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コロナウィルス感染症について 2020年4月12日(日)

   新型コロナウィルスの大流行が毎日テレビや新聞で報道されています。医療現場にいると、毎年インフルエンザに悩まされています。当初はインフルエンザほどは怖くないのではと思っていました。インフルエンザは感染力も強いですし、高齢者では肺炎を併発して亡くなることもよくあります。認知症病棟のある僕の病院でも、毎年「インフルエンザが高齢の患者さんに広がらないように」と薄氷を踏む思いで過ごしています。世界的にも毎年数十万人が亡くなるそうです。
   ところが新型コロナウィルスの被害は拡大する一方です。エボラ出血熱のように致死性の非常に高い感染症の場合、感染者の状態が重篤化して生活活動ができなくなるぶん、感染が拡がりにくい面があるそうです。ところが新型コロナウィルスは比較的軽症であり、しかも症状があらわれないうちから感染が拡がってしまうため、拡大を止めるのが困難です。結果的には高齢者や基礎疾患のある人を中心に多大な被害を及ぼしています。「重症化し過ぎないぶん、制御しにくい」というところが憎らしいところです。
   また新型コロナウィルスは現代の医療システムの盲点をついています。医療システムのために、むしろ感染が拡がってしまう面があるのです。本来なら感染を止める場であるはずの病院の待合室や病棟で、どんどんうつっていきます。医療者にもこれといった対処法がないので、右往左往してしまいます。通常は病気を治しに行く病院で、逆に病気が広まってしまうとは逆説的です。
   さらにいわゆる先進国の大都市を中心に感染が拡がっていることも逆説的です。通常なら大都市ほど医師数が多く、医療体制が高度で充実していると考えます。ところが人口密度の高いところほど感染が拡大しやすく、一気に患者数が増えるので、逆に医療崩壊しやすいという不思議な状況になっています。これも「難しいケースほど、大都市の専門病院で」という通常の医療システムの流れと反対です。
   僕はいままで「感染症は現代ではほぼ制圧されている」と思ってきました。難しいケースはもちろんあるものの、精神科医療と比べると、ずっと対策が確立していると思ってきたのです。抗菌薬も種類が増えていきますし、衛生面も向上しています。少なくとも感染症対策の状況は悪化はしていかないとなんとなく思ってきました。
   ところが新型コロナウィルスへの対策をみていると、「外出を避ける」「社会的距離を取る」といった昔ながらのやり方です。急に何百年もさかのぼったような奇妙さを感じました。これだけ医療が進歩しているのに、いまだにウィルスに翻弄されるとは信じられないことです。
   そういった僕が漠然と持っていた考えが、大きな間違いであることに気づいたのは、ある新聞記事を読んだときでした。國井修さんのインタビュー記事です(朝日新聞2020年3月25日朝刊)。「世界エイズ・結核・マラリア対策基金(グローバルファンド)戦略投資効果局長」という立場で仕事をされており、エイズ・マラリア・結核の感染拡大を抑えるために医薬品や検査機器を提供しているそうです。衝撃的だったのは、この3つの感染症だけで世界で毎日7000人が亡くなっているということです。コロナウィルスも多大な被害をもたらしていますが、エイズ・マラリア・結核はずっと以前から深刻な被害をもたらし続けています。いずれも日本ではおおむね抑制されているので、日本の状況だけを見ていると、世界規模の問題を見過ごしてしまい、対策が遅れてしまいます。感染症は世界的にみると、全然抑制されてはいないのです。
   怖いのは、ほぼ確実に今後も新規の感染症が起こり続けることです。どこで読んだか忘れてしまったのですが、世界の人口が増え続けており、森林を切り開いたりしていることが、動物に感染しているウィルスが人に感染する背景にあるとのことです。なので人口爆発の問題が解消しない限り、新規の感染症のリスクも高まると考えられます。感染症単独の問題ではなく、人口問題が背景にあるのです。
   加えて大都市への人口集中の問題、先進国での高齢化の問題、気候変動の問題なども関連してきます。感染症というのは世界全体の状況を反映するものなのでしょう。現代は人の移動も世界規模ですので、どんな地域で起こった感染症も、世界的な大流行を起こす可能性があります。
   強く感じるのは、医学だけを学んでいるだけでは対抗できず、「地球学」とでもいうものが必要だということです。地球規模でのリスク管理についての学問です。「人間は自然のなかで生きているので、自然が変わると翻弄される」というのは古来変わらない真実なのでしょうが、科学技術が発達した現代においては、そのことを感じにくいです。でも考えてみれば、地震・サイクロン・バッタの大群・気温上昇・干ばつなど、制御が難しい地球環境の問題に僕たちは取り巻かれています。人類の叡知を結集して、「人類が生き延びていく方法」を探していく必要があるのでしょう。そして科学技術や現代文明の限界をもっと意識して生きていく必要があるのではないでしょうか。

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寺井治夫さんのこと 2020年4月21日(火)

