お休みどころ

こころの相談活動を作り続ける
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相手から助けてもらうこと 2024年2月1日(木)

   「クルリと一回転して、元に戻った」。そう感じる対話があります。深く、広く、いままでに考え・感じ・話したことのないことを、語り合ったのに、不思議と余韻がないのです。たいていは違和感や重みや疲れなどを感じるのですが、それもないのです。より「自分が自分になった」という感覚だけなのです。
   これはおそらく、自分が治療をしてもらったのでしょう。相手の人は、トラウマ経験があり、また傷ついた人たちの気持ちを引き出すのに優れた方です。相手の方が、僕のなかにあった重荷を、逆に吸い取ってくれたのかもしれません。「精神科医じゃないんだから」と同僚に止められることが、以前あったそうです。
   考えてみれば、いままで僕のなかに、「自分が相手の重荷を引き受ける側」という思い込みがあったのかもしれません。たしかに一般的には、というかほとんどの場合には、その通りです。ですがトラウマ経験をした人とのやり取りでは、「どちらか一方だけが、相手のケアをする」という図式が崩れます。「相互的な、対等で入れ換え可能な、やり取り」というのが、治療の核心にあるのです。ですので、今回は治療がうまくいったということなのかもしれません。
   相手の方の人生の苦闘に共鳴はしましたが、その苦悩から出発して、いまは苦しんでいる人たちのことを社会的に発信することを、自分のライフワークにされていました。苦しみは昇華されているのです。僕のしたことは、そのことを祝福したことぐらいでした。苦しみを生きて活動する力に変えることは、すばらしいことだと思うのです。まさに昔の人が探し求めた「錬金術」です。
   これからはますます、僕はいろんな出会う人から教えてもらい、場合によっては癒してもらうのでしょう。自分がケアを提供するばかりではないのです。そして出会う人たちの活躍を、祝福していくのでしょう。自分が1人でジタバタする段階ではないのです。さまざまな人たちとつながり、教わりながら、その人たちの追い風になることが、いまからの僕の役割なのです。

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言葉との付き合い 2024年2月1日(木)

   人の精神的・心理的な状態は、なかなか客観的に数値化して把握するのが難しいです。主観というものは、どの程度客観性があるかは疑わしく、およそ客観的とは思えないような、まわりの見方とはズレた自己認識を持っている人も、よくいます。僕の自己認識も怪しいものです。人間の意識は、自分自身を外部からは把握できないのです。
   ですが自己認識があまりに現実と食い違っていると、生活に支障が生じる場合もあります。思っていたよりも大した成果を上げられずにふてくされてしまったり、自分がこなせる量をはるかに越える量の仕事を引き受けてしまったり、自分の勝手なこだわりでまわりの人に負担を与えてしまったり、などなどです。やはり等身大の自己認識を持っておくことは、生きやすさにつながるのです。
   どうすればいいのでしょうか?結論は簡単で、なるべくほかの人の意見を聞けばいいのです。ただ難しいのは、「僕のことをどう思いますか?」と尋ねてまわっても、自分の実像には近づけないというところです。自分の存在感や果たしている役割・自分の特徴などについて、人から率直な意見をもらえることはまれなのです。意図的に聞けるものではなく、ちょっとした立ち話や冗談・仕事の交渉ごと・対人トラブルの際などに、ポロッと漏れ出る程度なのです。
   ですので、いろんな人との交流が多いほど、自己認識の精度を高めるチャンスがあることになります。といっても相手が肩肘張らずに気楽に話しやすい雰囲気があってこそ、真実は漏れ出るものですから、そもそも柔らかい雰囲気を持っておかないといけません。それは難しいことです。
   人間は言葉が発達して、複雑な思考ができるようになり、過去や未来を見通せるようになったと言われます。ただ人間が言葉の発達とともに抱え込んでしまったのが、自己認識のズレなのかもしれません。具体的な事実を重ねていくばかりなら、そこまで極端な自己像は描けないと思うのですが、人間が言葉での思考が優位なために、事実とかけはなれた自己像を持ててしまうのです。
   かといって言葉を使わずに生きていくこともできません。ここに難しさがあります。言葉を使う限りは、思考や認識が現実とずれていきやすいのですが、言葉を使わないわけにもいかないのです。できる対策としては、1日のなかにわずかでも、言葉を使う以前の素の自分に戻ることがあります。瞑想などでしようとしていることは、それなのでしょう。自分の原点の自然な姿に戻って、言葉をいったんリセットするのです。
   言葉の力を生かしつつ、イメージの暴走も防ぎつつ、やじろべえのように生きていかないといけません。人間の大変さがあるわけですが、現実の自分をはるかに越えたイメージをもって活動できるのが、人間の良さでもあります。「全人類のために」など大きく考えることができ、それが信じられないほどの活動を成し遂げる推進力にもなるのです。言葉とのほどよい距離感を探していきましょう。

