅銭、賞味期限切れの食べ物などを拾い出し、生計を立てています。この4年間に1500家族が、スモーキーマウンテンIIと呼ばれるゴミ山に移住しました。そこはダンテ『神曲』の地獄としか例えようのない場所です。真っ黒に汚染された大地からもうもうと黒煙が立ちのぼり、バラックの間の路地にはビニール袋の切れ端があふれかえっています。子どもたちは汚染土で体中真っ黒になりながら、かけまわって遊んでいます。人々は社会の構成員として認められていません。ゴミ山の崩落で死者が出たときか、政治家が票集めをするときだけ、社会的認知を受けます。
 彼らはゴミの生産者ではありません。ゴミの消費者、つまり、ゴミが海に投げ捨てられるまでに、いくつかの掘り出し物を見つけて売るだけです。日本やアメリカに住む僕たちは、ゴミを次々生み出すものの(生産物としてゴミしか残らないと言えるかもしれません)ゴミを消費するよう要求されることはありません。どちらのあり方も、社会の構成員として十分なあり方とは言えません。
 お休みどころで一番好きな仕事は、汲取りです。汲取りは僕たちと大地のつながりの回復と言えますし、不要な物が栄養になることです。
 「汲取り」(つまり自然のサイクルに再び参加すること)にもとづいて、社会を形づくる道はあるのでしょうか。
               グレゴリー・ヴァンダービルト(興野訳)

(原文)
One 本願 of the O-yasumi-dokoro is to produce as little garbage as possible in this age of garbage. When the O-yasumi-dokoro opened four years ago, I helped Kawamura-kun haul thirteen kei-truckloads of garbage of every kind – broken down machinery and appliances, old tires, scrap metal – down the mountain to all sorts of facilities in Hitoyoshi. I was shocked by the ways we thrown away our garbage. In the Philippines, we visited two garbage dumps where communities of people make a living by scavenging for plastic bottles, for the copper inside tires, and for expired foods. 1,500 families have moved to the dump known as Smoky Mountain II in four years, to a place I can compare to only Dante’s Hell, black smoke rising from the blackened earth, the paths between shacks saturated with shredded plastic sacks and black, polluted dirt, which covers the children who run and play in it. The people there are only partly members of society, noticed only when landslides kill or when politicians need votes. They are not producers of garbage, only its consumers, digging out a few bits to sell before the rest is dumped into the ocean. We in Japan and America produce garbage (only garbage) but we are never asked to consume it. We cannot be called full members of society either. The best job at the O-yasumi-dokoro is kumitori because it is a quiet re-connection between life and earth, a kind of waste being made into a kind of nutrition. Is there a way to build a society on “kumitori” – on rejoining the nature’s own recycling?
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花の寺だより 9号 2007年2月5日(金)

 神田橋先生のもとに一ヶ月間勉強に来られた垣田あおいさん(32歳、漢方専門の薬剤師、鍼灸師)が2/3、2/4とお休みどころを訪ねてくださいました。垣田さんは気を診る力にすぐれています。お休みどころ三人組の診断は、
 上島:頭がたかぶっている、心・肺がすこし弱い。
 興野:胃腸が弱い。
 グレッグ:治療不要。元気。
とのことでした。
 垣田さんが神田橋先生に治療の腕を上げる方法を尋ねたところ、アメリカ先住民のシャーマンに会いなさいと言われたそうです。アメリカ先住民のことなら阿部雅弘さん。電話すると、さっそく2/4来てくださいました。垣田さんのために持参されたのが『おれは歌だ おれはここを歩く』(金関寿夫訳、秋野亥左牟(いさむ)絵、福音館書店)アメリカ先住民の詩のアンソロジーです。この詩が聖好さんの朗読とぴったり。雲と一つになり大地に根ざすような世界観が聖好さんと合うのでしょうか。5人、薪ストーブのまわりで詩(うた)に酔いました。
               興野康也(オキノヤスナリ)

(イラスト)冬のお休みどころ芸術のかおり

(イラスト)わが光り輝く角

「わが光り輝く角」はチッペワ族の「鹿の歌」

 阿部さんの家には先住民族の住居のティピがあります。三角形。
 三角形血の中に踊るモーツァルト

 『魂の悲しみ』
 凄く好きだった酪農の仕事から少し気持ちが離れた時に、なんのために働らいているのか考えた。生きていくのにお金はかかるけど、欲しい物とか特にない。
 欲しい物は、輝ける時間? 活々できる場所? 私にとってそれは、自然の中に居る時。
 山菜取り、魚取り、動物達を見てる時。
 生活する為に今はあまり必要でない行為。「しまった!!」生まれてくる時代を間違った。それらの行為が、生きていく為に、自然に必要だった時代に生まれてきたかった。
               稲葉愛美(イナバナルミ)
P.S.−聖好さん 変わり者と言われた私を誉めてくれてありがとう

