お休みどころ

こころの相談活動を作り続ける
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『てんかん学ハンドブック』を読む 2020年6月3日(水)

   「てんかん」は代表的な神経疾患の1つです。症状としてはけいれんが有名ですが、他にもさまざまな症状が出現します。世界的には現代では神経内科や脳神経外科が中心になって診療していますが、かつては精神科が診療していました。日本はこの「精神科がてんかんを診療する伝統」が現代にも生きている唯一の国だと聞いたことがあります。
   てんかんの患者さんが外来に来られるので、精神科医になった当初からてんかんには関心を持ってきました。ただ患者さんの数が多くはなく、また診療内容も「けいれんを薬で抑えればいい」というだけのイメージでしたので、興味が深まることはありませんでした。精神科のなかでは「たまに診るぐらいで、他の精神科疾患に比べると重要性は低い」と感じていたのです。
   そんな気持ちが大きく変わるきっかけは、発達症の診療に携わることになったことです。子どもでも成人でも同じなのですが、発達症にはさまざまな精神疾患が合併することがあります。うつ病や双極性障害、不安症、不眠症、摂食障害、依存症、統合失調症など精神疾患の多くが起こりえます。ですがその疾患の枠組みだけでは理解できないようなかんしゃく・食欲低下・頑固な不眠・非定型的な気分変動・非定型的な幻覚妄想・突発的な自殺企図などが起こってくるのです。
   精神科医としては当然ながら精神疾患を診断することで患者さんの状態を把握しようとします。診断が成功すれば、患者さんの現状だけでなく、いままでの経過やこれから起こりうる問題なども見えてくるものなのです。ところが発達症の人たちに二次的に起こってくる問題については、全然先が読めませんでした。急な病状の変化に翻弄されたり、いくら投薬しても改善がみられなかったりして、無力感を抱くことがしばしばでした。そもそも正確に診断できないような状態の患者さんが多かったのです。
    児童思春期の入院治療を始めてからも同じような状況で、暴力行為が続いて改善がみられないケース・病状が複雑で診断をうまくつけられないケース・気分の落ち込みや自殺行動がやまないケース・不眠が改善しないケースなどが多かったです。外来でもなかなか良くならない患者さんが多く、診療時間が長くかかって、患者さんが診察までに2〜3時間待たされてしまうようなことも起こりました。タンタンと流れに乗って診療していくことができなかったのです。
   そのようにして全然改善せずに何度も入退院を繰り返すケースに対して試行錯誤するうちに、問題の背景にてんかんがあるのではと思うようになりました。あまりけいれんを起こさないてんかん(側頭葉てんかんなど)が発達症に合併し、そこからかんしゃくや不眠や食欲低下や自殺行動などが起こってきていると考えられるのです。また脳波検査をしても異常所見があるケースが非常に多く、さらに抗てんかん薬で症状が落ち着くケースがとても多いです。このようにして僕の入院治療にも外来治療にも流れができてきました。秩序が見えてきたのです。
   いまになって考えてみると、発達症とてんかんの関係の深さは昔から知られていました。知的発達症については病状が重くなるごとにてんかんの合併率が上がることが以前から知られています。また自閉スペクトラム症の重症の方についても3割といった高率にてんかんの合併があるとされています。ですので当たり前と言えば当たり前なのですが、,茲蠏攵匹僻達症の方にも合併がよくあること、△韻い譴鵑鬚たさない焦点てんかんが多いこと、の2点になかなか気づかなかったのです。
   そのようにしててんかんを意識してみると、他の精神疾患の改善がみられないケースについても、背景のてんかんを見落としていることが多いのではと思えてきました。うつ病・双極性障害・統合失調症・不安症・解離症など実に多くの精神疾患にてんかんが関連していることがあるのです。いまでは困難事例を見た時に探る要因として、ヾ超や社会背景の問題、⊃祐峇愀犬箘γ紊量簑蝓△塙腓錣擦董↓1れているてんかん、がないかを疑ってみるのが日常になりました。
   学会でもてんかんのセッションに参加したり、てんかんに関する本を読むようになりました。そんななかで僕に感動を与えてくれたのが、『てんかん学ハンドブック 第4版』(著:兼本浩祐、医学書院、2018年)です。著者の兼本さんのことは学会のeラーニングで講演を視聴したりして知っていました。複雑な物事に対して、スパッと考え方の原理や自分なりの視点を提示される方で、気持ちのよさがあります。
   『てんかん学ハンドブック』は徹底的に臨床家に寄り添った本です。研究者としての厳密性よりも、診療の現場ですぐに役立つ実践知の提供を目指しています。ですのでてんかんについての体系的な知識を網羅してあるというよりも、ー分なりに診断して治療の見通しを立てるための知識、患者さんや家族に説明できるためのわかりやすい考え方、専門家に判断を仰いだ方がいいケースの見分け方、などが示されています。この3つがわかれば、診療していくうえでの怖さは大幅に減るのです。
   僕からすると、非常に頼りになる博士が同伴してくれているような感じです。迷ってもこの本を見ると、たいていのことには方針が示してくれてあるのです。あるいは冒険するための地図のような感じです。それがあれば大きな間違いは犯さずに進んでいけるのです。
   さらに文学的なおもしろさまであります。自然科学の本というのはデータの羅列になりやすく、無味乾燥だと感じさせることが多いです。ところがこの本には生きて血が脈打っているような感じがあります。さらにどのページにも読みごたえがあるのです。これは著者の文筆力のなせる業で、読者はいつのまにか「実践現場に著者といっしょにいるような気持ち」になっています。臨場感があるのです。
   精神疾患というのは大部分が慢性疾患であり、簡単には治らず、だらだらと再発を繰り返すものが多いです。また社会的な影響が大きく、病気のために就労がうまくできなかったり、家族関係が悪化したり、社会的に孤立したりといったことがしばしば起こります。自殺や犯罪といった甚大な結果をもたらすことすらあるのです。ですので精神科関係者は無力感を抱いたり、治療にモチベーションを持てなくなったり、自分たちのやっていることに自信が持てなくなったりしやすいです。
   そのようななかでも、率直かつ誠実にできることをやっていこう呼びかけがこの本にはあります。てんかんはタイプにもよりますが、発達症に伴いやすい「年齢非依存性焦点てんかん群」では、症状が消失するのは半数以下というものも多いです。患者さんはなんらかの意味で症状を抱えながら生きていくことになります。それはとても大変なことで、医師としても責任を大きく感じるところです。
   それでもできることをやっていくことには意味があります。仮に状態が大きく改善しないとしても、寄り添って改善をはかり続けるだけでも患者さんや家族の支えになることがあるのです。「限界はあっても、出来る限りのことをする」という姿勢を持ち続けられることが大事です。
   『てんかん学ハンドブック』には、多くの治療困難事例に寄り添ったうえで、さらに前向きな姿勢を持ちうることが示されています。自分の治療がうまくいかずに責められることがあっても、限界を提示して謝ることも含めて、治療です。現代医療の限界のなかで、「相手のためになるとは?」を模索することが診療の意味であり、その模索を助けてくれるのが『てんかん学ハンドブック』だと思います。