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幼児期に還る 2024年2月1日(木)

   子どもたちが小学校まで歩いていくのに、僕もついて行っています。そもそものきっかけは、子どもたちがなかなか朝に目が覚めないので、いっしょに近くを散歩したり走ったりしたことでした。それが発展して、毎日小学校まで歩くことになりました。2.3kmあり、徒歩で25分ほどかかります。
   その途中に子どもたちが、いろいろな話をします。長女のやすみは、最近は自分の友人と歩きたいといって、別の時間に行きますので、主に次女のしずくが話しています。内容はバラバラで、「動物クイズをして」とか、「間違ったら歩けて、正解したら止まるクイズをしようよ」とか、「カニさん歩きで競争しよう」とか、保育園のクラスの子どもの話などです。子どもは遊びを作り出すのが好きですが、しずくもいつも何かしら楽しいことを、考えつこうとしているのでした。
   今朝は「ダジャレをしよう」となりました。僕の勤務先である「人吉こころのホスピタル」に向かう途中には、
   
こころのホスピタルが
こんこん  こぎつね
ピタピタ  ピッタリ
   
   と言っていました。子どもの言葉のなかでは、言葉遊びと象徴と詩などが一体になっていると言われますが、ほんとうですね。飛躍した内容が、言葉の音の連想で、ツルツルと出てくるのでした。
   「子どものこころが世界を新たな目でとらえる」と言われるのも、これが理由なのかもしれません。論理的な思考も含みつつ、それが優位ではなく、音の響きやリズム、そしてイメージで思考しているのです。結果として、大人には思い付かないアイディアにつながるのでしょう。一見すると内容のない遊びなのかもしれませんが、よく見ると、真実の一端をとらえているのです。
   大人の世界では、イノベーションが求められています。そのためには、1度子どものこころに還って、世界を眺め直すことが必要です。おそらく多くの創造的な考えのもとには、作り出す人の幼児期の体験が含まれているはずです。普通に論理的に考えるだけでは、行き着かないような、大きな飛躍があるのです。自分の幼児期に還って、そこから言葉を汲み上げること。それを真の創造と呼んでいいのでしょう。

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内面と外面 2024年2月4日(日)