 愛美ちゃんは1972年生。「囲炉裏」(水上村の民宿)のスガ子さんの娘さん。金沢の野生動物専門学校を卒業後、観光牧場(栃木県)に就職。ジャージ牛の乳しぼりをするするうちに、牛の仕事が楽しくなります。そうして、ホスルタインの乳しぼり、酪農ヘルパーとして働くようになりました。
 愛美ちゃんは野生児。小さいころから、牛が好き。紺色のセーラー服を中学のころペロリとなめられても、日がな一日、ぼうっと眺めていたそうです。
 「牛は正直」と愛美ちゃん。
 現代に、深い問いを投げかけてくれます。私たちの獲得した科学技術文明とは何ぞや。
 愛美ちゃんのかなしみは、深い。
 きょうは(2/6)愛美ちゃんと吉田和江さんが来てくれました。ガムテープやら糊、電球などを和江さんが買ってきてくれたのでした。五人で薪ストーブを囲み、昼ごはん。ごはんとみそ汁、おつけもん。ただそれだけの献立です。
 いま、和江さんがグレッグさんに針仕事を教えています。グレッグさんのセーター、たった一枚のセーターの裾がほころびたのでした。
 「上手、上手、グレッグさん。糸の最後はこうやって結びますよ」と和江さん。
 Tシャツの肩もほころびています。愛美ちゃんはそこに刺繍を施そうと奮闘中。赤い糸で「LOVE」。
 本日ぽかぽか。早春の風が竹風鈴をポカポカと鳴らしています。えんがわの針仕事。遠くでチェーンソーのうなりが聞こえてきます。
 じきに、碓井亮さんがおかあさまと共にやってきます。
               上島聖好

(イラスト)種まく人 あべさん 青い牛

 息子「亮」の依頼で、古屋敷の平谷まで運転してきました。到着寸前まで、到着できるかどうか……少々不安でした。頂上の「しゃくなげ公園」まで登ってUターンして……「あ、あの集落」だったかと、あと戻り……でもほっと一安心したところでした。ホンワカ木を燃すストーブ独特のあったかさに救われた気分です。
 思いがけなく豊田正子さんの本(『生かされた命』(岩波書店))を拝借することになり(亮の妻、孝子の希望)……あらためて不思議な「本」との再会!! かつての『綴り方教室』の著者の「老女」になっても尚、健筆ぶりには、嬉しい限りでした。六十数年昔の知人・旧知の文章と、ここで出会うなんて……今日は、ありがとうございました。
      2007年2月6日   碓井三保

(イラスト)鈴木好子さんからいただいたお菓子。

 マイナス4度の土曜日からプラス4度の今日(火曜日)まで春の感じが入ってきて、「春が立つ」というのを聖好さんに教えていただきました。
 灯油の山田さんを含めて、今日五人が山を登って下さいました。わいわいの日で、又三人で未来の就職などの話で燃えたり、ケンカしたりしていました。が、今晩、母からのメールによって祖父の猫が死んだとわかりました。92年以来、居てくれるだけで、みんなを守ってくれました。10月のハロウィーンに来た黒い猫でスプーキー(おばけ)と祖母に名づけられました。飼われた14年間のちょうどまん中には祖母の死亡がありますので、祖父一人ととなりにも長かったし、僕とも一日中対話していました。悲しい今、新しい世界が生まれるように。
               グレゴリー・ヴァンダービルト

(イラスト)くろまめ
順子さんに買ってきてもらったくろまめ。薪ストーブでゆっくりといただきます。

(イラスト)無農薬ミカン
浦松棟梁の友人の作品。こんなに味の濃い、うまいミカンははじめて。

(イラスト)ひょうたん
高鍋キリスト教会の大久保悦雄作品。われらひょうたん家族。
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花の寺だより 8号 2007年2月2日(金)

  聖好さんへのオード(讃歌)
        碓井亮(うすいりょう)