 

写真1   『てんかん学ハンドブック 第4版』(著:兼本浩祐、医学書院、2018年)。実践家の手元で役立つことが目指されており、非常にわかりやすい。さらにてんかん診療から見た人間学といった文学的な深みもある。

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2020年6月日録1

6/1(月)   メチルフェニデート徐放製剤というADHD治療薬を僕はよく処方している。日本で最初に承認されたADHDの薬であり、十分な効果(特に眠気を覚ます覚醒作用)があり、しかも飲んだその日に効くという速効性があるので、患者さんも手応えを感じやすい。副作用も食欲低下などあるが、比較的軽い。治療薬としては非常に優秀なのだが、有効成分が覚醒剤にやや近いという難点がある。メチルフェニデート徐放製剤そのものは安全にできており、依存性もほぼないのだが、乱用や闇での売買などがあったらしく、規制が強化された。医師は本人確認をしたり、処方をオンラインで登録したりしないといけない。このような事務的な作業は僕のもっとも苦手とするところだが、「その限界を越えないといけない」と同僚に諭された。たしかに医師の役割は患者さんの苦しみに寄り添うことだけではなく、行政官に近いような社会制度の遂行も含む。たとえ自分が苦手なことでも、社会的な役割なのでやらないといけない。
   子どもたちが成長してきて少し時間の余裕ができたので、美紗さんが人吉市のプールの体験に出かけた。インストラクターの指導のもとで、水中で歩いたり体操したりすることが中心だが、美紗さんがすごく生き生きしているのが、遠くから見ているだけでもわかった。定期的な運動の習慣が美紗さんにはなかったが、今後は心身の健康のためにも必要だ。僕自身も朝の簡単なトレーニングはしているものの、体を動かす機会を作らないといけない。気持ちだけでは健康にはなれず、肉体の活動を含む生活に切り換えないといけない。
6/2(火)   市町村のこころの相談・お休みどころへの訪問相談・電話での相談が1日にあった。それぞれのメリットとデメリットがある。市町村のこころの相談は、保健師さんが困難事例をあげてくださるので、多問題で支援の手が入りにくいケースに有効だ。一方で人手や予算が準備がいる。お休みどころの相談はどこにつないでいいかわかりにくいケースや、精神科受診の前段階のアセスメントのために有効だ。一方で自宅で相談を受けることもあり、困難事例が受けにくいことや、件数をこなせないことが弱点としてある。電話での相談はもっとも便利で手軽だが、声だけでのやり取りのために表情やしぐさなどが見られない。なので複雑なケースを分析したり、支援方針を探したりするのには向いていない。精神科では検査データが少ないぶん、他の医療以上に「言葉以外のその人の様子」がデータとなるので、直接会って話すことが必要になる。以上をまとめると、地域社会にはさまざまな相談ルートがあった方がいいと思う。
6/4(木)   職場の健診で人間ドックを受けた。健診はたくさんの受診者が病院に押し寄せ、流れ作業のような形で検査を受けていく。以前は「自分の意思と関わりなく流れに乗せられる」という窮屈感でイライラしていたが、今回は「指示されたことさえしていけば、あとはボーッとしていられる」という気持ちで過ごし、待ち時間に休息できた。最後の結果説明では、「あなたは長生きしますよ。だから生きる意味を考えておいてください」というアドバイス(?)をいただいた。病気の可能性ばかりを指摘される健診でおよそ聞きそうにないアドバイスで、聞いた直後はビックリした。でも考えてみれば、現代は長寿社会になっており、生きる意味をどこに見いだすかが最大の課題なのだろう。深いアドバイスだと後から思い直した。

 

写真1   花火をしていると虫がいた。

 

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2020年6月日録2

6/7(日)   息子の響は動物が好きで、たくさんの図鑑を持っている。最近大好きになったのが、『角川まんが科学シリーズ どっちが強い!?   〇〇vs〇〇』(ストーリー:スライウム、メングなど。まんが:ブラックインクチームなど、発行:KADOKAWA)というシリーズ本だ。最初に買ったのは「クモvsハチ」だったが、「ヘビvsワニ」「トラvsライオン」などいくつもある。子ども向けの冒険まんがでありながら、動物学的なデータが豊富に含まれており、専門書と一般書の両面を持っている。僕の小さい頃には動物が羅列してある辞書的な図鑑が多かったと思うが、現在ではテーマを設定した読みもののようなものが増えている。動物のデータそのものはインターネットの検索で比較的簡単に得られるので、より参加型で読書体験を重視する図鑑が増えてきているのだろう。 
6/9(火)   頭部外傷や脳の手術、低酸素状態などで高次脳機能障害になった人の支援に関わってきたが、本人の意欲低下が強くて支援が行き詰まることがよくある。脳のダメージに基づく意欲低下なので、効果的な薬もほとんどない(考えてみれば精神科の薬は鎮静系が多く、意欲を高める薬は少ない)。引きこもりや臥床がちの生活が続くと、廃用症候群になって社会生活の機能が低下していく。かといって通所や日中活動を勧めても、拒否されることが多い。「通院そのものがリハビリになるのでは?」と支援者に教えてもらって合点がいった。たしかに僕の外来にも「引きこもりは改善しないけど、外来通院はできている」という方が何人もいる。通院すること自体もリハビリテーションの一環なのだ。
6/10(水)   人吉球磨にはほたるの名所が多い。同僚から「ほたるを見に行きました」と聞いていた。また別の同僚からも聞き、さらに近所の方からも聞いた。そこで遅ればせながら僕たちも行ってみることにした。
   ところが20時頃に相良村のほたるの名所に着いてみると、横なぐりの雨が降っていた。これは無理だと判断して、人吉市に引き返すことにした。子どもたちがガッカリしているので、「かわりにかき氷でも食べに行こう」と言った。
   人吉市に着いてみると、娘のやすみがシクシク泣いている。どうしてもほたるが見たいとのことだった。「雨の日には光らないんだよ」と言っても変わらなかった。「レインコートを着せて、見せたらいいよ」と美紗さんも言うので、再度相良村に引き返すことになった。
   ほたるの名所に着くと、やはり雨は降っていた。ほたるを見にきた人たちが次々に引き返していた。それでも歩いていくと、せせらぎに沿ってチラリホラリとほたるが光っている。ほたるはあまり人を怖がらないようだし、手に取っても光り続けてくれる。子どもたちは非常に喜んだ。簡単にほたるを見れなかったぶん、よけいに嬉しかったのだろう。
   ところで冷静に見てみると、ほたるの光というのは、あるようなないような、「存在と非存在の間」にあるものだ。真っ暗な道沿いにほたるが光っていると、「あの世」に迎えられている感じがする。あまり長時間見いってはいけない気がした。年に1回ぐらいだけ、そっとのぞき見るくらいがちょうどいいのだろう。