   寺井治夫さんは僕の高校時代の国語の先生です。現代文・古文・漢文と習いましたが、授業には「寺井スタイル」がありました。授業は基本的に教科書ではなく、寺井さんが集めた名文のプリントを使います。それを年度が終わる頃に張り合わせ、冊子を作るのです。つまり授業を受けることと、自分の教科書を作ることが、並行しているのです。
   寺井さんに教わった教材たちは、いまも僕の本棚にあります。そのなかでいちばん僕の記憶に残っているのは、現代文の授業です。冊子『高校一年 現代国語 洛星高校38期生』(発行1993年1月8日、製本の欄には自分の名前を書くようになっている)を開いてみると、一般的な国語の教科書とは全然違う雰囲気があるのを感じます。というのは日本語の名文を集めただけではなく、日本語の限界に挑んだような文章が多いからです。哲学的に言語の基底を問うもの、言論弾圧に抵抗するもの、語りかけるスピーチ、日常動作のなかに染み込んだ日本語、翻訳文としての日本語、芸術性の高い小説群・・・。難しい文章を読みこなすためというよりも、言語表現の幅の広さや燃焼感を味わうような授業だったのでした。
   寺井さんは授業を通して生徒たちに何を伝えようとしたのでしょうか?答えは授業を受けた人それぞれでしょうが、僕の場合は「生きた思想」です。人は言葉を通して、その人にしか持ちえない志や生きざまを刻むことができます。といってもそのような密度の高い言葉が産まれることはまれで、長い時間をかけて、悪戦苦闘しながら産み出されるものです。寺井さんは生徒たちに、作者の生きるもがきに触れてもらい、何かを感じてもらいたかったのではないかと思うのです。
   そんな寺井さんから、手作りの冊子が届きました。冊子『水のよもやま話』(中村哲)です。これは医師としてだけでなく、干ばつの問題に立ち向かいパキスタンとアフガニスタンので辺境で活動した故・中村哲さん(1946〜2019)の文章の抜粋です。おもしろいのは中村哲さんが本や通信に書かれた活動報告ではなく、最晩年に書かれた水をめぐるエッセイを中心に編集されていることです。僕も哲さんの通信は読んでいましたが、哲さんたちの作った井戸・水路・堰によって緑の大地がよみがえったという記事にばかり注意が行き、エッセイの方にはあまり関心がいきませんでした。また哲さんと活動を共にした日本人、アフガニスタン人、活動を客観的に分析する人などが書いた、哲さんの活動を浮かび上がらせる文章もいくつか取り上げ
られています。
   意外だったのは、中村哲さんの生きざまが極めて濃厚に凝縮されていたことです。全体としては「辞世の句」のような、死期を予感したであろう哲さんが、知らず知らずのうちに書き記した、後世の人への言葉だと感じました。哲さんはさまざまな問題に立ち向かった人です。最初はパキスタンやアフガニスタンの辺境のハンセン病医療に始まり、辺境での一般診療活動、難民の支援、それから最後に干ばつ対策に取り組まれました。それらは直接的にはエッセイには書かれておらず、書かれているのは、水や河童や治水や歴史などについての哲さんの思うがままの連想です。およそ哲さんの本質からは遠いように思うのに、哲さんの人柄や人生の核心のようなものが表れているのです。
   エッセイという形式は、力が入っていてはだめで、軽やかに漂うような自由さが本質なのかもしれません。世界文学史の古典であるモンテーニュ(1533〜1592)の『エセー』も、引退後に思い付くままに書かれたものです。哲さんのエッセイも束縛なく書かれているからこそ、哲さんをよく表しているのかなと思いました。
    ところでなぜ寺井さんはこの手作り冊子を送ってくださったのでしょうか?特に理由はなく、自然発生的に好きな文章をパソコンに入力されていて、自然とできあがったそうです。僕が授業で教わった教材は寺井さんが仕事として作られたものですが、引退されたいまになっても作られた冊子が同じような形式なことに驚きます。好きな文章を書き写し、アンソロジー(文章の花輪)を作ることが、寺井さんの本質なのでしょう。
   またその人の仕事のいちばん美しい部分を集めることは、編集者の活動です。寺井さんは実は編集者だったのかもしれません。そういえば、初めてお会いしたときからどことなく「教師っぽくない」と感じてきました。言葉に魅せられ、美しい言葉の集まりを作りたいと思う人にとって、教師の仕事は悩みも多かったのではと思うのです。言葉の美しさに目を輝かせる生徒はほんの少しだけだからです。また保護者の希望も多くは受験に通るためのテクニックとしての勉強を教えることだからです。
  いまは寺井さんはもともとの文学少年に戻られたのかもしれません。そして寺井さんにとっての言葉の美しさとは、現実の問題に立ち向かい、現実を変えうる実践と一体のものなのでしょう。寺井さんの教え子の僕は、言葉と実践の両方を模索していくべきでしょう。いわゆる美文や机上の空論ではなく、地道な活動のなかからしみ出してくるような言葉。そこにこそ寺井さんの願いがあると感じるのです。

 

写真1  冊子『高校一年 現代国語 洛星高校38期生』(発行1993年1月8日、製本の欄には自分の名前を書くようになっている)。授業のプリントを張り合わせて作る手作りの教科書だ。

 

写真2   目次。多様な内容

 

写真3   手作り冊子『水のよもやま話』(中村哲)。最晩年のエッセイを中心に集められている。きわめて密度高く構成されたアンソロジーである。

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2020年4月日録1

4/1(水)   福岡県在住のOさんが訪問してくださった。吉本健三さんの友人で、健三さんを探してお休みどころのブログにたどり着いてくださったのだそうだ。健三さんは水上村でお休みどころを始めた当初から、家の整備や改修を助けてくださった恩人だ。納屋の改装の際にも手伝ってくださった。健三さんの妻の友子さんが2007年に亡くなられてからは交流がなくなってしまったので残念だ。でもこうして吉本さん夫妻のことを覚えている方がいる。人の果たした役割は、時間が経ってもまわりの人たちの心のなかに生き続けている。
4/2(木)   本来は滋賀県の両親宅に家族で帰るはずだったが、コロナウィルスの世界的な大流行で、自宅からの外出すら難しくなってしまった。そこで自宅でずっと過ごした。時間があると普段はしないことをしたくなる。「いつか時間があったらやってみれたら・・・」と思うだけできた自宅の掃除をすることにした。
   フローリングの拭きあげ、照明器具の掃除、台所やお風呂場の水垢取り、2階のベランダの掃き掃除・・・。やることがいくらでもあるから不思議だ。「この家って掃除をたくさんできるからいいね」と娘のやすみが手伝いながら言った。僕たちが住み始めたときにすでに築20年以上の借家で、そのぶん前に住んでいた人からの蓄積された汚れがある。掃除にエネルギーがいるが、それが子どもたちの教育になるのなら、ありがたいことだ。
4/8(水)   娘のやすみが始業式で久しぶりに登校した。コロナウィルスの大流行で熊本市内は休校を延長している。人吉ではいまは感染者は出ていないが、今後はどうなるかわからない。不安のあるなかでの登校だったが、帰ってくるとやすみはすごく喜んでいた。学校というのはさまざまな欠点を抱えながらも、やはり子どもの成長に必要なものなのだと感じた。僕は普段の診療で学校に行けない子たちと多く関わっているので、彼・彼女たちは学校という居場所がなくて苦しいだろうなとも感じた。さまざまな特性を持った子たちも楽しめる学校になるように、僕たちは工夫を惜しんではいけない。
   人吉市の認知症初期集中支援チームに参加した。認知症を中心とする高齢者の支援困難ケースについて協議する場だが、人吉市の場合には、地域包括支援センターを中心に、行政・警察・医療がうまくかみあっている。支援困難なケースというのは、何らかの意味で「1つの分野におさまりきらない」ところがあり、分野を越えてつながりながら支援できるかが成否を分ける。さまざまな意見が出るのを聞きながら、やりがいのある仕事だと感じた。
4/11(土)   精神科の急性期病棟の患者さんたちをみていると、昔からの典型的なケースは少ない。統合失調症・うつ病・双極性障害といった代表的な疾患については、ある程度治療法が確立してきているからだろう。ではどんなケースが入院になるかというと、おおむね以下の3つになる。ー栖気いくつも合併しており、病状が複雑である。行動上の問題などがあり、社会生活に困難さを抱えている。2搬嫁愀覆篝鍵蘊紊硫歛蠅大きく、対人関係などに支障をきたしている。つまり何らかの意味で「こじれている」ケースになる。精神科の入院治療も時代とともに移り変わっていく。いままで習ってきた医療だけでは通用せず、ひたすら手探りを続けていくしかない。