いつも恵みを ありがとう
水と糧(かて)と豊穣な
言葉の花束 ありがとう
そして旅の思い出を

心はあなたと歩いていた
マングローブの根の赤い蟹も
教会も ヤシの実のミルクも
悲惨な牢獄の病室の
病みつかれた 二十年も

盲(めし)いてよかったと思うことは
相手の心の喜びも
哀しみも そして 怒りも
すべて心に韻(ひび)くこと

何千年も前から
ドクトーロ(注0)興野も グレゴリーも
知っていた気がするのです

貝の化石のなめらかな肌
聖好さんが拾ってくれた
奇蹟に言葉を失った

それはジュラ紀か白亜紀に
生きて砂地で息してた
砂地がそのまま型となり
ミルク色した石が流れこむ

イエスも モーゼも ブッダも
地上には まだ
生まれていなかった

時間は幻想(まぼろし)だ と
ぼくは思ってる

聖好さんは気づいていないけれど
あなたは星屑を拾い集め
星座を織りあげる織姫
「黄金の心」(注1)を集める天使

注0:エスペラント語の「医師」の意。碓井さんはエスペランティストである。

注1:「エンマ・ミハイロウナ夫人には黄金の心がある」(北御門二郎さんの著作より)をうけて。


上島様 興野様
寒中お見舞申し上げます。今年は京都も暖かくて拍子抜けの日々です。
先日、一月十九日に恵楓園(注2)へ面接に行きました。そして無事に採用されることになりました。急に恵楓園から連絡があり、バタバタ準備しながら前日に大住さん(注3)に連絡したら、忙しい中時間をとって下さって、おいしいカレー屋さんに連れていってもらいました。
上島さんフィリピンに旅行中とのことで、そろそろ帰国されている頃かと思い、お手紙を書いています。
本当に皆様の後押しがあってこその採用です。感謝の気持ちでいっぱいです。実際に療養所の職員として働くことは、具体的にイメージできていないです。きっといろんな考え方に出会って、つらい思いをするかも知れません。でも何より、療養所の日常の中に自分がいること、自分の日常が療養所にあること、それが現実になると思うと、やっぱり今回動いてよかったと思っています。
面接をして下さった職員の中に、上島さんのお知り合いの副園長さんもいらっしゃいました。個人的にお話することはなかったのですが、面接の間中ずっと温かい眼差しを向けて下さっていたのは、私の気のせいではないと思っています。
四月から働く予定です。今はまだ在職中ですので、忙しくしていますが、二月中旬には退職し、しばらく休けいして熊本には三月下旬には引越そうと思っています。一度ゆっくりお休みどころに遊びに行きたいです。部屋は、恵楓園の近くではなく、熊本市内にしようと思っています。市電にあこがれがあるのと、今までの自分の仕事への態度を考えると、少し距離がある方が元気に過ごせると思ったからです。
なんだか、つらつらと書いてしまいました。まずは喜びの報告をと思っていたのですが。
また引越しの予定などはっきり決まったら連絡します。
上島さん、興野さんに会えることを楽しみにしています。フィリピンのお話も聞かせてください。
        渡辺詩美(注4)

注2:菊池恵楓園はハンセン病療養所。熊本県合志市にある。

注3:大住保子さんは合志市の市長のおつれあい。秋の林洋子公演の主催者でもある。

注4:わたなべうたみさん、26才。ハンセン病療養所に住まう詩人の塔和子さんが、名付け親である。



 「タブラ・ラサ(注5)。生まれたばかりの人間の心はタブラ・ラサ すなわち何も書かれていない石板であるとする説がある。」(港千尋(みなとちひろ)『あけぼの』2007年2月号)その石板に何を書きこもう。私なら。
 ストライプ DNAを 駆け抜けよ
 ただそれだけである。朝を迎えるたびごとに、私は石板を消し、また、同じ句を書きつける。それが、私の天職である。生きてゆくことは、同時に、死者を迎えることと相等しい。1/15〜1/27までのフィリピンへの旅は、故吉田和子・故島田等との対話劇であった。
 吉田和子は重荷を背負って生を請けた人であった。父は、「党に命を投げ出した主義者。」母は、「無学文盲」の人。和子さんを産み、21日目で婚家を出され、以後、祖母の手で育てられる。父は、和子さんの11歳のとき、ふいに地下活動から姿を表したかとおもうとすぐに農薬自殺してしまった。彼女は苦学し、部落にルーツをもつ青年教師と結婚。二児をもうけ、自身も高校の教師となる。居を部落に置き、狭山事件(注6)を機に、「闘う人」となる。同時に、フィリピンのスラムに住まう人と出会い、彼らの学費を捻出すべく、彼らの作った刺繍カード、手漉き押し花カードを日本で販売する「草野の根貿易の会」を設立。家族四人、心合わせて、販売、通信製作に励む。現地の少年少女の奨学金、コミュニティハウスもでき、多くの人が巣立っていった。2000年3月、吉田和子、ウツ病のため自死。49才。(フィリピンでの活動については『イサン・パーライ』(同時代社・共著)に詳しい。藤田省三先生が論楽社で話をされた折、二人は出会い、意気投合。省三先生の力添えで出版された。「イサン・パーライ」とはタガログ語で「一粒の籾」という意味である。彼女はクリスチャンであった。)
 私は1992年彼女の率いるスタディ・ツアーに参加したのが、はじめてのフィリピンであった。彼女の自死が「お休みどころ」発願の契機となった。興野康也は彼女の手記を読み「トラウマの癒る余地がありませんね。彼女の死に一番責任があるとすれば、それは、精神科医ではないでしょうかねえ」とかなしげにつぶやく。フィリピンへ旅立つ前のことである。
 クリオン島(注7)に着き、島の高台にある美しいカソリック教会を訪ねた。暑い日射しをよけ、小鳥たちが御堂を飛び交う。小鳥たちの鳴く声はさながら天国のよう。持参した線香を御堂の端にしつらえてある灯明台に灯す。香のくゆる先を眺むれば、窓のむこうに、青い空を背景に目の覚めるようにまっ白の花をもつ大木がそそり立っているではないか。これは何。何という木だろう。茨木のり子さんの書いていた「タイサンボク」?いや、違う。木の姿を見ようと外に出る。たたずんで、しばらく見つめていると、「カラチューチ!」声がとんできた。それが、トゥチ(60才)であった。トゥチは教会の脇に建つ少女寮の寮母。私に花の名を投げてくれたのだった。
 トゥチの親もハンセン病であった。彼女に案内され、私たちは患者病棟、精神科病棟を訪ねた。(碓井さんの詩にある第二連である。)私は貝を拾いたかったが、埋めたてられた海岸には貝はなく、かわりに石を拾った。そのひとつが「貝の化石」である。
 「タブラ・ラサ」港千尋はこう続ける。
「ではそこに何でも書き込むことができるかとなると、そうではない。もって生まれたかたちの上に、何が描かれてゆくかは、人間の創造性にかかわっているだろう。」(同上)
 お休みどころで、何ができるのだろう。
「次の冬」ならぬ「次の舞台」。
 私はいま夢見ている。
 この地に「トゥチ」が立つことを。
        上島聖好