 

写真2   『角川まんが科学シリーズA1 どっちが強い!? ライオンvsトラ 陸の最強王者バトル』(ストーリー:スライウム、メング。まんが:ブラックインクチーム、発行:KADOKAWA、2016年)。冒険物語と動物図鑑が融合しており、年齢を問わず楽しめる。

 

写真3   温泉からの帰り道、歩いて帰った。水を張られたばかりの田んぼではカエルの鳴き声がすごい。

 

写真4   朝に娘のやすみを送ったあと、子どもたちと近くを散歩する。梅雨なのでジメジメしている。

 


写真5   美紗さんの新しい金魚水槽が届いた。広い方が金魚たちものびのびしている。

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2020年6月日録3

6/16(火)   知的発達症を持つ子どもたちの入所施設の健診に行った。多くの子どもたちは年々成長し落ち着いてきているが、不安定さや衝動的な行動が激しくなっていく子どもも一部いる。「年齢と共に落ち着いていく不安定さ」と「年齢と共に悪化していく不安定さ」をどうやって見分けて、早期にケアをするかが大事なポイントだ。以前はさっぱりわからなかったが、てんかんの有無が状況を大きく左右することがわかってきた。早いうちからてんかんの徴候に注意し、脳波を行って診断確定していくことが大事だ。
6/17(水)   友人にオクラやゴーヤの苗をいただいた。プランターで育てることを勧められたので、美紗さんとホームセンターに出かけた。ホームセンターでは安価で土や砂利や肥料が手に入る。農家の方や園芸を楽しむ人が多いのだろう。自宅に戻り、子どもたちといっしょに苗を植えつけた。オクラの苗が余ったので、裏庭の一角に植えることにした。もともと畑だった場所なので、土がフカフカだ。わが家ではいまでは生き物をたくさん(金魚・メダカ・カエル・おたまじゃくし・クワガタ・ダンゴムシ)飼っているが、オクラやゴーヤも仲間に加わった。大家族(?)のような気分だ。
6/21(日)   小学2年の娘のやすみが持って帰ってきた宿題に、なぞなぞがあった。それがとても難しい。例えば「逆さにして、アイロンをかけたら消えてしまう鳥は?」。アイロンをかけたら消えるのはシワで、逆さまにするとワシ、だから答えはワシだ。なぞなぞの問題というのは連想ゲームと語呂遊びが組合わさっている。どちらも僕は苦手だったが、「物事を角度を変えて見てみる」というメタ認知の訓練になる。いまの自分の見方にこだわっていてはダメで、「違った解釈や考え方があるのでは?」と考え続ける必要がある。なぞなぞは奥が深いし、掘り下げれば脳の象徴機能につながる。
6/24(水)   友人のパティシエ・鳥原真琴さんがあさぎり町で「をかし屋・トゴエル」を開業している。美紗さんと寄ってみた。やって来るお客さんの人柄や人生を知り、相手の望んでいるものにお菓子作りを通して応えようとする「物語を紡ぐお菓子」というのが真琴さんの理想に見える。たしかにお菓子はホッとした一瞬を作ることで、人をくつろがせたり楽しませたりすることができる。真琴さんのお姉さんもおられたのでいっしょに話したが、「2人とも欲のない人だ」と美紗さんは言う。たしかに富や名声・華やかな暮らしなどを求めているようには全然見えない。だが自分の潜在力を発揮したいという自己実現の欲求は2人とも激しいものがある。パティシエは表面の姿で、内面は求道者のようだと感じた。 
6/25(木)   同僚や友人と話すときに、時々だが「まだ本来のその人の姿ではない」と感じることがある。トラウマや対人関係の苦労など何らかの外力が積み重なって、持っている力が抑え込まれていたりねじれていたりするようだ。そういうときに、「その人の花開いた姿は何だろう?」と考えるようになった。考えるといっても頭でわかることではなくて、何げないやり取りのなかで、いつの間にか「その人のあるべき姿」を、共同で実演してしまっていることが多い。急ぎすぎず、「その人の小さな未来の芽」をすくいあげることが大事なのではないか。 
6/28(日)   久しぶりに熊本県の遊園地「グリーンランド」に出かけた。前日が警報が出るような激しい雨で、悪天候を心配したが、当日はなぜか晴れていた(逆に晴れて暑くなりすぎて脱水予防が大変だった)。コロナウィルスの流行で人が少ないかと思ったが、以前ほどではないものの、お客さんは多かった。外出制限が解除されたこともあり、解放感を感じている人が多いのだろう。グリーンランドは比較的古風な遊園地であり、ジェットコースターやゴーカート、迷路やトランポリンのように屋外で体を使うタイプの遊具が多い。子どもたちには遊びだが、大人には全身の筋肉トレーニングになる。遊びを追求すると、「冒険を通じての成長や健康増進」に行き着く。年々子どもたちが成長して、新しいアトラクションに取り組めるようになっているので、グリーンランドをより広く感じている。いずれは子どもたちだけで来るようになるのだろう。

 

写真6   いただいたオクラとゴーヤの苗を植え付けた。

 