   春先は精神科がいちばん忙しくなる季節です。うつ病・双極性障害・統合失調症など、春と秋に悪化する精神疾患が多いのですが、特に春に悪化しやすい印象があります。ですので春先には、入院中の病棟の患者さんたちが、落ち着かなくなったり、トラブルが発生したり、落ち込んでしまったりが多くなります。また外来に通っていた患者さんが、状態悪化で急に受診されることも増えますし、入院になることも増えます。さらにいままで診療したことのない患者さんが、急に飛び込みで受診して、そのまま入院になることも増えるのです。
   ここ数週、自殺企図や深刻な暴力・てんかん発作などでの緊急受診が多くあり、大変です。そもそも普段から外来の受診枠がびっしり埋まってしまっていますので、そこに新規の方を受けるのには無理があるのです。ですが緊急事態では、そうは言っていられません。なんとか強引に診療にこぎつけるのでした。外来も病棟も、スタッフは通常業務に加えて突発事態に対応するのですが、やはり突発事態への対応は社会貢献になることですし、スタッフも全力で対応してくれます。それは精神科の医療機関が存在している社会的な意味の1つなのです。
   スタッフを見ていると、突発事態を好むというか、そういうときに普段以上に「頼りがいがあるなぁ」と感じさせる人がいます。動きが速いし、落ち着いているのです。これは人生経験によるとは限らず、性格の部分が大きいようです。若い人でも急な変化やトラブルに強い人がいますし、年配の人でも「パニくって」しまう人もいます。危機への耐性というか、未知の状況に踏み出す「飛び出し力」というものがあり、人によって違うのです。
   僕も飛び出し型の人間なのでしょう。だからなのか、急な対応が多く回ってきます。非常時の対応は、真面目できちんとスケジュール立てて対応したい人には向かず、多少めちゃめちゃでも、その場をどうにかしのぎたいような人に向くのです。結果的に、よりワクワクして仕事に向かえますので、僕にとってもありがたいことです。事件に遭遇しながら、力を付けていけるのです。
   一方で、やはり気力や体力は奪われます。また通常業務がさばけなくなります。診療そのものはいいのですが、書類作業がどんどんたまっていくのです。「もう業務が破綻する」と思って切迫感を感じていたのですが、なんとか昨日はどうにかなりました。
   ゆうべ遅く、寝ている間に、急に腹痛と吐き気に襲われました。僕は疲労がたまった際には、ときどきこのような状態になります。トイレにかけ込んでも、下痢なのか、吐いていいのか、わからないような状態です。だいたい10分〜20分ほどすると、多少は落ち着いてくるのですが、フラフラです。妻の美紗さんが介抱してくれ、また眠ることができました。
   内科に行っても異常なしですので、「疲れがたまって起きることなのかな?」ですませてきました。ですが僕が発達症の診療をするようになり、合併症である焦点てんかん(やそのグレーゾーン)をよく診療するようになってきて、自分にも当てはまるのではないかと思うようになりました。僕の危機を好む性質はADHDのものですし、疲労時の急な腹痛や吐き気は焦点てんかんの症状です。自分が日常的に診療していることが、自分にも当てはまるのです。ということは、対策もわかることになります。
   僕にとって精神科の支援や診療は、自分の本質を探ることにつながっています。意図的ではないのですが、出会う患者さんたちの健康や安心を目指してジタバタしていることは、結果的に自己理解につながり、より生きやすくなるのです。なぜそうなるのかが、わからないところなのですが、おそらく向いているのでしょう。自分が人々のためにできることをしていくと、やがて自分がわかっていくのです。
   自分の内と外に向かって同時に進んでいるような、こころの奥と社会的な活動がつながっているような、そんな感覚があります。普通は内面と外向きの振る舞いは別だと思うのですが、「なぞのリンク」があるのです。それはおそらくはいいことであり、自分が正しい「生きるべき道」を歩んでいることのサインなのでしょう。対社会的なことが内面の安定につながり、内面の充実感が仕事の質の向上につながるのです。そしてやがては内と外との区別がなくなり、ただ自分そのものが表されていくのです。

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未知の自分 2024年2月5日(火)