 

写真1   キッチンの水垢取りを競争してする子どもたち。

 

写真2   自宅のすぐそばの公園を散歩した。

 

写真3   やすみの登校。コロナウィルスの流行のために、わずか2日だけで休校に入った。

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2020年4月日録2

4/12(日)   人吉市の病院でコロナウィルス感染者が出た。しかも医師だったことから社会的なインパクトが大きく、僕の病院も一気に「蔓延予防」の体制になった。学校も保育園も休みになった。そして自宅でほとんどを過ごす生活になった。感染症が僕たちの生活を変える。日本をはじめアジアの国々はなぜか欧米と比べると死亡率が極端に低いが、それでも恐怖を感じた。何万人も亡くなっている国々では比較にならないほどの恐怖感だろう。感染症に限らないが、問題を早く認識して、早期に対策を打つことがいかに大事かを感じる。
4/14(火)   コロナウィルスの流行で自宅から出れない。なので自宅でできることとして、掃除を続けている。床下の保冷室の掃除、庭の花壇の形の変更、2階のベランダで水をまいてたまった埃を流す、自宅の外壁に水をかけて埃を洗い流すことなど、普段はできない大がかりな掃除や整理ができた。外出できなくなって感じることだが、自宅は僕の体のようなものであり、自分がいい状態でいるためには、自宅を整える必要がある。また過ごしやすく自宅を整えることで、よりリラックスして過ごすことができる。職場では常時緊張した状態になるので、自宅では逆にゆったりした状態を体感しておかないと、心身のバランスが崩れてしまうだろう。
   人吉市で「場外車券売場」の建設が計画されていた。これは他県の競輪やオートレースを画面に映し出して、来場者がお金を賭ける施設だ。精神科の現場にいると、ギャンブル問題を抱える人のケアに当たることがあるので、ギャンブルへのアクセスをなるべく社会的に規制してほしい思いがある。ただでさえ日本はパチンコ・スロットの規制が極端に甘く、ギャンブル大国と言われているのだから、これ以上増やしてほしくない。
   さまざまな人たちの努力で、幸いなことに白紙撤回になったそうだ。うれしいことだが、ギャンブル問題がなくなったわけではない。ギャンブル問題は破産・DV・自殺・虐待など社会的な問題につながりやすく、適度な規制について常に議論していく必要がある。インターネット上でのギャンブリングもますます増えているそうで、今後大きな問題になりそうだ。
4/19(日)   精神科以外の診療科で働いてきたスタッフと話すことがあるが、現代精神医学の限界を感じさせられる。それは「主な精神疾患について、異常を示す客観的な検査所見が、いまだに見つかっていない」ということだ。この問題の克服が長年ずっと精神科医療者の悲願であり、貧血の有無が採血検査でわかるように、精神疾患の有無も判定できるような検査所見が探され続けている。しかしいまだに全世界的に普及するレベルの検査はできあがっていない。てんかんは話が別で、脳波検査がある。認知症も将来的には検査が見つかりそうだ。発達症も一部には将来的には見つかる可能性がある。だが統合失調症、双極性障害、うつ病、不安症、依存症など、なかなか客観的な検査所見が開発されていない分野が精神科の中心なのも残念ながら事実だ。
   なので「ほんとうにこの疾患なのか?」「医師の思い込みではないか?」さらには「そもそもほんとうに精神疾患があるのか?」「疾患分類が根本的に間違っているのではないか?」といった疑問がいつまでも残ることになる。心理検査などで客観性を高めてはいるものの、精神科スタッフ自身にも、心のどこかに「自分たちのやっている医療活動がもしかして間違っているのではないか?」という疑念がある。精神疾患の基盤が微細な脳神経系の異常なので仕方がないことではあるのだが、はやく一般的な精神科病院でも使えるレベルの検査が開発されてほしい。 
4/22(水)   自宅のすぐそばに公園がある。公園といっても通常イメージするグラウンドや遊具のある公園とは違い、ため池の回りの散歩コースという感じだ。森の静かな気配を味わえる素敵な場所だと感じるのだが、なぜか不思議なくらい人がいない。ほとんど人と出会う心配がないので、コロナウィルス流行のさなかにあっても、家族でピクニックに出かけている。子どもたちは虫とりをする。僕はごみ拾いをする。春の風が強い。コロナウィルスの問題がなければ、気持ちのいい春の日だ。公園の一角のあずまやで美紗さんの作ってくれたお弁当を食べる。枯れ枝で子どもたちはちゃんばらをしていて、やめようとしない。世界で10万人以上が亡くなり続けている現実との落差にくらくらする。精神科医療の立場からアプローチできることがなくて残念だ。この大流行が過ぎ去ったあとになって、きっと精神科医療が必要とされる。そのときに備えて充電しよう。