注5:tabula rasa 「文字を消してある書き板」というラテン語。イギリスの哲学者ジョン・ロック(1632-1704)の説。遺伝ではなく生育環境によって人間がつくられるとする。人間が生まれたばかりで、まだ何も書き込まれていない状態のこと。(グレッグさんによる注釈)

注6:さやまじけん。1963年5月1日に埼玉県狭山市で起こった、高校1年生の少女を被害者とする誘拐殺人事件。その容疑者として、当時24歳の石川一雄さんが逮捕され、自白により一審で死刑判決(1964年3月11日浦和地裁)。二審の控訴審で石川さんは冤(えん)罪を主張した。石川さんが被差別部落出身であったことから、部落差別に基づいた冤罪であるとして問題になり、部落解放同盟を中心とした支援活動が広まるが、1974年10月31日、東京高裁は無期懲役の判決を下す。弁護団は上告したが、1976年8月16日に最高裁は上告を棄却し、無期懲役刑が確定した。1994年12月21日、石川さんは31年7カ月ぶりに仮出獄した。二度の再審請求棄却を経て、2006年5月23日、東京高裁に第三次再審請求を申し立て、「狭山事件の再審を求める市民の会」(代表・庭山英雄弁護士、事務局長・鎌田慧さん)が「狭山事件の事実調べ・再審を求める新100万人署名運動」を行っている。(楢木祐司さんによる注釈)

注7:フィリピン諸島西部の小島。1906年、ハンセン病者の隔離政策のため、島民全員を移住させた上で、当時世界最大規模のハンセン病療養所ができた。日本の国立ハンセン病療養所と異なり、断種手術は行われなかった。現在、元患者や療養所スタッフの子孫約3万人が住む。(グレッグさんによる注釈)
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花の寺だより 7号 2007年1月1日(月)

 今日、一月一日、元旦、お休みどころ、います…
ここは、私の命の…心の…元気の泉わく所です。犬のチビは、いつも私をやさしく受けいれてくれます。もちろんお二人とも!!2006年は色んな事が有りました。そして2007年の私の課題は、「生きる事!とにかく生きる事」ありがとうございます。
          吉田和江

 久しぶりにお休みどころに来ました。素敵なストーブを囲んで和やかに過ごしています。チビが少しふっくらとして、どんぐりのような眼で迎えてくれました。今年の初めを爽やかにすごせて楽しい時間をもてました。また2007年もよろしくお願いします。
          倉本暁子

 夫と帰省した娘と三人で久しぶりに訪れました。神田橋先生の講座以来です。いつものように、暖かいお二方のおもてなしに、心身共に癒されております。我家では、野良猫のボスが入り込んできて、内猫達をおどかして、てんやわんやの大騒ぎの毎日ですが、ここは、静かで落ち着きます。今、霧がたちこめています。
          倉本啓子
 