   「二重身(ドッペルゲンガー)」という言葉があります。不正確かもしれませんが、たしか自分自身がもう1人いる感覚のことを指しており、精神科的にはてんかんの症状とされていたかと思います。僕は肉体的な自分がもう1人いるとは感じないのですが、「具体的な世界を生きている日常的な自分」と、「精神的で表現や創造の源である自分」との間に、ズレがあるのかなと、感じるようになりました。精神的な自分の方は、「半分自分であって、半分自分でない」ような気がするのです。
   例えばこの文章も、普段の自分が書いているわけではありません。朝の起きたての「半分寝ているような、半分起きているような」状態の延長にあるときに、湧き出てくるままに書いています。できた文章は、普段の僕は忘れていて、後日読んでみると、「とても自分が書いたとは思えない」こともしばしばなのです。
   なぜこんなことが起きるのでしょうか?それは人間自体のなかに複数の次元があり、そのときそのときで、出てきているものが違うからなのではと思います。そして普段の自分は、日々の日常生活の積み上げに寄って立つ部分が大きく、精神的な自分の方は、おそらくは身体のなかに埋め込まれている、生物的な太古の記憶に寄るところが大きいのです。僕たちの身体のなかにも、実はいろいろな部分があるのでしょう。
   「自分が自分でないようなことをしてしまう」。この感覚は、他の場面でも味わうことがあります。例えば講演がうまくいくかが未知な状況で、予想もできなかった形で話が展開していったり、例えば治療をどう進めていっていいかわからない状況でのケース会議で、参加者の話が響き合って、いままで見えなかった全体像が現れてきたりするときです。普段の自分には答えが見えていなかったのに、もう1人の奥にいる自分が出てきて、まわりの人たちの力を引き出して、解決してしまった、ということがあるのです。
   僕たちの身体というか脳も含めた存在全体には、不思議な力が秘められているのでしょう。それは日常生活のなかでは目立っていませんが、ときに困ったような状況のなかで、出てくることがあるのです。といっても出てくる状況はごく限られており、人によって違うはずです。自分のなかの不思議な力が現れてきやすい活動を、その人の「天職」といったり、「やるべきこと」といったり、あるいは「生きがい」といったりするのでしょう。
   普通に生きているようで、実は精霊的(?)な自分がちょこちょこ現れてきている。そんな「ほとんど自分、ときどき自分でないみたい」な状態の方が、実は生き方のバランスが取れている状態と言えるのかもしれません。普段の自分ばかりで生活が一色になってしまうと、つまらないとは言いませんが、飛躍がなくて、常に予測が付いてしまうと思うのです。僕の場合にはADHDの特性上、飽きっぽいですので、生活のなかに予想を裏切る未知な状況がないと、おもしろくなくなってしまうのです。
   古代ギリシャの時代に口述で記録された、ホメロスの叙事詩『イリアス』のなかでも、戦争のシーンで、闘う個人のすぐそばに軍神アレスがやって来て、息を吹き込んで力付けた、といった場面がよくあります。古代の人にとって、普段は自分でも、ときどき「何かが降りてきて」、普段とは違う自分になるというのは、わざわざ説明を要さないアタリマエのことだったのかもしれません。現代の僕たちは、「自分」というものが統一されていると感じることに、おそらくはこだわり過ぎているのでしょう。
   ときどきしかないけど、自分でない存在の力を感じる。それは奇妙なようではありますが、ワクワクすることでもあります。普段の人生には変化が少ないですから、逆に言えば、貴重な楽しみや冒険感と言えるかもしれません。世の中には超人的なエネルギーで創造的な活動をする人がいますが、その人たちは実は「自分でないものが出てくる意外感」を楽しみのもとにして、そのエネルギーで活動しているかもしれないのです。
   大人になってしまうと、責任感ばかり重くなって、ワクワクすることが少ないですが、未知の自分が顔を出してくるのをおもしろがりながら、ワクワクして生きていければと思います。それは僕にとっては小さいころの虫捕りのおもしろさだったり、レゴブロックを作り進めていく意外感だったり、他の子との遊びに夢中になる没入感だったりと、おなじものなのです。大人のなかにある子どものこころを生きるというのは、未知の自分と遊ぶことを指しているのでしょう。自分の年齢を忘れて、「子ども帰り」ができるのです。

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産山村での授業 2024年2月7日(水)