 


写真4   床下の保冷所の掃除をした。

 

写真5   外壁に水をかけて埃を落とした。

 

写真6   自宅そばの公園でピクニックをした。

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2020年4月日録3

4/26(日)   日本精神神経学会のeラーニングで「人格主義医学倫理学の新たな展開 ー ヒポクラテスの医の倫理の現代化とグローバル化の最前線 ー 」(秋葉悦子)を観た。医療倫理の基盤についての内容だが、人間のなかにある善なるもの(道徳的な存在としての人間)への信頼を感じさせるものだった。現代は科学技術の発展が速いので、医療の学びもテクニック中心になりやすい。そして自然科学を重視し過ぎるあまり、人文学の伝統からかけはなれてしまいやすい。秋葉さんの講演は現代と伝統を結びつけるもので、お話を聞いていて、「医療は人間的であっていいんだ」とホッとした。もちろん医療者の悩みは尽きないのだが、科学技術と患者さんの尊厳のバランスを取ろうと悩み続けるのが、本来の医療者のあり方なのだろう。 
4/29(水)   尊敬する友人からバーベキューセットをいただいた。「コロナウィルスが流行している時期だから、自宅でバーベキューを楽しんでほしい」とのありがたいお気持ちだった。考えてみれば、庭さえあれば、たしかに自宅から出かけずにバーベキューはできる。どこかに出かけてするものだと思ってきたので意外だった。ただ子どもたちが好きなものしか食べないので、多量に食材が残る心配があった。ところが子どもたちは大興奮で、自分から準備や片付けを手伝い、肉類だけでなく野菜まで食べた。火を起こすことには原初的な喜びがある。外出自粛のいまだからこそ、庭のある人にはバーベキューが気持ちの切り替えに役立ちそうだ。

 

写真7   メダカの水槽の隣に、子どもたちが散歩のときに捕まえたおたまじゃくしの水槽を置いた。

 

写真8   風呂場のタイルの隙間をパテで補強するやすみ。

 

写真9   初めての庭でのバーベキュー。

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『入門 貧困論』を読む 2020年3月4日(水)

   子ども支援の活動をしていると、貧困の問題と必ずぶつかります。子どもの場合には精神疾患そのものだけではなくて、家庭環境や学校の状況など周囲の環境の影響を受けて状態が悪化することがあるのですが、うまくまわっていない家庭の背景には貧困の問題があることが多いのです。実際に貧困とネグレクトには相関があることがわかっているそうです。子どもの状態を安定させようとすると家庭環境の安定を目標にすることになり、家庭環境の安定を目指すとどうしても貧困問題の解決が必要になるのです。 
   以前子どもの学会(児童青年精神医学会)で貧困についてのシンポジウムに参加しましたが、何が大事なのかがもうひとつよくわからないままでした。貧困問題に取り組むためには、「貧困の核心とはこういうことだ」という自分なりの貧困観のようなものが必要だと思うのですが、視点の確立が全然できないままなのです。ですので貧困についての断片的な知識は増えても、肝心の統合して実践につなげていく力に欠けるままなのでした。
   1年半ほど前(2018年10月)の児童青年精神医学会の際に、会場で売られていた『入門 貧困論  ささえあう/たすけあう社会をつくるために』(著:金子充、2017年、明石書店)を手に取り、買いました。395ページもある分厚い本ですし、専門外の分野だとは思ったのですが、貧困問題に取り組むためには読むことが役に立つのではと感じたのです。
   たしかに含蓄があってとても役に立つ本でした。ですが読み進めるのはかなり大変でした。文章自体はわかりやすくつづられているのですが、「貧困および貧困支援の思想史」と呼べるような広範な内容が含まれていますので、読んでいるうちに自分が論理のどこにいるのかがわからなくなってくるのです。これはある意味では仕方のないこととも言えます。著者がしようとしていることはおそらく、「貧困支援の現場にいまから出ていく若者に、学問の厚みを背景に持つように伝えたい」ということではないかと思うからです。ですので実践の即戦力になる本ではありませんし、また純粋な理論書でもありません。実践と学問を結びたいという無茶な願いの結実なのです。
   それでは僕が受け取ったメッセージは何でしょうか?「貧困問題の支援は、意外にも精神科の地域支援と似ている」ということです。精神科の地域支援をしていると、医療システムと実際の支援ニーズの間にあるズレを感じずにはおれません。たとえば「地域でもっとも精神科支援を必要としている人は、もっとも精神科医療につながりにくい」といった矛盾がよくあるのです。ケースが多問題であればあるほど、「本人の自覚に乏しく、受診の手段やお金もない」「また内服管理は困難であり、継続的な通院もできない」ということになりがちなのです。ある意味では病院にきちんと行って、待ち時間を待つことができて、診察の際に病状を伝達でき、もらった薬をきちんと飲める人は、そもそも状態がいい人だとも言えます。そういった医療システムの流れに乗れない人たちこそ、ほんとうに地域支援を必要としている人たちなのです。
   貧困支援にも同じことが言えます。貧困対策の施策はさまざまに作られてきていますが、問題はその手が届かない人たちに何を届けられるかということです。どんなに政策を工夫してもすべての貧困問題を持つ人たちに手をさしのべることはできません。ですが「手の届かない人たちにも何かを届けたい」という視点から制度設計をするか、「制度に乗れないなどけしからん」という視点から取り組むかでは、天と地ほどの差が出てくるのです。