 どうもありがとうございました。また近いうちにおたずねしたいと思います。
          倉本義之

 新年おめでとうございます。
 今年はにぎやかに新年を迎えることができました。吉田和江さんは水上村岩野の特別養護老人ホーム「桜の里」に就職決定。倉本義之、啓子夫妻は2006年7/15〜17の第3、4回お休み講座以来の来訪です。娘の暁子さんは東大獣医学科の4年生。今度1/16〜1/26、上島さんとグレッグさんがフィリピンに行くのですが、狂犬病ワクチンが必要かどうか、相談に乗っていただきました。
 話は変わりますが、僕がお休みどころに来る以前、活動に参加していた論楽社(ろんがくしゃ)は京都市左京区の岩倉にあります。この岩倉は、実は精神科医療の歴史上、有名なところです。以下、すこし長いですが、『精神医学辞典』(弘文堂)を引用します。
 後三条天皇(在位1068〜1072)の第三皇女がもののけに憑かれ、岩倉大雲寺(1987年本堂焼失、本尊移転)に籠り、滝(現存)浴と霊泉(現存)の飲用により治癒したという伝説から多くの精神病者がここに集まるようになった。参籠者の世話・宿泊所が民家により営まれ、これを茶屋と呼んだ。文政元年(1818)頃は、実相院の管轄下にあり、四軒の茶屋が許可された。1875年府立癲(てん)狂院の設立(1882年廃院)や1900年精神病者監護法の発布(警察の管轄下)などにより何回か茶屋禁止令が出され、存亡の危機があったが、茶屋は宿屋、煮売業、旅宿業など名を変えて生きのびた。明治末から岩倉病院(1884年岩倉村有志立岩倉癲狂院→1892年岩倉精神病院→1905年岩倉病院。現在の岩倉病院とは関係ない)の土屋栄吉(1877〜1957)院長による巡回診療が行われ、1901年土屋の指導のもとで茶屋7軒の営業が下鴨署により許可され、それが大正・昭和の岩倉保養所と呼ばれるものに発展していった。……保養所は1937年頃が最も多く、12施設(1施設4〜30人)を数えた。まったくお客として遇した所、作業などを行い中間施設的役割を果たした所など家庭看護の質はいろいろであった。……保養所はベルギーのゲールのように国の制度とはならず、第二次大戦末岩倉病院の廃院とともに消滅した。
 僕は京都府立医大に通った6年間、岩倉の論楽社のそばで下宿していました。その地で、これほど進んだ精神医療があったと知り、感激です。
 「お休みどころ」という名前を峠の茶屋と勘違いされる方が多いですが、岩倉村では「茶屋」という名で家庭看護が行われていたと知り、合点がいきました。
 お休みどころには湧水のわく泉がありますし、4km上には白龍雄滝、雌滝があります。ある意味で、お休みどころは現代の岩倉村を目指しているのかもしれません。
          興野康也(オキノヤスナリ)

 一九八七年の春、京都の北白川から岩倉に移った。近所に鶴見俊輔さんと横山貞子さん夫妻が住んでいて、ご挨拶に行った。「ここは世界一進んでいるところです。開放病棟をやっている精神病院があるんですから。」鶴見さんはおおらかに笑って言った。大家さんは「あなた方のような一風変わった人が来ても大丈夫。何しろ戦争中精神病院が軍の病院になって、患者さんたちが追い出されたときも、村の人たちが養ったんですから。養子にした人たちもいますよ。」と、太鼓判を押してくれた。なるほど。折々に、患者さんたちがつれだって農協スーパーに買いに行くところに出会ったり、散歩に歩いたりしているのを見かけた。「いやあ、家に帰ったら知らん人が寝てるやんか。誰やおもたら、患者さんやったわ」と立ち喋りしている人の話も、すれ違いざま聞こえてきたりした。
 岩倉の 狂女恋せよ ホトトギス 蕪村
こんな句もあるくらいである。
 鶴見さんはウツ病で入院した経験を持っている。岩倉の家の大家さんは精神病院の薬剤師。私の岩倉生活十六年は味わい深いものであった。
 心の岩倉を開放し、遡上してきたところが水上村。運ばれた命の先は、「お休みどころ」(茨木のり子)という現代の「茶屋」を目指しているのかもしれない。初夢に、茨木のり子さんの夢を見た。
 チビの散歩にお休みどころの眼前の禿山を上る。去年の夏に伐採された。いまだ杉の葉が山と積まれ棄てられたまま。まさに殺戮の態。団栗やら栗やら柿やらずいぶん種を蒔いた。照葉樹の森になってほしいと願っている。
 お休みどころの地が森になることと、トラウマ治療の場(現代の岩倉村)になることとは相等しい。そして、詩が生まれることは、等しい。
 「私」という主語を、「私たち」に置き換えられるような働きをしたいものである。そのとき「私」という生命の宝蔵はさらなる輝きを増すのではないか。
 禿山をチビに引かれてよたよたと上っていると、青い空にクマタカが舞った。
 年の暮 クマタカの舞い 大空に
目は、十日の月をとらえる。まるで、右の耳のような月ではないか。
 耳の月 タカの舞いに 耳澄ます
お正月は、友人たちと時を分かちあった。元旦に訪ねたスガちゃんの「囲炉裏」のぬくもり。胃袋も、ぬくもる。
 二日、倉本一家を見送り、チビ散歩。霧で一寸先も見えない。
 正月や 暗中模索 霧深し
 霧の中 夕焼け小焼け 五時の鐘
 新年や 無窮の先を 窮めたい 
          上島聖好
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花の寺だより 6号 2006年12月26日(火)