   「横隔膜(おうかくまく、diaphragm)」は呼吸をするための膜状の筋肉で、たしか肋骨の下にあります。手足の筋肉のように、その存在を意識することはありませんが、横隔膜が働くことで、深い呼吸をすることにつながり、リラックスしたり、神経の高ぶりを静めたりすることにつながります。目には見えないけども、大事な働きをしている「縁の下の力持ち」です。
   横隔膜のように、気持ちに新しい風を吹き込み、よどみや緊張を取り去ってくれるのが、新しいチャレンジです。自分が普段慣れ親しんだ活動から外れた、いままで未知のことに取り組むときは、おずおずと、ぎこちなく進むことになります。ですがその「ぎこちなさ」に価値があり、普段は使わない身体や感覚や思考を、フルに活用しているのです。それが結果的に、日常の活動にも新鮮味を与え、時間を生き生きとさせるのです。
   僕にとっての「自分の専門外だけど、取り組んでいること」の1つが、小中学校での授業です。「中学校で子どもたちへの精神科的な授業をしてほしい」という依頼を受けたのは、もう8年前の2015年にさかのぼります。あさぎり町のM保健師さん、そして相良村(さがらむら)のO保健師さんからのご依頼でした。
   その意図は、次のようなことでした。あさぎり町は5つの町村が合併してできた町であり、小学校は5つあります。ですが中学校は1つにまとめられました。小規模な小学校から、進学すると急に大規模な中学校に通うことになり、環境の変化がストレスになって、学校で過ごしにくくなる子どもたちがいるので、そのサポートをお願いしたい、ということだったのです。M保健師さんはさまざまな分野で新たな取り組みを始めてきた方ですが、臨床的な観察力に優れておられ、「さすが、すばらしい提案をされる」と思いました。
   そうして始まった中学校での授業なのですが、なにせ「ひな型」がありません。授業の内容も手作りです。たしか最初は、「精神的に行き詰まったときのSOSの出し方」から始まったと思います。その後、山江村(やまえむら)・人吉市・湯前町(ゆのまえまち)・五木村(いつきむら)などの小中学校で、先生方からの依頼に合わせて内容を変化させていき、中学生にはストレス対処と思春期によくみられる精神科的な不調、小学生にはゲーム依存、という内容が固まっていきました。年齢によって関心のある内容や理解力が違い、子どもたちの食い付きが違うのです。
   さまざまな学校で授業をしましたが、継続的に授業の依頼があるのは、五木村や山江村です。そのニーズは次のようなことです。五木村は人口が1100人ほど、山江村も人口が3300人ほどの小さな村で、中学校は地元にあるものの、高校は離れたところにあります。自宅から通いで行く子もいれば、寮に入る子もいます。いままでは保育園からほぼ同じメンバーで、学年1クラスで「なじみの仲間たち」と過ごしてきており、また学校全体の子どもたちともほぼ知り合いで、さらには地域の人たちにも知り合いが多い環境です。そういった「なじみの環境」から急に離れて、知り合いのいない環境に出ていくときに、ストレスを感じやすいので、サポートがいる、というのです。
   これとほぼ同じニーズでご依頼いただいたのが、産山村(うぶやまむら)です。産山村は地理的には僕の住んでいる人吉市からかなり遠く、同じ熊本県内ですが、140kmほどあり、車で2時間半ほどかかります。山間地であり、人口は1400人ほどです。産山学園はたしか県内初の小規模な小中一貫の公立校です。役場福祉課のTさんからご依頼いただいたときには驚いたのですが、熊本県内で学校で授業をする精神科医がいなかったそうです。僕は大変に光栄なことだと思い、2021年に喜んでいきました。
   それからもう3年になります。途中新型コロナウイルスの流行で授業ができない年もありました。役場福祉課の担当者もKさんに変わりました。それでも続いています。今日の授業は2限取ってくださっているので、講義型の授業に加えてグループワークもできます。
   毎年出かける度に感じることですが、授業をやるまでは、どう進むのかはわかりません。ですが授業が終わると、とても幸せな気持ちになります。子どもたちのこころに触れることができるからです。子どもから大人へと変わっていく不安や、いまから新しい世界に出ていくためらいなどと共に、若々しいはしゃぎっぷりや、成長していくエネルギーがあります。やはり子どもの勢いというものはすばらしく、人生で二度と得られないような輝きがあります。その輝きを生かして、得意なことや関心があることを、大いに伸ばしてほしいです。
   教育活動は狭い意味では僕の専門外ですが、広い意味では精神科的な予防活動になります。ストレスや精神疾患の問題に関心を持ってもらえれば、いざ窮地に立ったときに、少しでも早く限界を自覚して、相談先を探せるかもしれません。また普段からリラックス法を探しておけば、苦しい状況を切り抜ける力になるかもしれません。これから苦闘していく子どもたちのことを、僕の立ち位置から、少しでも後押しできればと思います。それはより良い未来を作ってもらうことに、やがてはつながることなのです。

 

写真1   阿蘇の道の駅で、阿蘇高校の生徒のプロデュースした「あか牛のトーストサンド」を食べた。
 

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集団の力 2024年2月8日(木)