    残念ながらこの本を読む限りでは、日本の貧困支援は「寄り添えない人に寄り添おうとする」制度にはなっておらず、貧困問題を抱える人にスティグマを与えたり、「生活保護を受ける人たちはもらいすぎだ」といった議論に終始しているようです。「支援が難しいケースであればあるほど、早期からの支援を」という視点をなぜ持てないのか?という疑問の答えを、貧困論や公的扶助論という学問の歴史のなかに批判的に求めたのが、この本であるとも言えます。
   それでは「支援が必要な人にこそ支援が届かない」という矛盾の解消法はなんでしょうか?簡単な結論はないのですが、支援団体の規模に応じてそれぞれの強みを生かしていくということだと思います。小規模のヴォランティア団体や民間NPOなどは、機動性があって実験的に動きやすいのが長所です。ですので地域にある支援ニーズの発掘や、未確立分野での先進的な取り組みなどを行っていきやすいです。一方で公的な機関、特に政府となると、機動性は非常にありません。ですがいったん支援システムを作ると、その効果は絶大なものがあります。多くの人の幸せの土台作りをできる可能性があるのです。小規模な支援団体も、大規模な支援団体も、それぞれの視点や活動性を生かして、補い合いながら貧困支援にあたるというのが理想的な支援の在り方だと思います。
   学問と実践の関係も同じことです。実践者は現場で困っている人たちに直接恩恵をもたらしえますし、現場のニーズをつかむこともしやすいです。ただ独りよがりの支援に陥りやすいことも事実です。学問者は広い視点をもって問題を見ることができ、多角的に問題を探求することができます。その代わりに「学問のための学問」といった実践につながらない空理空論に堕してしまいやすいのです。学問と実践が互いに互いを刺激し合ってこそ、効果的な貧困支援が行えるのでしょう。
   この本では学問と実践、小規模団体と大規模団体の全部を語ろうとしているので、内容が見えにくくなっています。ですが一つの立場だけに偏っていないところが魅力でもあります。そしてさまざまな学説などを読んできたはずなのですが、読んだ後には問いばかりが残ります。自分なりに問えることこそ、著者が読者に持ってほしい能力だったのでしょう。貧困とは何かと言われても、全然わからないままなのですが、自分なりに論じたり考えたりはできそうな気がします。この本は書物というよりも、学習サークルに参加しているような読書体験を与えるのでした。大学教員である著者が、ゼミなどで学生さんたちと交わした無数の対話が、直接は書かれていませんが、結局はこの本の存在価値なのだと思います。普段の実践が本の背景にしみ込んでいるのですね。

 

写真1   『入門 貧困論  ささえあう/たすけあう社会をつくるために』(著:金子充、2017年、明石書店)。読み通すのは大変だが、その価値のある本だ。

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『愛着障害の克服』を読む 2020年3月17日(火)

   コロナウィルスの世界的な流行のために、講演会や地域の会議などが中止になり、外出も自由にはできなくなりました。最初は非常に歯がゆく窮屈に感じましたが、家でじっとしている時間が増えました。いままでは出歩き過ぎていたのかもしれません。子どもたちと過ごしたり、自宅の掃除をしたりができるようになりました。あわせてたまっていた本を読む時間も、少しは取れるようになりました。
   『愛着障害の克服』(著:岡田尊司、光文社、2016年)は、いつかは忘れてしまいましたが、人吉市のイオンの書店で買った本です。子どもの絵本を見に行ったときに、通りがかって手に取ったのでした。ちょうど子ども支援をどう進めていくか悩んでいたときであり、虐待などの愛着問題を抱える子どもにも関わっていましたから、買ってみたのでした。とはいえあまり期待していなかったというか、カバンに入れて持ち歩いて、暇なときに読んでいこうといったスタンスでした。
   ところがこの薄い本が、なかなか読み終われません。著者は精神科医をしながら作家もされているそうですが、文章はきわめて読みやすく書かれています。また同じテーマをいろいろな角度から検討するようなスタイルで書かれていますから、どちらかというと情報量に圧倒されるわけでもありません。スラスラと進めそうなのですが、内容が濃いのです。というか文章そのものに結論が書かれているというよりは、文章を通して大事な何かを指さすような方向性を提示する本なので、いつも言葉の先を見ながら読み進んでいく必要があるのです。
   また不思議なことに、内容にはおかしいと感じさせることはないのに、どこか窮屈さを感じさせる部分があります。読書の楽しみの1つは、読んでいるうちに湧いてきた違和感や疑問をあれこれ考えるところですが、この本には全面的に賛成するか、あるいは全面的に拒否するかを迫るようなところがあります。でも拒否するとして、それではどこがおかしいのかを指摘しようとすると、全くわからなくなります。そもそもこの本は論争的にできているのでしょう。文章はきわめて優しく平易なのですが、実は挑戦的で、現代の精神科医療全体を批判するような野心が背景にあると感じられます。
   この本のテーマを僕なりにまとめると、「人は人によって傷つくし、人とのつながりで癒されもする」となります。それは医療以前のあたりまえのことでありますが、とても奥の深いことでもあります。いつの時代にも人を癒す達人がいて、特に技法を使わなくても、その人の雰囲気や接し方で、悩み苦しむ人を救ってきました。そのような達人の姿は、なかなか原理や技法といったものにはなじまないところがありますが、著者はその輪郭を描こうとしているように思えます。
   またそういった「医療技術以前の人間的な関わり」が精神的な不調を抱える人のケアにおいて大事であることは、未来永劫変わらない真実なのでしょう。皮肉なことに、精神科医療が進歩すればするほど、ケアの原点は忘れられ、投薬を含む技術に走るようになります。ですのでますます原点回帰の重要性は増すのです。この本では新しい科学的データが多く使われていますが、指し示しているのは原初の精神科医療なのです。
   うろ覚えですが、「人間の内面にある太古からの記憶に、現代に失われた大事なものがある」といった考え方をロマン主義と呼ぶと読んだことがあります。僕の理解では著者の姿勢はロマン主義的であると思います。僕自身もロマン主義的な考え方が大好きで、それで自己形成をしてきました。ロマン主義は芸術を含む創造性と相性がいいですが、僕も創造的な生き方に憧れてきました。その思いはいまも変わりません。
   ですが一方で副作用もあります。思い付くままに列記してみます。ー膣囘な情緒を重視するために、治療効果を客観化するのが難しく、制度化がしづらい。技法を体得するという要素が強く、学習しづらい。7歃僂剖瓩ね彖任あるために、天性のセンスに大きく左右される。た識鵑膿脆訶な雰囲気があるために、それに酔って心酔してしまいやすい。ヌ椹悗垢發里何なのかがはっきりしていないために、効果判定が難しく、治療のゴールを設定しにくい。要は治療がアートに近くなりすぎるのです。
   僕もアーティスト的な治療の達人に憧れはします。ですが実務の場にいて感じることは、治療者に求められることはマメさと誠実さだということです。深遠な人間性はあまり求められません。患者さんのニーズをていねいに探し、細かく工夫してくれる人が、いちばん患者さんのほしい治療者像ではないでしょうか。
   また医療自体も自然科学の進歩とともに、どんどんマニュアル化されてきています。自然科学は「 誰にでも同じようにできて、同じように成果が上がりやすい治療法」を追求しますから、治療者の腕は昔ほど必要とされなくなっています。専門的な知識も、いまではインターネットの普及で簡単に調べることができるようになりました。ですので医師に求められるものも職人芸ではなく、話しやすさやサービスのきめ細かさに移りつつあるように思うのです。
   この本の良いところであり良くないところでもあるところは、著者の話術の巧みさのあまり、我を忘れてひきこまれてしまうことです。「この世の問題の全ては愛着の観点から解決される」とまで思えてきます。精神科の現場にいると、愛着の問題を抱える人と出会うことはありますが、愛着問題が前面に出てくる人は比較的少数です。ほとんどの患者さんは「病状の把握→検査→診断→治療」という流れで対応が可能であり、愛着の問題を大きく取り上げることまではしません。精神科スタッフは大なり小なり愛着問題への働きかけを無意識にしているものですが、あくまでも「隠し味」として働きかけており、通常の治療プロセスが主になるのです。
   この本では普段は隠れている愛着問題のケアに焦点が当てられていておもしろいのですが、それが治療の柱にまでなってしまうと混乱が生じます。何をもって客観的に治療の進展の度合いを測るのか、という指標に乏しいため、治療のほとんどは医師の裁量によることになってしまいます。ですが医師の独断に陥りやすいですから、トラブルに至るリスクは高くなるでしょう。治療が成功すればいいですが、失敗したときにも打てる他の治療法の選択肢にも乏しいです。多くの人が求めているのは、「劇的に効くかわりに副作用も強烈である治療法」よりも「作用はボチボチであるが副作用もマイルドである治療法」であり、医療の進歩もその方向で進んでいると思います。
   ただこの本が非常に内容の濃い優れた本であることは変わりません。思うに実務的で現実的な判断力のしっかりした人が読んで刺激を受けるのに適した本なのでしょう。さまざまなインスピレーションを与えてくれるはずです。僕のように現実性に乏しい人間が読むと、ますます常識から逸脱しやすくて良くないです。実務にはバランスが必要です。自分の精神がよりバランスを取れるようになることが読書の目的の1つでしょうから、自分が過激化するような本は避けた方がいいのでしょう。自分にとって原点に近い本なのに、素直に称賛できなくて残念です。自分を重ね合わせて読みすぎるのかもしれませんね。