 次回の伊敷病院・医局読書会は「神谷美恵子さんの『人と読書』をめぐって」(中井久夫『樹をみつめて』所収)がテーマです。読んでみると、神谷美恵子さんをトラウマ治療の失駆者として位置づけてあります。神谷美恵子さん(1914〜1979、精神科医、文筆家、翻訳者)が働いた国立ハンセン病療養所・長島愛生園。その愛生園は僕にとっても人生の原点です。愛生園に住んでいた故・島田等さん(1926〜1995、哲学詩人)は精神的な師になりました。
 お休みどころをトラウマ治療の場として運営していくことは、島田さんや神谷さんの遺志かもしれないと思います。
 来年2007年夏には島田等さんの親友の宇佐美治さんを招き、お休み講座を開く予定です。
 もうひとつ。2007年5/26(土)5/27(日)には神田橋條治先生を招き、お休み講座を開きます。上島さんの年来の友人のチェリスト、玉木光さん(31歳、アメリカ・フォートウェインフィルハーモニー首席奏者)も招く予定ですが、日程を調整中です。
 さて、12/23(土)〜12/25(月)までは、上島さんと宮崎県高鍋町の横川澄夫、ミサオさん宅を訪ねました。お二人のお家は僕たちの「お休みどころ」で、行くたびに深々と休ませていただきます。お休みどころを始めた2003年から澄夫さん(牧師、詩人、歴史家)が日本バプテスト高鍋キリスト教会の牧師になられ、以後、牧師館にお住まいです。
 12/24(日)はクリスマス礼拝に参加。教会員の方たちも、なつかしい顔になりました。
 2007年春頃に、教会員のみなさんがお休みどころを訪問する計画があります。もし実現したら、お休み講座の形にしたいとおもいます。
 宮崎からの帰り、湯前駅で田嶋順子さん(イチゴ農家、太極拳指導)が車で待っていてくださり、いっしょに豊永酒造の焼酎蔵を訪ねました。焼酎「豊永蔵」は聖好さんが大好きな焼酎ですが、売っている店が少ないのです。入手方法を尋ねるために訪ねた豊永酒造でしたが、社長さんの判断で蔵の見学をさせていただけることになりました。とりわけ美しかったのが、麹をつくる石室(いしむろ)(大正8年建造)です。90〜95%の湿度と30〜34度の温度が保たれた麹室は赤ちゃんを育てる場所といった雰囲気で、ここで蒸した米とまぶした麹菌が育つそうです。蔵の清潔さが印象的でした。
 12/23(土)には久保真理子さんの運転で、鹿児島県国分市にある上野原遺跡(9500年前の縄文人の集落遺跡)を訪ねました。施設はイベントパーク的ですこしなじめませんでしたが、やはり古代の人のいた地にはさわやかな気があり、頭の奥の疲れがはらわれるのを感じました。
 お休みどころの地も、縄文以前の旧石器時代の人が住んでいたようです。この地のいい気を、ぜひ皆様にも味わっていただきたいと思います。
 よいお年をお迎えください。そして、2007年もどうぞよろしくおねがいいたします。
 来年度はグレッグさんもお休みどころ定住体制ができるでしょう。
               興野康也(オキノヤスナリ)

 油断大敵。すぐに新聞がたまります。「水上村古屋敷江代 上島聖好様」(ほんとうは、水上村平谷)と書かれ、46円切手のはられ、ていねいに帯が巻かれた新聞をなおざりにすることができず、こちらも帯をていねいにハサミで切り、46円切手をきりぬき(古切手リサイクル)日が経ったものでも目を通します。
 11月28日の古新聞に、「新学長バークレー氏」というベタ記事がありました。福岡にある西南学院大学というキリスト教系の大学長に、アメリカ人の学長が選ばれたというのです。専門は歴史神学。グレッグさんの就職先にどうだろう。就職如何にかかわらず、会ってみるだけでもいいではないか。ふとそんな気がして、横川澄夫さん(1930生)に相談してみると、「西南学院はいい大学です」と言うのでした。
 横川牧師はフェアな人です。卒業した大学だからといって、誉める人ではありません。十年程前に、京都の北白川バプテスト教会を引退し、「鶏が飼いたい」と、広々とした空と海、ひょいと目をやれば霧島連峰見ゆる高鍋に移られました。
 教団からは金をもらわずにタイプ印刷、倉庫番、会社の経理などを喜々としながら口に糊した生活者牧師。陸軍幼年学校出身の非戦の人。1982年ごろ、京都でアムネスティの集会で、横川さんと故和田洋一先生をお招きしたのが、ご縁のはじまりでした。辿れば、たまたま高校の先輩だったということもあり、親しくさせていただいているのでした。横川さんの深みは、人間の悪なる善(善なる悪)を、楽しんでいること。古河市兵衛を研究することによって、歴史への目が開かれたそうです。
 おつれあいのミサオさんは、横川師を大きく包む人です。お休みどころのお休みどころ。私たちが泊まりに行くと、自分たちの寝室を明け渡し、お二人は台所つづきのリビングで寝起きされます。明日のクリスマス礼拝のために深夜まで料理する音を子守歌のようにきいて、眠りにつくのでした。朝は、トントントンとまな板の音で目が覚めます。
 そうしておもうのです。ああ、うれしい。
 生きていて、よかった、と。
 去年は、お正月を過ごさせていただきました。大雪に見舞われ、クリスマス礼拝どころか庭先にも出られないありさまだと、十分な薪の準備のないなかで縮こまって電話すると、横川さんはこう言うのでした。
「いつでもいらっしゃい。あなたのいるところが祭りになるのです。
 そう。耐えることです。
 北御門さんのお弟子であるあなたは。
 人は結果だけしかみないけれど、まあさしあたってそこから判断するしかないわけだから。北御門さんにとっては九割方は耐えることだったのではないですか。耐えるといっても、止むを得ず、それしかできないからそうするのですが。
 人のいのちは立ち上がるようにできています。
 いのちを信じて。
 必ず人は立ち上がるのです。
 いのちは、ふしぎです。
 寒かったら、ずっと寝ていてもいいんです。」
 涙がころがり落ちました。涙はぬくいものなのでした。どうにか雪は溶け、お正月を過ごさせていただいたのでした。
 今年は、教会員の方々の寄せ書きカードが届きました。「ようこそ!」と。信仰のない者に届けられる呼び声。
 応じて、出かけてまいりました。
               上島聖好
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花の寺だより 5号 2006年11月27日(月