   「集団療法」という言葉があります。精神科的な治療は、基本的には個別のものですが、集団で活動しながら、病気について学んだり、社会的なリハビリテーションを受けたりすることも多いのです。特に作業療法やデイケア・SSTなどが、よく行われます。
   集団療法には特有の難しさがあり、個別の治療とは異なります。最大のポイントは、「集団が、バランスを取って、まとまっていられるか」というところです。これが当たり前のようでいて、意外と大変なのです。
   理由としては、集団を強く揺すぶる力が、働きやすいことがあります。参加者には何らかの内的な感情がありますが、それらが集まると、極端に増幅されることがあるのです。例えば対人緊張であったり、内に秘めた恐怖感であったり、はたまた社会への怒りであったり、立ち直れないほどのトラウマ体験を経ての無力感であったり。これらが嵐のようにワッと膨れ上がります。その結果、誰かへの攻撃になったり、無意味感から集団が解体したり、互いの相互不信が激しくなったりするのです。
   この極端な力は、普段は目立っているわけではないのですが、あるタイミングで激しくなります。そこではこの「否定的な感情の集まり」を鎮める必要があるわけですが、その鎮め方は前もっては予測がつきません。1つ言えるのは、こういう場面を多く経験してきている人が多い方が、うまくいきやすいということです。誰しも吹き荒れる感情の渦に巻き込まれてしまうわけですが、そこから離れることにも、ある程度は慣れの要素があるのです。
   ここを切り抜けると、逆に集団のプラスの力が働き始めます。例えば参加者が相互に助け合ったり、みんなで共有できるヴィジョンが出てきたり、各自が新しいアイディアを出し合ったり、といったことです。不思議なのですが、いったんそうなると、参加者どおしで互いに互いを支え合って、回復していきます。スタッフは「ただ見守っているだけでいい」状態になります。個人個人での回復を越えた、集団での回復力が働くのです。まるで発酵のプロセスのようです。
   こういうわけで、集団は諸刃の剣と言えます。破壊に働く力も大きいけれど、回復に働く力も大きいのです。この大きな力をコントロールできればいいのですが、意図的なコントロールだけではおさまりません。いつしか各自の深い感情が掘り起こされます。そして誰しもトラウマ的な体験を経てきており、そこが刺激されると、冷静ではいられなくなるのです。これを何回も経験しながら、感情面の整理が進んでいるスタッフが多い方が、うまくいきやすいのです。
   精神科スタッフには経験が大事だと、昔から言われています。こういった「感情面での巻き込まれ体験」をどのくらい経験してきているかが、いざというときの、「揺れながらも一線を越えないように、踏みとどまる力」になるのです。スポーツのイメージで言えば、相撲に近いのかもしれません。土俵際で踏みとどまるバランス感覚と内的な倫理性が、危機においては集団を救い、集団が本来持っていた力を引き出すのです。

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配慮のあるわがまま 2024年2月9日(金)

  「自分で自分の生活をコントロールできない」と、最近よく感じています。例えば仕事についても、春先は業務が多くなり、ギリギリでこなしている状態です。休日の地域支援などでも、予定が2ヶ月は埋まっていて、新しいことを入れ込むすき間がありません。家庭的には特に多忙ということではないのですが、子どもたちはあっという間に大きくなってしまい、家族で過ごせる期間にも限りがありますので、「いまのうちにもっと時間が取れたら」と思ってしまいます。
   「あれもしたい、これもしないといけない」と、頭のなかでせめぎあっている状態です。そのせめぎあいに対して、以前はもっと「こうしよう」と結論を出せていたように思うのですが、いまは「わからない」で止まってしまいます。たしかに実際にやりながらその都度その都度考えていくしかなく、予定が立たないのです。
   もともと僕は計画立てて事を進めるのが苦手です。瞬間瞬間の直感やひらめきで動くときに、生き生きするのです。ですので、「ますます生き方が自分に合ったものになってきた」というだけなのかもしれません。「毎日が未知」というのが、僕にはベストなのです。変化やハプニングが、小さなものでもいいので、何かないと、「ワクワク感」が薄れてしまうのです。
   自分の持って生まれた性質は変えることができず、逆に生き方や人生を自分の性質に合わせてきているのでしょう。勝手と言えば勝手ですが、自分が最大のパフォーマンスを発揮するには、自分に合った生き方にしていく方がいいのです。もちろん他者に迷惑をかける形ではいけませんが、そうでない範囲でなら、自由に生きていいのです。
   同じせめぎあいでも、同じ苦労でも、自分に合った生き方のなかでの方が、耐えやすいはずです。ストレスへの耐性も、強まるのでしょう。「生き方に無理がない」というのは、かなり強力なことです。周囲への配慮のある「わがまま」と、言えるかもしれません。
   僕の頭に浮かぶのは、精神科の師である神田橋條治さんのことです。神田橋さんの持論は、「自分の資質に合わせて、環境を変えることが、精神的な自己治癒力を高める」というものでした。僕はそこに違和感を持ってきました。結局のところ単なるわがままであり、周囲に迷惑をかけるだけだと思えたからです。ですが僕の考えは浅かったのですね。やはり「周囲への配慮があるようなわがまま」というものがあり、たしかにそれは自己治癒力を高め、また生き方の充実度も高め、まわりの人を助ける活動までも最大限に高めてくれるのです。