写真7   裏庭にも余った苗を植えた。土がフカフカだった。

 

写真8   大きなツチガエル2匹を捕まえて喜ぶ子どもたち。

 

 

写真9   父の日に子どもたちが本のしおりを作ってくれた。

 

写真10   人吉市にある「レストラン正鈴」。お店の前に船があるが、海産物に限らずいろいろ食べられる。あたたかみを感じる。

 

写真11   あさぎり町にある「をかし屋・トゴエル」。友人の鳥原真琴さんが運営している。お客さんの求めるものに応えるお菓子屋さんとは?原点を探ろうとしている。

 

写真12   熊本県の遊園地「グリーンランド」にて。宇宙空間をテーマにした新アトラクション「コズミック・メイズ」に何度も子どもたちは入った。

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精神科的な健康法について 2020年5月1日(金)

   僕の友人の佐藤さんは大変に活動的な方です。建設業の会社を運営されていますが、斬新なアプローチをいくつも取り入れています。コンサルタントに学んでの安全の徹底、地域住民への説明の徹底、デザインの視点の取り入れ、マーケティングの観点からの考察など、あげだしたらきりがないくらいです。佐藤さんのすごさはそこにとどまらず、人吉球磨の地域活性化にもライフワークとしてボランティアで取り組んでおられます。美的なカフェを運営されたり、地域の伝統工芸品を現代的にアレンジして販売されたり、自主ブランドの立ち上げを構想したり・・・。その1つの結実として、人吉球磨で唯一の官民合同ブランドが立ち上がりました。「人吉・球磨   祈りの浄化町」です。
   以下は佐藤さんの依頼でそのホームページに書いた文章です(少し加筆しています)。地域活性化にはその地域の歴史や独自性を取り出す必要がありますが、佐藤さんは独自のアプローチで試みています。やや独特(?)ではありますが、応援していきたいです。


精神科的な健康法について

   精神科で働いていると、「精神的な健康法は何ですか?」と尋ねられることがあります。ところがこれがなかなかないのです。精神科の分野に相談に来られる方は、基本的には精神疾患を持つ人です。ですので精神疾患の悪化を防いだり、治療したり、再発を予防したりするノウハウは豊富にあります。ですが精神疾患を持っていない人が、精神疾患になりにくくする方法というのは、実はほとんどわかっていないのです。
   適切で規則正しい食事、十分な睡眠、定期的な運動の習慣、過度なストレスを避けること。こういったことが健康にいいことはわかりますが、これは精神疾患に限りません。誰でも知っている当たり前なことで、しかも実行は非常に難しいです。もう少し精神科の現場から発信できる実用的な健康法はないのかと思ってきました。以下に僕が自分の経験のなかから大事だと思うことをまとめてみます。
ー分に合ったリラックス法を見つける
   現代は心理的なストレスが多い時代だと言われます。人間にとって非常に便利な科学技術が、逆に人間を心理的に忙しくして、脳の疲労をひき起こしているのは皮肉なことです。ですので現代に生きる我々は自分の脳に休んでもらう方法を見つける必要があります。
   ですが人間の精神面は肉体面に比べて、人それぞれの違いが大きく、一概にこれがいいと言いにくいのが難しいところです。自分に合ったリラックス法を探さないといけません。音楽を聞く・絵を描く・運動をする・ストレッチをする・アロマを楽しむ・小物を作る・料理する・掃除する・瞑想する・バーベキューをする・・・。方法は無数にあります。一般論はなく、あくまでも自分が楽しんで続けられるやり方を見つけることが大事です。例えば僕は読書がもともと好きですが、家の掃除が好きなことも最近わかりました。掃除しているときには無心になっていろいろ考えないので、気持ちの切り替えにいいのです。
⊆分に合った生き方を見つける
   ストレスを減らすためには、自分に合った生き方を見つけることも役立ちます。誰でも自分の得意なことや、苦手なことがあります。得意なところを生活や仕事に活かせれば、心が生き生きしますし、苦手なことばかり求められると苦しくなります。自分が何を得意なのかをつかめると、生きやすくなる面があります。
   ですがこれも個人差が極めて大きいので、一般論を立てにくいのが難しいところです。僕の精神科の師匠は、患者さんが小さい頃にどんな遊びをしていたかを診察のなかで尋ねていました。遊びのなかにその人の強みが表れているというのです。僕も自分の診療経験から、「子どもの頃から好きなこと」を尋ねるのが役立つと考えています。子どもは知らないうちに自分が楽しいことを見つけているのでしょう。
人生経験豊富な人と話してみる
   ストレス軽減のためには自分の特徴を見抜くことが大事なのですが、これが実はとても難しいです。他人のことなら簡単にわかるのに、自分のことはなかなかわかりません。そこで人生経験豊富な人と話すことがお勧めです。教えられることが多いですし、知らず知らずのうちに自分の長所を引き出してもらえることがあります。ですがいい先輩や友人に恵まれるとは限らず、間違ったアドバイスをする人と出会うこともあるのが難しいところです。
た瓦僚について
   人生のなかでは心の傷を受けることもあります。幼少期の不遇な家庭環境、学校でのいじめ、恋人や伴侶からの暴力、災害などの非常事態など、心の傷を受ける状況や年代はさまざまです。多くは時間の経過のなかで傷は薄らいでいきますが、なかにはあとあとまで後遺症を残す場合もあります。
   このような心の傷については、いまのところ薬だけでの改善は難しいです。あくまでも一般論ですが、原則として人から受けた傷は人との関わりのなかで癒されます。過去は変えられないのですが、いい人間関係を経験することで、過去との向き合い方が変わってきます。信頼できる仲間とくつろいだ時間を過ごせることが、心の回復に大事だと思います。
ス圓詰まったら
   人生のなかには不幸や行き詰まることがあります。そのときにはどうすればいいのでしょうか?病気の症状が出てくれば精神科にご相談いただきたいのですが、病気にならない方が大部分だと思います。経験からお勧めできるのは、普段行かないところに行ったり、普段会わない人に会ってみることです。
   大きくみると、行き詰まるときは変化のチャンスでもあることが多いです。ですが我々は目の前の苦しさにばかり目がいってしまい、視野が狭くなりやすいです。打開のヒントを見つけるためには、いかに視野を広く取るかが大事なのですが、それが難しいです。普段と違う場や違う相手となら、新鮮な目で見たり考えたりしやすくなります。あえて違ったことをしてみるのが役立ちます。 
ι畸覆らできること
   普段から人生の危機に備えてできることはないのでしょうか?偉そうな言い方で恐縮ですが、人のためになることを探してみるのが役立つと思っています。仕事でもボランティアでも趣味の活動でもいいのですが、人に喜ばれることは、なぜか心を生き生きさせます。また人の役に立つ活動をしていると、自然と同じような志を持つ人だったり、尊敬できる人との出会いが多くなるものです。人とのつながりが多くなると、困ったときに助けてもらえる仲間を持てます。それがいちばん危機への備えになると思うのです。