 鍼灸師の碓井亮さんの体調がわるく、11/26(日)の月例会はお休みになりました。12・1・2月は寒い季節で亮さんが弱られるので、今回が今年最後の予定でした。次の春を待ちましょう。
 11/10から11/25までは林洋子九州巡行公演の運営に奔走しました。11/6から11/25までは京都・丹後からおいでの堀田雄次さんがお休みどころに泊まりこみ、公演運営の準備。上島さんと堀田さんはほぼ全会場に付添い7ヶ所の公演が無事終了しました。熊本県合志市周辺の三公演をまとめてくださった大住保子さん、人吉公演を主催してくださった鶴上うしをさん、ほか有形無形の応援をくださった多数のみなさま、ありがとうございました。
 九州巡行公演は林洋子さんの飛行機代、滞在費ほか諸費を各会場が共役金を出しあって負担する形式になっています。去年は共役金15000円で赤字に。今年は各会場から30000円いただき、みごとに21086円黒字が出ましたので、お休みどころからのカンパも含め、22000円林洋子さんにお送りすることができました。みなさまのボランティア精神で成り立つ巡行公演です。感謝いたします。
               興野康也(オキノヤスナリ)

 亮さんを案じている。青白い顔をして、寝ているという。「モモジロー(チビのこども)は元気です。」つれあいの孝子さんは不安気な声でいう。晩秋の冷たい雨がそぞろ降る。風はがたがた雨戸をたたく。
「排尿後失神は、たまにあることなんです。しばらく様子を見て下さい。」興野さんはてきぱきと話している。
 亮さんは、おもしろい。目の見えなくなった運命を楽しんでいるかのような語り口をする。彼が二郎祭りに来たのは、みんな帰ったあとのこと。残っている人たちのマッサージを無料でしてくれた。「囲炉裏」のスガちゃんは、すっかり夢心地。帰ってからすぐに決断したという。ゆったりとした時間、お休みどころに流れているような時間が民宿・囲炉裏の持ち味だった。なのにいまは昼定食づくりに追われている。食堂の運営は止めよう、と。「原点に還ったとよ。ありがとね。」スガちゃんはいう。今回も十一月十一日の次の冬祭りに参加して下さった。直前までお客さんが来ていて、といいながらも早めに到来。台所仕事をじつに手際よくこなす。南天の葉なんぞを皿に敷き、みごとな絵模様に仕立て上げる。後日、スガちゃんの持参したお重を返しにゆくと、「行ってよかったー。やっぱりお金じゃなかね。あくせくせんでよかとおもた。畑ば耕して、大根の一本も捨てずに漬物にしたりして、ていねいに生きてゆことあらためておもた。息するだけで、10万はかかる。保険やらなにやら。それさへあったら、それでよか。」という。「ほら、これも持ってゆきない。」スガちゃんは、バナナやら、甘酒、大学芋などを包んでくれる。それを、私たちは、山鹿良之(1901〜1996 盲僧の琵琶法師)宅の弁才天にお供えした。そうそう。あくまきも。良之師の息子、昭勝(テルマサ)さんはにっこりとした。テキ屋のトラさん顔負けの朗々とした語りべ、いまは屋台の「アイスクリーム売り」をしている昭勝さん。この九月にようやく電気をひいたばかり。手料理の香なんぞ、昭勝さんも弁才天さまも、久しくかいだことはなかろう。それどころかお灯明とも無縁といったふう。
 それでいいのかもしれない。
 われひともみな「餓鬼阿弥」道中。
 愚かさ、欲も、悲苦も、よろこびも分かち合い、ひかれゆく「餓鬼阿弥」道中。
 去年、私は林洋子さんからCDをもらった。一枚は、太宰府公演のとき、私の失敗で落としてケースのひび割れた『黄金の舟』。それを私は若い友人、圭子ちゃんに贈った。妊って、からだの不調に苦しんでいた圭子ちゃんは、ふしぎと洋子さんの『黄金の舟』だけはからだに入るとよろこんだ。つれあいの幸ちゃんはでんわしてきて「他に洋子さんのCDを欲しい」と言ったので、「本人に頼んだら。よろこばれるよ」と言ったのだった。生まれた赤ちゃんの草生太くんは、何とタゴールと同じ誕生日だった。
 もう一枚も「黄金の舟」。どうしてもらったものかは覚えない。私はそれをゴーバルの石原真木子さんにさしあげた。彼女の母の霊前に。おかあさまは、タゴールを尊敬していたという。それで、6/17〜6/19、ゴーバルツアーとあいなった。ゴーバルとは無添加ハムをつくっている共同体である。「愛」(合)言葉は、「生きることは分かちあうこと。」
 亮さんはまだ少しは目が見えるという。一日に15分、エスペラント語の聖書を読むのが日課なのだった。私はその貴重な時に割りこんで、通信やら何やらごちゃごちゃと書いたものを送った。亮さんはこう言った。「上島さんは黒子に徹しているのですね。天の川の織り姫のようです。天の川は、川というものがあるわけではありません。織り姫が織った布をザーとひきあげると、きらきらきらきらきらめく星が織り込まれ、織り手ではなくその星ばかりが目立つのです。星が光るのです。それでいいではありませんか。のちの人の宝になれば、いいのです。」
               上島聖好(ウエジマショウコウ)
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花の寺だより 4号 2006年10月15日(日)