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怒りについて 2024年2月11日(日)

   怒りは、本来なら無い方がいいものです。コントロールが難しく、勢いにまかせて言いすぎたりして、後味が悪いです。また冷静に相手の意見を聞くこともできなくなります。ですが抑えるべきだとわかっているのに、それでも怒ってしまうことがあるのです。
   怒りについては、どう考えるべきなのでしょうか?より強く「抑制していくべきもの」ととらえるのか?それとも何らかの必須の存在意義があるものととらえるのか?どう受け取っていいのか困惑します。ですが長い生命の進化の過程で、無くならずに残ってきた以上、何らかの合理的で肯定的な意味合いがあるのでしょう。
   精神科的な視点から言うと、怒りは「距離を取るべき人」との関わりで、特に役立ちます。明らかに理不尽な要求をしてくる人や、自分のやるべきことを人に押し付けてくる人、自分の権限を越えた命令をしてくる人など、こちらが怒らないと適切な距離を取れない人も、なかにはいるのです。DVのケースなどで、まるで相手から「寄生虫のようにたかられている」のに、距離が取れないで苦しんでいる人をみることがありますが、背景には「怒りを爆発させることができないこと」があることが多いです。怒りにはNoを言ったり、対人距離を調整したりする機能があるのでしょう。
   また芸術表現の面からは、怒りは作品にダイナミズムを持ち込みます。普通の穏やかな気持ちからはとても導き出されないような、ある種の激しさや荒々しさも、芸術の分野では必要なのです。そして狭い意味での芸術だけでなく、普段のスピーチや文章や立ち居振舞いなどにも、多少の乱れがある方が、刺激があっていいこともあります。完全に穏やかだと、まわりの人に、「どことなくもの足りなく」感じさせてしまうような面も、人間にはあるのです。怒りもまた「人間らしさ」の一部なのです。
   さらに社会的な創造のプロセスにおいては、ある種の怒りが不可欠でもあります。社会の仕組みが持つひずみやいびつさの結果、困っていたり苦しんでいたりしている人たちを前にして、もしも冷静でばかりいれるのなら、進歩はしないでしょう。「これはおかしいんじゃないか?」という違和感を、じっくりと育てあげてこそ、新しい変革へのアイディアは生まれます。そこには何らかの抗議や怒りがあるのです。もちろんあくまでも怒りは原動力に過ぎず、粘り強く、いい意味で「しつこい」ような関わりが、求められます。
   怒りは、行きすぎると、暴力への引き金になります。基本的には抑制すべきものです。ですが単に抑え込めばいいというだけではなく、何かを生み出すエネルギーとして活用した方がいいものでもあります。それは「粗削りだがエネルギッシュな、創造の発端」につながるものです。そしてそこから新しい思想や文化や発見が、生まれていくのです。

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自由について 2024年2月12日(月)