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『逆転移1』を読む 2020年5月25日(月)

   精神科を学び始めた初期の頃に、師匠である神田橋條治さんの著作に出てきた『逆転移 1〜3』(著:ハロルド・F・サールズ、みずず書房、1991年)を読みました。内容はほとんど忘れてしまったのですが、子どもには「親の心の傷を癒したい」という無意識の願望があることや、それがうまくいかなくて子どもが傷ついていくこと、患者さんにも同じような「治療者を一人前に成熟させたい」といった無意識の思いがありうることなどが印象に残りました。通常思いつかないような変わった考え方だと思ったのです。
   「逆転移」とは、治療者が患者さんと関わるなかで生じる自分の心の揺れを許容し、その揺れ方を自覚するなかで、逆に患者さんの抑圧した心情が見えてくる、という治療上の技法を指します。読んでわかるとおり、高度に内面的な話ですし、客観的な指標に欠けますので、なかなか実践するのは難しいです。僕も一時期はすごく興味を持ったのですが、ずっと忘れていました。
   ところが患者さんの治療に苦しめられるなかで、『逆転移』のことを、ふと思い出したのです。虐待を受けた子どもや、家族機能がうまく働いていない家庭に育った子どもは、さまざまなストレスをずっと抱えてきており、屈折しています。まずもって「治療の目標に向かっていっしょに進んでいく」という協力関係を作ることが難しく、病院スタッフへの挑発的な言動がみられることもよくあります。さらに子どもと家族とが協働して、いつのまにか病院スタッフを悪者に仕立てて、両方から責め立てることもあるのです。まさにそんな責め立てを受けている渦中で、『逆転移』のことを思い出したのでした。
   思い出すことには何らかの意味があるはずです。『逆転移1』を再度読んでみました。この本には治療者のスタンスの変化が描かれているのですが、僕にも当てはまるように思えました。
   通常は治療者は自分のスタンスなどわざわざ意識しません。病気に苦しむ患者さんの改善をはかったり、苦悩の軽減をはかったりすることが役割です。仮に患者さんに悪い面があったとしても、なるべくそれを見ないようにしますし、非難するようなことは考えません。現実的には無理であっても、「無私」に近いような気持ちで病状の改善のためにできることはないかを考えます。
   このような通常の治療スタンスでほとんどの場面には対応できるのですが、患者さんとの治療関係が濃くなっていくと、そればかりでは対応できないような局面が出てきます。患者さんの持つ負の側面を率直に指摘することが必要になったり、少し怒りながら意見のぶつかりを恐れずに「対決」することが求められることもあるのです。そのような局面では、まじめな治療者のスタンスにこだわってしまっては前進せず、治療者の縛りを取り払って、自由に感じたり表明したりできることが大事です。あくまでも例外的ではありますが、少し厳しいスタンスを取ることが必要なこともあるのです。
   このように普段自分が当たり前と思っている見方や感じ方を、少し変えてみないといけないことがあります。『逆転移』には、その苦労や、治療的な効果が、よく描かれています。そして読んでいくうちに、「患者さんや家族は、僕自身の心のこわばった部分を突き崩すために、あえて試してくれている」と思えてくるのです。
   精神科医の仕事には、特殊なところがあります。それは肉体的な負担はほとんどないのに、感情的には大きく巻き込まれて疲労するというところです。興奮する患者さんの気持ちを静めないといけない場面が多いせいか、感情表現がしだいに薄くなっていく人が多いように思います。感情を出してはいけないからなのか、感情機能が疲れてしまうからなのかはわかりませんが、心の弾力性があまり感じられない人が多いところがあります。
   ところがトラウマを持つ患者さんの治療では、そんな「無感情」的なスタンスを保っておけなくなるのです。さまざまなこちらを試す言動に対応していくなかで、いつの間にかこちらも冷静でいられなくなります。言葉になりにくいもやもやした不満感や、不燃感、イライラした「うまくいっていない」感じなどを感じてきます。また治療がうまくいっていない恥ずかしさや無力感、自分自身やスタッフへの失望などが出てきます。こういった負の感情が心に渦巻くことに慣れていればいいのですが、医療者は良くも悪くもまじめな人が多く、戸惑ってしまうのです。『逆転移』にはそんなこちらの心の揺れを包んで肯定してくれる力があります。
   結局のところ、人間の抱くどんな感情にも絶対的な悪はなく、また絶対的な善もないのでしょう。妬み、恨み、怒り、虚無感、絶望、やけくそ、狡猾、ずるさ、といった通常は負の感情として扱われるものも、やはり人間の心を構成する大事な一部であって、全面的にではなくても少しだけ感じることは必要なことがあるのです。精神科医の役割は、絶対的な善人になることではなく、患者さんが抱くさまざまな感情の乱れに対して、距離を保ちながら付き添うことです。ですのでいわゆる悪を排除することではなく、「同調はできないながらも、どこか共感できる」という気持ちを持つことが大事なのです。
   僕自身には強い「負けず嫌い」な気持ちがあり、自分が負の感情に支配されることを極度に嫌うところがあります。悪気からではないのですが、自分が善の立場にいて、善なる行動をしていたいという気持ちが強いのです。ですが治療には失敗に終わることもありますし、場合によっては患者さんにとって僕が悪の存在だと感じられることもあります。そのときに状況自体を否認したくなってしまうのです。
   ですが実際には、自分の失敗や敗北を認められることの方が、より大きな意味での善でしょう。小さな善にしがみつくか、自分がダメ人間だと感じたとしても大きな善の方に向かうか、難しいところです。虐待を受けたりトラウマを繰り返し受けたような患者さんは、不思議とこちらの弱点を突いてくるところがあります。そのときに揺れながらも弱点があることを認めていけるようでないと、治療は成立しません。劣等感・喪失感・無力感といった感情を感じられるかに、僕の治療者としての成熟はかかっているのでしょう。