 

写真1   『愛着障害の克服』(著:岡田尊司、光文社、2016年)。さまざまな読後感を抱かせる本だ。

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2020年3月日録1

3/3(火)   友人の旅館や食堂に出かけることがあったが、コロナウィルスの流行ですっかりお客さんがいないとのことだった。感染症が観光業や飲食業にもたらす破滅的な影響の大きさには驚くばかりだ。正直言って、「感染症はおおむね人類に制圧されている」と思ってきたし、感染症対策に学問的な興味を持ったこともなかった。感染症の歴史や人類との関係、苦闘のなかから生まれた対策、将来的な課題などまでを見渡せるような、専門家の方の本を読んでみたいと思った。
3/8(日)   鹿児島県さつま町にある「北薩広域公園」に友人家族の案内で出かけた。休校が続き子どもたちが鬱屈しているので、ストレスを発散させたい意味もあった。着いてみると意外にも人が多かった。「濃厚接触」にならないような環境で子どもを遊ばせたいと皆が思っているようだった。公園はとても広く、僕が知る最大級のアスレチックス(お城のイメージ)があったり、広場や遊具があったり、バンガローがあった。自由に創造的に遊べるときの子どもたちのパワーには圧倒される。見守ったり、子どもたちのスポーツなどの相手をしただけだったが、自分の運動にすごくなった。そうして普段頭から離れない仕事の「困ったこと」が、頭からいっときでも消えていることに気付いた。子どもたちもストレス発散が必要だが、いちばん必要だったのは僕自身だったのかもしれない。
3/10(火)   こころの相談を受けに、熊本市にある慈恵病院に出かけた。慈恵病院は赤ちゃんポストを設置している病院として名高いが、歴史的には私立のハンセン病療養所「待労院(たいろういん)」(1899〜2013年)から派生する形で始まったのだそうだ。待労院はカトリックのコール神父たちによって開設されたハンセン病療養所であり、シスターたちによって運営されてきた。ニーズに応じて身寄りのない赤ちゃんや高齢者、貧困者を受け入れる施設も開設されたそうだ。待労院には僕は一度行ったことがあり、シスターの方のお話を聞いて感激した。蓮田副院長と知り合ってときどきお手伝いするようになった慈恵病院だが、ここにもハンセン病とのつながりがあり、縁を感じた。
3/11(水)   友人の渡邉典子さんが届け物を持ってきてくださった。典子さんは大阪府から多良木町に移住してこられたが、すっかり地域に溶け込んでおられ、老人会の会長までされているそうだ。子ども食堂など地域支援の活動もされている。人柄を慕って、訪ねてくる人も多い。典子さんと会うと、いつどこにいても、活き活きと生きていけるんだと感じる。典子さんなりの生き方の芯があるからだろう。
3/13(金)   病院の同僚には辞めていく人もいる。辞め方にはまさにその人のしてきた生き方が表れる。祝福できることもあれば、ガッカリくることもある。仕事が優秀でも、生き方には反映されないこともある。終わり方は大事だ。人間性を見るには、終わり方まで見ないといけないのだろう。