   「自由」とは何なのでしょうか?普通に考えれば、「強制されていることがない」とか、「好きなことをできる」といった意味だと思います。ですが自由という言葉には深みがあり、さらに広がりがあるのです。例えば「1人1人ができるだけ自由に生きられるように、社会的不利をなくし、より平和で平等な世界を作っていく」というように、平和や平等などの理想にも、つながっていくのです。
   精神的な意味での自由はどうでしょうか?こちらはよりややこしく、何をもって自由とするかの定義が難しくなります。本人が「自由だなぁ・・・」と感じていることを指すわけですが、どんなときに自由を感じるかは、人によりさまざまだと思うのです。例えば、経済的な自由があっても、だからといってその人が自由の感覚を感じているとは限りません。また圧政からの解放をもってしても、その人が自由を感じているとは言いきれないのです。
   外部からの強制の排除は、自由を感じるために、必要なものです。一方で、すごく困難な状況でありながらも、自由の感覚を感じて生きている人もいます。僕が思い出すのは、詩人の島田等(しまだ ひとし、1926〜1996)さんです。ハンセン病になり、社会的自由のほとんど全てを奪われて迫害された島田さんでしたが、強制的に住まされた島のなかで、自由の境地があることを発見し、詩に残しました。この場合には、社会的な自由とは質の違う、「精神的な自由」というものがあるのだとわかります。
   おそらく人間が社会的に完全に自由になることは、難しいのでしょう。経済的にも、労働の面でも、自然環境の面でも心配のない状況であり、さらに人間関係でも自由であり、そして思考や発言においても完全に自由である。そんな世界は理想的ですが、あくまでも理想であって、「無限に遠いけど、少しずつでも、現実をそこに近づけようとする目標」だと思うのです。そうすると、実社会では、誰の人生にも、何らかの不自由が付きまとうことになります。
   さらにもし仮に社会的・自然的・人間関係的な自由があったとしても、退屈さや「やることがない」不自由さが付きまとうかもしれません。追いたてられない時間は、逆にダラダラと過ごしてしまう、といったことはよく聞きます。人間には、強制の排除だけでなく、適度な負荷も必要であり、なかなか完全な自由は手に入らないのです。
   島田さんのような人は、どこから自由を手に入れたのでしょうか?それはそもそもが「手に入れるもの」ではなく、不意にやってくる感覚なのでしょう。またこの世界を変えようとする前に、まずはいま自分が生きていることや、自分が置かれている環境を受け入れ、そこに生きようとしているような状態なのでしょう。当たり前のことのようですが、実は僕たちは、自分の頭やこころにある「理想の人生」のイメージばかりを追っていて、いまある人生に目を向けていないところがあるのです。「あれをああする、これをこうする」と考えることに忙しくて、いま目の前にある世界をじっと眺めることを、実はしていなかったりするのです。
   この「いま自分が生きていることを、無心に眺める」ということがベースにあると、やることもこの無心から自然に生じた自発的なものになります。せかせかとせき立てられるようにすることばかりではなく、フワッと始まる流動性の高い生き方になるのです。あるいは、それに少し近づくのです。
   この無心がどこから来るのかとなると、またややこしい話になり、結論から言うと、よくわからないのではと思います。おそらくは人間にもともと備わったものなのでしょうが、通常の人生で自由の感覚を感じることが、そう多くはないことを考えると、特殊な脳の回路なのかもしれません。いずれにしても、脳の深みにあり、簡単には触れることができず、さまざまな悪戦苦闘の果てに感じられることもありうる、といったことのようです。
   精神科スタッフとしては、支援する相手に、できるだけ病気からの影響の少ない状態になってもらいたいと考えます。その場合に、病気を抑えることには、限界がありますので、その人なりの自由を感じてもらいたいのです。ですがこれがなかなか難しく、どうサポートしていいのかもわかりません。自由の出てくる場面は、おそらくは個人差が非常に大きく、一般化して言えることは少ないのでしょう。
   ただ1つ言えることがあるとするなら、その人が、「その人にしか生きられない人生を生きている」と感じることが、自由の感覚に近いということです。僕たちの人生は、本来は1人1人違い、個性的なものであるはずです。ですが僕たちは普段は自分が完全に個性的な道を進んでいるとは感じておらず、むしろ「ありきたりで、代わり映えのしない人生だ」と、よく感じています。ですが実際には、その人ならではの1回きりの人生であり、そこを感じてもらえたら、少しだけでも自由の感覚に近づいてもらえると思うのです。
   別の言葉で言えば、その人の潜在可能性が引き出されるとき、自由の感覚に近づきます。同じようなことですが、本来は僕たちは1人1人が違い、「持っている可能性が表れた姿」も、全く違うはずです。ですが僕たちは逆に自分を「流行している型」にはめてしまうところがあるのでしょう。「その人らしさ」が出てくるほど、自由の感覚に近づくのです。
   つまり精神科スタッフのやるべきことは、その人らしさを味わい、感じて、それを言葉や行動で返していく、ということになります。その人が本来持っている良さやおもしろさ・風変わりなところや弱点など、その人の個性を見つけていくのです。そうすると、その人の資質がより発揮され、生き方の無理がより少なくなり、結果的に自由の感覚に近づくのです。
 ここまで考えてくると、精神的な自由とは、「自分の本来の姿でいられること」だということになります。もともと備わった資質を、存分に発揮して、自分を「外部から与えられた型」に押し込めないことです。ところがこれが難しく、人間には高度な知性があるぶん、おそらくは自分を社会的な鋳型に押し込めてしまいやすいのでしょう。知性の持つ負の面と言えるのかもしれませんね。知性には自由をもたらす面もあり、自由を妨げる面もあるのです。

『お休みどころ』通信 | permalink | comments(0) | - | - | -