 10月15日は上島さんの誕生日でもあり、地区の山の神祭りの日でもありました。総勢8人。藁で標縄(しめなわ)を綯(な)ったり、竹と紙で御幣を作ったり、お米、焼酎、お菓子などの捧げ物を用意して山に入ります。地域の人が手づくりで山の神様をまつる感じがあり、僕にとっては一年で一番好きな行事です。神様のほこらをお清めしたあと、皆で生(き)の焼酎をいただきます。ふだん飲まない僕も飲み、その後の宴会では理性を失いました。
          興野康也(オキノヤスナリ)


 山の神さまをともに祀るのは、総勢八人、近隣五軒。むかしは十軒あったと、今年の家主、平川太輔さん(69才)はいう。太輔さんは現役の山師。家に帰って来るのは、日曜日だけである。つれあいが十年前に亡くなって、この祭りの準備を一人でやった。お招きがあったのが一週間前。例会はそれ以前に決まっていたので、はじまりを一時間だけ遅らせて三時からにした。太輔さんは森の人にふさわしくひっそりとした声と人柄である。「何時に集まったらいいのでしょうか」ときいても「あんまり早よなくてよかですよ。」九時ごろ行くと、もうみんな標縄を綯っていた。晴れ渡った空を映した顔を見交わしながら円になり綯う。ケサヨシさんは、御幣を切っている。そうして、太輔さんの地所にある山の神さまのところに詣でるのであった。サワラ、サクラ、スギ、ヒノキ、イチョウ、キハダの樹木にもお供えをする。火を焚き、去年の標縄を焼く。火を囲み、ほっとしたとき、ケサヨシさんが興野さんに歌を所望した。興野さんは「ふるさと」を歌った。みんなで歌った。あとの宴でも、歌った。当然三時にはまにあわず、碓井夫妻は待ちぼうけを食わされていた。
 ごめんなさい。
          上島聖好


 おいしいですね。元気出ます。ミョウガって物忘れするって言われてますよね。隠岐島のシフォンケーキ。うちの母なんておいしいもの食べると「生き返る」ってよく言ってました。「じゃあ死んでいたの」なんて言ってましたけど。シフォンケーキ。聖好さんのお誕生日に届いたんですね。家でつくられたんですか。「資本ケーキ」なのに。最近エスペラントの「プッファ」をおぼえました。羽ぶとんを3時間くらい干したかんじ。よく出てますでしょう。
 関けさ子さんのピクルス。料理した人の気もちがこもってますね。
          碓井亮さん(代筆、下は自筆原稿、治療のあとの小さな宴にて)

  二〇〇六年十月十五日
  いのちの水をいただく

地球を一個の林檎だとすると、私が立つこの任意の一点が針、つまようじ、中心です。水上の地を初めて訪れ一年がたちました。ここの水は苦業するブッダに捧げられた乙女の乳粥(ちがゆ)、イエスが飲んだシロアムの泉の水です。甘やかでたおやかなメロディーを刻む珠玉の水滴達。透明な光宿す精霊達達。
いにしへの歌をし弾けば
たまきはるいのちの水をのむ心地する
山中のニライカナイにて
(旅愁しるす)
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