 

写真1   あさぎり町にある「黒豚キッチンKUMAKURO おかどめ幸福駅店」。くま川鉄道が通ると子どもたちは興奮した。

 

写真2〜3はさつま町にある「北薩広域公園」で撮った写真です。


写真2   非常に大きなアスレチックスのお城がある。

 

写真3   アスレチックスを登りきったところからはさつま町が一望できる。

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2020年3月日録2

3/17(火)   人吉市の石野公園でピクニックをした。子どもたちを遊具やスポーツでたっぷり遊ばせたあとに、お昼ごはんを食べた。体を動かしたので、春の風が涼しく心地良かった。サッカーのリフティングやバレーボールなど、新しいチャレンジをできて子どもたちもうれしそうだった。コロナウィルス対策で自由に出歩くこともできないが、たまに出かける公園には平和がある。家族と過ごせる時間がなによりも貴重であり、生き方の中心をそこに置かないといけない。
3/18(水)   山形県に住まれている齋藤幸子さんは僕が尊敬する方だ。伴侶のたきちさんと長年果樹農家をされてきたが、最近たきちさんを看取られた。いままでのお疲れが出ているのではと心配していた。でもメールの文面を見ると、やはりいつもの聡明な幸子さんだった。どんな境遇でも光を見つけていかれる方だ。
   「こんばんは。おきのさま、皆様揃ってお元気でいらっしゃいますか。山形も 梅のつぼみが膨らんできました。今年は雪があまり降らなかったのですが、寒い日々でした。わたしの風邪もなかなか治らず、なおのことあたたかい春の日差しが待ちどおしいです。彼岸を迎えて沢山の彼岸を迎えて沢山のお花にかこまれて 太吉さんもニコニコしていますよ。こんな 時がくるのですね。家の前の川は光りながら流れ、軒下のすみれは咲きはじめました。眺めながらいつまでも美しい自然が守られるようにと願いつつ。ウィルス騒ぎのせつ、どうか皆様お健やかでありますように!!」。
3/22(日)   鹿児島市にあるフランス料理のレストラン「ミディ・ソレイユ」に美紗さんの両親と出かけた。同系列の隣のお店で、7年半前に僕たちの結婚披露宴をした。そのときに料理を担当してくださったのが店長の鎗水さんだ。以後何度も食事に来ているが、料理はもちろん、鎗水さんの飾らない人柄や丁寧な接客の姿勢に毎回感銘を受けてきた。いつも豊かな時間を味わわせてもらえるお店だ。
   ミディ・ソレイユを含む商業施設がなくなることになり、今回が最後の食事になってしまった。とても寂しいが、行ってみるといつものようにゆったりと時間を味わえた。料理をとても楽しんだのに、終わってみるとあまり覚えていない。ほんとうに満足してリラックスしている時間というのは、綿菓子のように味わうと消えてしまうものだと思う。
   今回気づいたのだが、豊かな時間は瞑想のようなもので、心身を調整してくれるのではないか。日々忙しさに追われてばかりいると、心が緊張した状態が定着してしまい、それが当たり前だと思ってしまう。力の抜けた安らぎを味わうことで、原点のようなものがわかる。普段はそこまでリラックスできなくても、心のバランスを意識していける。鎗水さんのお店は料理店としてすばらしいが、それだけでなく「お休みどころ」としての効果も持っていると思う。
   脳波についての入門書である『脳波判読step by step 「入門編」』(著:大熊輝雄・松岡洋夫・上野高志、医学書院、2006年第4版)をやっと読み終わった。医師になって最初の年に先輩医師から勧められて買った本だ。その後いくつかの部分を飛ばし飛ばしチビチビ読んではきたが、なかなか最後までたどり着けなかった。理解はともかく、いまやっと最後のページまでたどり着けたという状態だ。
   内容は丁寧にわかりやすく書いてあり、また脳波の例が非常に豊富に載せてある。普通に考えたら読み進みやすいはずだが、それがなかなか進まない。これは脳波の学習が車の運転のようなものだからだと思う。車を運転しない人が、運転のマニュアルを読んでも全くおもしろくない。またマニュアルを読み通すことが運転に必要なわけでもなく、困ったときに辞書のように参照すればいいだけだ。
   いま読み通せたのは、結局僕が脳波の判読をたくさんするようになったからだ。以前は知らなかったのだが、発達症の子どもには脳波の異常所見が非常に多く、てんかんの合併もしばしばだ。またてんかん治療によってかんしゃく・衝動行為・自殺企図・頑固な不眠・突発的な不安などが改善することも多い。いまでは毎週3〜4人ぐらいの脳波を判読している。
   やはり必要性があるからこそ勉強するし、必要性がないことはすぐに頭から抜けてしまう。勉強するには必要性を感じないといけないし、必要性を感じるには新しい課題に直面しないといけない。課題の発見がいかに大事かを改めて感じた。

 

写真4〜5は人吉市の石野公園で撮った写真です。


写真4   ピクニックをした。

 

写真5   やすみは遊具のいちばん上まで登ることができた。  

 

写真6   娘のやすみが絵を描いてくれたお皿。

 

写真7〜8は鹿児島市にあるフランス料理のレストラン「ミディ・ソレイユ」で撮った写真です。


写真7   商業施設がなくなるので閉店になってしまう。最後のお食事をした。店長の鎗水さんの接客にはいつも安らがせてもらえる。

 

写真8   響の5歳の誕生日の前祝いもできた。

 

写真9   『脳波判読step by step 「入門編」』(著:大熊輝雄・松岡洋夫・上野高志、医学書院、2006年第4版)。題名の通りに基礎から一歩一歩学べるが、内容があまりに豊富なため、脳波を実際に多数判読してみないと身に付いていかないところがある。読み物として読むのにはあまり適さない本だ。むしろ辞書的に使う方がいいと思う。