 

写真1   『逆転移 1』(著:ハロルド・F・サールズ、みすず書房、1991年)。独特であるが、深みのある本だ。

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5月日録1

5/2(土)   先月、コメディアンの志村けんさんが新型コロナウィルスによる肺炎で亡くなった。僕は小さい頃にテレビ番組「8時だヨ!全員集合」を見て親しんではいたが、その後はほとんど知らなかった。でも妻の美紗さんはもともとお笑いが好きで、志村けんさんの番組も長く見てきており、尊敬しているそうだ。なので家族で志村けんさんのコント動画を毎日見るようになった。意外だったのは、数十年前のものでもおもしろいことと、子どもたちが大好きになったことだ。内容の意味もわからないはずなのに、「東村山〜」「だっふんだ」などとしぐさや言いまわしを真似して笑い転げている。現代の子どもにもウケるところがすごいと思った。
   美紗さんが志村けんさんの著書である『変なおじさん  完全版』(著:志村けん、新潮社、2002年)を注文した。美紗さんが読んだあとに僕も読んでみた。長年語りの芸をしてきている人の文章だけあり、文字で書かれているのに語りそのものだ。最初は志村けんさんが話すのを聞き書きしたものだと確信したぐらいだ。日常的な話題から入り、難しい概念などは出てこないのに、とても深い内容に至る。志村けんさんが好むコントの形式が、身近な話題から入ってありえない展開に至るような流れだと書いてあるが、文章も似ている。短いエッセイの積み重ねなのだが、余韻が大きく、詩に近い。
   そもそも笑いというのは悲劇に比べて定義しにくいし、即興の要素が強い。この本を読んでも笑いとは何なのかが説明されているわけではない。でも「職業として人を笑わせようとするのは、どういう作業か?」ということは感じ取ることができる。それは大変に手間ひまがかかる仕込みが必要で、しかも本番ならではの生きた即興もないといけない作業だ。さらに言葉よりも体で表現しないといけないところが難しく、生まれ持った才能による部分が大きい。どの分野でもそうだが、長く活躍するには、「とりつかれたような」情熱が必要なのだ。
5/3(日)   娘のしずくの3歳の誕生日なので、美紗さんがケーキを注文した。あさぎり町にある焼菓子工房「をかし屋・トゴエル」は友人の鳥原真琴さんが個人で運営しているお菓子屋さんだ。真琴さんはパティシエとして長年働いてきたが、お客さん1人1人の願いをもっとくみ取ってお菓子を作ることを目指して、2020年1月に創業した。決まった製品を作り続けることと合わせて、オーダーメイドのお菓子作りにも取り組んでいる。しずくの誕生日のお菓子には、子どもたちが好きなイチゴをたくさん使ってくれたり、響が好きなチョコレートケーキを取り入れてくれてあった。漠然とショートケーキを作ってもらうよりも、もらう側はずっとうれしい。お菓子は楽しい場を作る黒子のようなもので、食べられる瞬間の喜びを作ると、すぐに消えてしまう。お菓子屋さんは幸せを演出するために黒子になり続ける覚悟がないとできない仕事だ。
5/6(水)   息子の響はコロナウィルスの流行のために保育園に行けない期間が長くなっている。美紗さんがひらがなのドリルを買ってきたので、いっしょに勉強した。1つ1つのひらがなをたどたどしく書いていく。回数を重ねるたびに、筆使いがしっかりしていく。僕もこんなふうに言葉を覚えていったのだろうか。響はひまさえあれば生物図鑑を眺めているので、文字が読めるようになると、世界が広がって楽しいだろう。

 

写真1   『変なおじさん  完全版』(著:志村けん、新潮社、2002年)。笑いを職業とすることの難しさが伝わってくる。

 

写真2   あさぎり町にある焼菓子工房「をかし屋・トゴエル」。美紗さんがケーキを受け取りに行くと、しずくのことを黒板に書いてくださっていた。

 

写真3   トゴエルのケーキでしずくの誕生日祝いをした。

 

写真4   手作りの火吹き竹でバーベキューの炭火をおこそうとする子どもたち。

 

写真5   庭のケヤキの木に来たクワガタムシを見つけた。

 

写真6   木登りをする子どもたち。

 

写真7   あさぎり町にある美容室「レッドヘア」にて。庭になったイチゴの実を取らせてもらう子どもたち。

 

写真8   近くの公園の木にぶら下がる子どもたち。

 