 

写真10   鹿児島県霧島市にある「国分城山公園」。遊具やゴーカートが充実していて、人が多かった。 

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2020年3月日録3

3/24(火)   息子の響が週に1回療育を受けている。普段は僕が仕事の日なので行けなかったが、この日はたまたま火曜日だったので初めていっしょに行くことができた。療育とは発達課題のある子どもの運動発達や精神発達の促進のためのアプローチを総称したものだが、保護者のケアや理解促進も守備範囲になっている。響がトランポリンやワニ歩き、ゲーム遊びや手の巧緻運動の練習に取り組んでいる間、僕はほとんど見ているだけだったが、「こうして響だけをジッと見ていることがなかったなぁ」と感じた。3人の子どもの1人としてしか、どうしても普段は見ない。響だけを見て、響が達成できたことをいっしょに喜ぶような時間が、大事なのだと思う。
   歯と歯の隙間に虫歯ができていることに気づいたので、かかりつけの歯科に行った。いつものことだが、サッと見立てが提示され、その対処が行われ、1、2回で診療が終わる。無駄な診療がひとつもなく、受診する側からすればとてもありがたい。だが一方で、「こんなに無駄なく診療して儲かるのだろうか?」と余計な心配をしてしまう。
   精神科分野でも僕はできるだけ無駄のない診療を心がけている。しかし大部分が慢性疾患であり、しかも治療は対症療法が多いので、精神科の通院患者はどうしても多くなる。現代の医療の限界なのだが、かかりつけの歯科のように、何回か通って診療が一段落に持っていけるような診療は、精神科では夢のまた夢だ。でもだからこそ診療報酬がある面もある。
   医療に関していちばん矛盾を感じるのは、「名医はサッと患者さんをよくするので、結果的に診療報酬が減る」ということだ。優秀な医師であればあるほど、見立てが適切なので、診療時間や回数は減り、診療の間隔も長くなる。社会的には医療費が削減されてすばらしいことだが、そうすることで経営的に圧迫されることもありえる。良心的な医療が経営的にも安定する仕組みが望ましいが、そこがとても難しい。「患者さんをいかに少ない社会的負担でよくしたか」という指標が開発されればと願う。 
3/25(水)   息子の響が危険生物にはまっており、10冊以上図鑑を持っている。危険生物の本は毒ヘビなどばかりを取り上げているのかと思ったが、絶滅危惧種なども取り上げてあり、人間と生き物の関係を考えさせられる。毒を持つセアカゴケグモやヒアリなど最近話題になる危険生物は、人間の手で遠隔地に運ばれて、そこで大きく増えている生き物だ。人間の移動によって危険が広まっている面があり、対策が難しい。世界では他にもさまざまな外来種が生態系を破壊しているそうだ。
   サバクトビバッタについては危険生物の図鑑で読んで知ってはいた。周期的に大発生して農作物を食べ尽くしてしまうバッタだ。まさか僕に降りかかる問題とは思っていなかったが、いままさに起こっているとネット上の記事で知った。アフリカ東北部で大発生して、中東からインドにまで移動してきているそうだ。このまま行くと、世界的な食料危機が起きることになる。早期対処が必要だったのだが、発生地のソマリアは内戦でズタズタになっており、対策を撃つのが難しいそうだ。
   コロナウィルスについてさまざまな記事を読むが、特に勉強になったのが、國井修さんのインタビュー記事だ(朝日新聞2020年3月25日朝刊)。「世界エイズ・結核・マラリア対策基金(グローバルファンド)戦略投資効果局長」という立場で仕事をされており、エイズ・マラリア・結核の感染拡大を抑えるために医薬品や検査機器を提供しているそうだ。衝撃的なのはこの3つの感染症だけで毎日7000人が亡くなっているということだ。コロナウィルスも多大な被害をもたらしているが、エイズ・マラリア・結核はずっと深刻な被害をもたらし続けている。いずれも日本ではおおむね抑制されているので、日本の状況だけを見ていると、世界規模の問題を見過ごして対策が遅れてしまう。気候変動・感染症・危険生物のいずれも国境に関係なく広がる問題であり、いつも世界全体に目配りしておく必要がある。
   子どもたちが運動できるように、鹿児島県霧島市の「国分城山公園」に出かけた。美紗さんがネット記事で見つけた公園で、行くのは初めてだったが、予想外に遊具やゴーカートが充実していて驚いた。子ども連れはもちろん、ピクニックに来ている大人も多かった。山の上にあるので解放感があり、快晴だったこともあって明るい気持ちになった。世界的にはどんどん悪化しているコロナウィルスの蔓延が、遠い現実に思われた。鬱屈するときには、広々した場所に行くのが役立つ。今回のウィルス流行で、公園の価値が見直されるのではないか。
3/29(日)   コロナウィルスの流行が拡大しており、熊本県でも外出自粛要請が出ている。自宅にいる時間が長くなったので、普段はできない掃除をすることにした。台所の油汚れ、ガラスについた落ちにくい汚れ、フローリングのくすみ、お風呂のカビや水垢など、汚れは掃除をすればするほど見つかる。掃除グッズを買ってきて、新しい汚れにチャレンジするのが楽しみになった。
   ところが僕が楽しそうにしていると、子どもたちは目ざとく見つける。普段なら娘のやすみは掃除を手伝いたがるが、子どもたちが競争のように手伝いたいと言うようになった。遊びとなると子どもたちのエネルギーはすごく、フローリングの拭きあげなど、子どもたちの勢いがあってやりきることができた。大人が楽しんでいることを子どもたちはしたがるので、僕たちが楽しみをいろいろ持っていること自体が教育になるのかもしれない。

 

写真11   自宅前の桜が咲いた。例年同様にきれいだが、コロナウィルス騒ぎが続いているので、ゆっくり眺める気になれない。

 

写真12   ところが子どもたちがお庭でお花見をしたがった。

 

写真13   フローリングの拭きあげを競争してする子どもたち。

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