写真9   ひらがなを勉強する響。書字はたどたどしいが、文字を学んで世界が広がる勢いがある。

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5月日録2

5/10(日)   精神科医になりたての頃、師匠の神田橋條治さんの本に出てきたハロルド・F・サールズの『逆転移』(1〜3巻、みすず書房)という本を読んだ。内容はほとんど覚えていないが、印象に残ったことがある。それは「子どもは、親の心の傷を無意識のうちに察知して、それを癒そうとする」ということだ(不正確な要約かもしれない)。そして「親を癒すことに何度も失敗して、子どもは傷付いていく」ということだ。僕自身も、父と心のコミュニケーションをしたかったが、うまくいかなかったので、重ねて読むと、腑に落ちるところがあった(いまとなっては父に無理に気持ちのコミュニケーションを求めて悪かったと感じるが・・・)。
   もうずっと忘れていたが、久しぶりに思い出した。病院で子どもたちの診療をしていると、どうにもうまく進まないケースが出てくる。どこがうまくいかないのかをずっと考えていて、ふとサールズのことを思い出した。子どもは親の心の傷を癒そうとしているのかもしれない。また治療者の心の扉をノックしているのかもしれない。そう考えると、道が開ける気がした。自分の心のしこりが邪魔になって、患者さんのことがよく見えなくなっていたのだろう。親子関係や愛着の問題は、やはり人を支援していくうえで大事なテーマだ。 
5/11(月)   愛着の課題を持つ人の支援は大変だ。まずは心を開いてもらうこと自体が大変だし、いい関係性を作ったまま治療が終わることも少ない。誰かが「悪役」にならざるをえないところがあり、「対決」のような局面が来ることもある。医療機関とトラブルにもなりやすい。
   なぜ本人はあえて自分が医療スタッフから「(いままでも家族から見放されてきたのに)また見放される」ような状況を作ってしまうのだろう?それは誰かに自分が味わってきた苦しみを伝えたいからなのかもしれない。それは誰とも心でつながりあえない苦しみだ。医療スタッフはときには傷付いたり、落ち込んだり、眠れなくなったりするが、本人はそれをずっと味わってきているのだろう。そう思うと精神科の支援者として、苦しみの一部を引き受けていかないといけない。ただ自分の体調維持も求められるので、共感しすぎてもいけないところが難しい。
5/14(木)   あさぎり町にある美容室「レッドヘア」に家族で出かけた。美紗さんが美容師の直樹さんに髪の手入れをしてもらっている間、お母さんの咲子さんがお店の外の広場で子どもたちと遊んでくださる。木陰のベンチで、やすみは僕の膝のうえで宿題の計算をしている。日差しは明るいが、そよ風が吹いていて暑すぎない。なんということはない時間だが、極上の平和でもある。おそらく愛着の問題を抱えた子どもたちにとって、いちばん手に入らないものが、このような「たあいのない平和な時間」なのだろう。いつもいつも進歩しようとしたり、日常に意味を求め過ぎることは、トラウマへの反応なのかもしれない。無理に全てをわかろうとせずに、いまの瞬間に漂っていること。心が安らいだときを持てること。緊張と弛緩のメリハリをつけられることにトラウマからの回復があるのだろう。
5/24(日)   自宅の模様替えをして、最近はお香をたくことが増えた。香りは感情に直結し、鎮静化する効果がある。さらに美紗さんがアロマランプを買ってきてくれた。ラベンダーの少しとがったような香りが鼻から脳に染み込む気がする。心を休ませる大事な方法だ。嗅脳を含む大脳辺縁系に精神疾患は関連が深いと言われる。病院によっては精神科の治療の一環にアロマが入っているそうだが、たしかに精神面にプラスな作用が多いのではと思う。
5/26(火)   水上村のこころの相談に出かけた。高齢者のうつ病のケースだったが、住まいが山間地にあるため、病院への通院や、集いの場への通所が大変だ。どうしても送迎を受けることが可能な治療や支援だけになってしまう。高齢者は運転ができなくなるので、地理的な要因は大きく支援を左右する。狭い意味での治療だけでなく、生活全般にわたる支援を頭に置いて考えることが大事だ。

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コロナウィルス感染症について 2020年4月12日(日)

   新型コロナウィルスの大流行が毎日テレビや新聞で報道されています。医療現場にいると、毎年インフルエンザに悩まされています。当初はインフルエンザほどは怖くないのではと思っていました。インフルエンザは感染力も強いですし、高齢者では肺炎を併発して亡くなることもよくあります。認知症病棟のある僕の病院でも、毎年「インフルエンザが高齢の患者さんに広がらないように」と薄氷を踏む思いで過ごしています。世界的にも毎年数十万人が亡くなるそうです。
   ところが新型コロナウィルスの被害は拡大する一方です。エボラ出血熱のように致死性の非常に高い感染症の場合、感染者の状態が重篤化して生活活動ができなくなるぶん、感染が拡がりにくい面があるそうです。ところが新型コロナウィルスは比較的軽症であり、しかも症状があらわれないうちから感染が拡がってしまうため、拡大を止めるのが困難です。結果的には高齢者や基礎疾患のある人を中心に多大な被害を及ぼしています。「重症化し過ぎないぶん、制御しにくい」というところが憎らしいところです。
   また新型コロナウィルスは現代の医療システムの盲点をついています。医療システムのために、むしろ感染が拡がってしまう面があるのです。本来なら感染を止める場であるはずの病院の待合室や病棟で、どんどんうつっていきます。医療者にもこれといった対処法がないので、右往左往してしまいます。通常は病気を治しに行く病院で、逆に病気が広まってしまうとは逆説的です。
   さらにいわゆる先進国の大都市を中心に感染が拡がっていることも逆説的です。通常なら大都市ほど医師数が多く、医療体制が高度で充実していると考えます。ところが人口密度の高いところほど感染が拡大しやすく、一気に患者数が増えるので、逆に医療崩壊しやすいという不思議な状況になっています。これも「難しいケースほど、大都市の専門病院で」という通常の医療システムの流れと反対です。
   僕はいままで「感染症は現代ではほぼ制圧されている」と思ってきました。難しいケースはもちろんあるものの、精神科医療と比べると、ずっと対策が確立していると思ってきたのです。抗菌薬も種類が増えていきますし、衛生面も向上しています。少なくとも感染症対策の状況は悪化はしていかないとなんとなく思ってきました。
   ところが新型コロナウィルスへの対策をみていると、「外出を避ける」「社会的距離を取る」といった昔ながらのやり方です。急に何百年もさかのぼったような奇妙さを感じました。これだけ医療が進歩しているのに、いまだにウィルスに翻弄されるとは信じられないことです。
   そういった僕が漠然と持っていた考えが、大きな間違いであることに気づいたのは、ある新聞記事を読んだときでした。國井修さんのインタビュー記事です(朝日新聞2020年3月25日朝刊)。「世界エイズ・結核・マラリア対策基金(グローバルファンド)戦略投資効果局長」という立場で仕事をされており、エイズ・マラリア・結核の感染拡大を抑えるために医薬品や検査機器を提供しているそうです。衝撃的だったのは、この3つの感染症だけで世界で毎日7000人が亡くなっているということです。コロナウィルスも多大な被害をもたらしていますが、エイズ・マラリア・結核はずっと以前から深刻な被害をもたらし続けています。いずれも日本ではおおむね抑制されているので、日本の状況だけを見ていると、世界規模の問題を見過ごしてしまい、対策が遅れてしまいます。感染症は世界的にみると、全然抑制されてはいないのです。
   怖いのは、ほぼ確実に今後も新規の感染症が起こり続けることです。どこで読んだか忘れてしまったのですが、世界の人口が増え続けており、森林を切り開いたりしていることが、動物に感染しているウィルスが人に感染する背景にあるとのことです。なので人口爆発の問題が解消しない限り、新規の感染症のリスクも高まると考えられます。感染症単独の問題ではなく、人口問題が背景にあるのです。
   加えて大都市への人口集中の問題、先進国での高齢化の問題、気候変動の問題なども関連してきます。感染症というのは世界全体の状況を反映するものなのでしょう。現代は人の移動も世界規模ですので、どんな地域で起こった感染症も、世界的な大流行を起こす可能性があります。
   強く感じるのは、医学だけを学んでいるだけでは対抗できず、「地球学」とでもいうものが必要だということです。地球規模でのリスク管理についての学問です。「人間は自然のなかで生きているので、自然が変わると翻弄される」というのは古来変わらない真実なのでしょうが、科学技術が発達した現代においては、そのことを感じにくいです。でも考えてみれば、地震・サイクロン・バッタの大群・気温上昇・干ばつなど、制御が難しい地球環境の問題に僕たちは取り巻かれています。人類の叡知を結集して、「人類が生き延びていく方法」を探していく必要があるのでしょう。そして科学技術や現代文明の限界をもっと意識して生きていく必要があるのではないでしょうか。

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寺井治夫さんのこと 2020年4月21日(火)

   寺井治夫さんは僕の高校時代の国語の先生です。現代文・古文・漢文と習いましたが、授業には「寺井スタイル」がありました。授業は基本的に教科書ではなく、寺井さんが集めた名文のプリントを使います。それを年度が終わる頃に張り合わせ、冊子を作るのです。つまり授業を受けることと、自分の教科書を作ることが、並行しているのです。
   寺井さんに教わった教材たちは、いまも僕の本棚にあります。そのなかでいちばん僕の記憶に残っているのは、現代文の授業です。冊子『高校一年 現代国語 洛星高校38期生』(発行1993年1月8日、製本の欄には自分の名前を書くようになっている)を開いてみると、一般的な国語の教科書とは全然違う雰囲気があるのを感じます。というのは日本語の名文を集めただけではなく、日本語の限界に挑んだような文章が多いからです。哲学的に言語の基底を問うもの、言論弾圧に抵抗するもの、語りかけるスピーチ、日常動作のなかに染み込んだ日本語、翻訳文としての日本語、芸術性の高い小説群・・・。難しい文章を読みこなすためというよりも、言語表現の幅の広さや燃焼感を味わうような授業だったのでした。
   寺井さんは授業を通して生徒たちに何を伝えようとしたのでしょうか?答えは授業を受けた人それぞれでしょうが、僕の場合は「生きた思想」です。人は言葉を通して、その人にしか持ちえない志や生きざまを刻むことができます。といってもそのような密度の高い言葉が産まれることはまれで、長い時間をかけて、悪戦苦闘しながら産み出されるものです。寺井さんは生徒たちに、作者の生きるもがきに触れてもらい、何かを感じてもらいたかったのではないかと思うのです。
   そんな寺井さんから、手作りの冊子が届きました。冊子『水のよもやま話』(中村哲)です。これは医師としてだけでなく、干ばつの問題に立ち向かいパキスタンとアフガニスタンので辺境で活動した故・中村哲さん(1946〜2019)の文章の抜粋です。おもしろいのは中村哲さんが本や通信に書かれた活動報告ではなく、最晩年に書かれた水をめぐるエッセイを中心に編集されていることです。僕も哲さんの通信は読んでいましたが、哲さんたちの作った井戸・水路・堰によって緑の大地がよみがえったという記事にばかり注意が行き、エッセイの方にはあまり関心がいきませんでした。また哲さんと活動を共にした日本人、アフガニスタン人、活動を客観的に分析する人などが書いた、哲さんの活動を浮かび上がらせる文章もいくつか取り上げ
られています。
   意外だったのは、中村哲さんの生きざまが極めて濃厚に凝縮されていたことです。全体としては「辞世の句」のような、死期を予感したであろう哲さんが、知らず知らずのうちに書き記した、後世の人への言葉だと感じました。哲さんはさまざまな問題に立ち向かった人です。最初はパキスタンやアフガニスタンの辺境のハンセン病医療に始まり、辺境での一般診療活動、難民の支援、それから最後に干ばつ対策に取り組まれました。それらは直接的にはエッセイには書かれておらず、書かれているのは、水や河童や治水や歴史などについての哲さんの思うがままの連想です。およそ哲さんの本質からは遠いように思うのに、哲さんの人柄や人生の核心のようなものが表れているのです。
   エッセイという形式は、力が入っていてはだめで、軽やかに漂うような自由さが本質なのかもしれません。世界文学史の古典であるモンテーニュ(1533〜1592)の『エセー』も、引退後に思い付くままに書かれたものです。哲さんのエッセイも束縛なく書かれているからこそ、哲さんをよく表しているのかなと思いました。
    ところでなぜ寺井さんはこの手作り冊子を送ってくださったのでしょうか?特に理由はなく、自然発生的に好きな文章をパソコンに入力されていて、自然とできあがったそうです。僕が授業で教わった教材は寺井さんが仕事として作られたものですが、引退されたいまになっても作られた冊子が同じような形式なことに驚きます。好きな文章を書き写し、アンソロジー(文章の花輪)を作ることが、寺井さんの本質なのでしょう。
   またその人の仕事のいちばん美しい部分を集めることは、編集者の活動です。寺井さんは実は編集者だったのかもしれません。そういえば、初めてお会いしたときからどことなく「教師っぽくない」と感じてきました。言葉に魅せられ、美しい言葉の集まりを作りたいと思う人にとって、教師の仕事は悩みも多かったのではと思うのです。言葉の美しさに目を輝かせる生徒はほんの少しだけだからです。また保護者の希望も多くは受験に通るためのテクニックとしての勉強を教えることだからです。
  いまは寺井さんはもともとの文学少年に戻られたのかもしれません。そして寺井さんにとっての言葉の美しさとは、現実の問題に立ち向かい、現実を変えうる実践と一体のものなのでしょう。寺井さんの教え子の僕は、言葉と実践の両方を模索していくべきでしょう。いわゆる美文や机上の空論ではなく、地道な活動のなかからしみ出してくるような言葉。そこにこそ寺井さんの願いがあると感じるのです。

 

写真1  冊子『高校一年 現代国語 洛星高校38期生』(発行1993年1月8日、製本の欄には自分の名前を書くようになっている)。授業のプリントを張り合わせて作る手作りの教科書だ。

 

写真2   目次。多様な内容

 

写真3   手作り冊子『水のよもやま話』(中村哲)。最晩年のエッセイを中心に集められている。きわめて密度高く構成されたアンソロジーである。

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