お休みどころ

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『入門 貧困論』を読む 2020年3月4日(水)

   子ども支援の活動をしていると、貧困の問題と必ずぶつかります。子どもの場合には精神疾患そのものだけではなくて、家庭環境や学校の状況など周囲の環境の影響を受けて状態が悪化することがあるのですが、うまくまわっていない家庭の背景には貧困の問題があることが多いのです。実際に貧困とネグレクトには相関があることがわかっているそうです。子どもの状態を安定させようとすると家庭環境の安定を目標にすることになり、家庭環境の安定を目指すとどうしても貧困問題の解決が必要になるのです。 
   以前子どもの学会(児童青年精神医学会)で貧困についてのシンポジウムに参加しましたが、何が大事なのかがもうひとつよくわからないままでした。貧困問題に取り組むためには、「貧困の核心とはこういうことだ」という自分なりの貧困観のようなものが必要だと思うのですが、視点の確立が全然できないままなのです。ですので貧困についての断片的な知識は増えても、肝心の統合して実践につなげていく力に欠けるままなのでした。
   1年半ほど前(2018年10月)の児童青年精神医学会の際に、会場で売られていた『入門 貧困論  ささえあう/たすけあう社会をつくるために』(著:金子充、2017年、明石書店)を手に取り、買いました。395ページもある分厚い本ですし、専門外の分野だとは思ったのですが、貧困問題に取り組むためには読むことが役に立つのではと感じたのです。
   たしかに含蓄があってとても役に立つ本でした。ですが読み進めるのはかなり大変でした。文章自体はわかりやすくつづられているのですが、「貧困および貧困支援の思想史」と呼べるような広範な内容が含まれていますので、読んでいるうちに自分が論理のどこにいるのかがわからなくなってくるのです。これはある意味では仕方のないこととも言えます。著者がしようとしていることはおそらく、「貧困支援の現場にいまから出ていく若者に、学問の厚みを背景に持つように伝えたい」ということではないかと思うからです。ですので実践の即戦力になる本ではありませんし、また純粋な理論書でもありません。実践と学問を結びたいという無茶な願いの結実なのです。
   それでは僕が受け取ったメッセージは何でしょうか?「貧困問題の支援は、意外にも精神科の地域支援と似ている」ということです。精神科の地域支援をしていると、医療システムと実際の支援ニーズの間にあるズレを感じずにはおれません。たとえば「地域でもっとも精神科支援を必要としている人は、もっとも精神科医療につながりにくい」といった矛盾がよくあるのです。ケースが多問題であればあるほど、「本人の自覚に乏しく、受診の手段やお金もない」「また内服管理は困難であり、継続的な通院もできない」ということになりがちなのです。ある意味では病院にきちんと行って、待ち時間を待つことができて、診察の際に病状を伝達でき、もらった薬をきちんと飲める人は、そもそも状態がいい人だとも言えます。そういった医療システムの流れに乗れない人たちこそ、ほんとうに地域支援を必要としている人たちなのです。
   貧困支援にも同じことが言えます。貧困対策の施策はさまざまに作られてきていますが、問題はその手が届かない人たちに何を届けられるかということです。どんなに政策を工夫してもすべての貧困問題を持つ人たちに手をさしのべることはできません。ですが「手の届かない人たちにも何かを届けたい」という視点から制度設計をするか、「制度に乗れないなどけしからん」という視点から取り組むかでは、天と地ほどの差が出てくるのです。

    残念ながらこの本を読む限りでは、日本の貧困支援は「寄り添えない人に寄り添おうとする」制度にはなっておらず、貧困問題を抱える人にスティグマを与えたり、「生活保護を受ける人たちはもらいすぎだ」といった議論に終始しているようです。「支援が難しいケースであればあるほど、早期からの支援を」という視点をなぜ持てないのか?という疑問の答えを、貧困論や公的扶助論という学問の歴史のなかに批判的に求めたのが、この本であるとも言えます。
   それでは「支援が必要な人にこそ支援が届かない」という矛盾の解消法はなんでしょうか?簡単な結論はないのですが、支援団体の規模に応じてそれぞれの強みを生かしていくということだと思います。小規模のヴォランティア団体や民間NPOなどは、機動性があって実験的に動きやすいのが長所です。ですので地域にある支援ニーズの発掘や、未確立分野での先進的な取り組みなどを行っていきやすいです。一方で公的な機関、特に政府となると、機動性は非常にありません。ですがいったん支援システムを作ると、その効果は絶大なものがあります。多くの人の幸せの土台作りをできる可能性があるのです。小規模な支援団体も、大規模な支援団体も、それぞれの視点や活動性を生かして、補い合いながら貧困支援にあたるというのが理想的な支援の在り方だと思います。
   学問と実践の関係も同じことです。実践者は現場で困っている人たちに直接恩恵をもたらしえますし、現場のニーズをつかむこともしやすいです。ただ独りよがりの支援に陥りやすいことも事実です。学問者は広い視点をもって問題を見ることができ、多角的に問題を探求することができます。その代わりに「学問のための学問」といった実践につながらない空理空論に堕してしまいやすいのです。学問と実践が互いに互いを刺激し合ってこそ、効果的な貧困支援が行えるのでしょう。
   この本では学問と実践、小規模団体と大規模団体の全部を語ろうとしているので、内容が見えにくくなっています。ですが一つの立場だけに偏っていないところが魅力でもあります。そしてさまざまな学説などを読んできたはずなのですが、読んだ後には問いばかりが残ります。自分なりに問えることこそ、著者が読者に持ってほしい能力だったのでしょう。貧困とは何かと言われても、全然わからないままなのですが、自分なりに論じたり考えたりはできそうな気がします。この本は書物というよりも、学習サークルに参加しているような読書体験を与えるのでした。大学教員である著者が、ゼミなどで学生さんたちと交わした無数の対話が、直接は書かれていませんが、結局はこの本の存在価値なのだと思います。普段の実践が本の背景にしみ込んでいるのですね。

 

写真1   『入門 貧困論  ささえあう/たすけあう社会をつくるために』(著:金子充、2017年、明石書店)。読み通すのは大変だが、その価値のある本だ。

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『愛着障害の克服』を読む 2020年3月17日(火)

   コロナウィルスの世界的な流行のために、講演会や地域の会議などが中止になり、外出も自由にはできなくなりました。最初は非常に歯がゆく窮屈に感じましたが、意外なことに家でじっとしている時間が増えました。いままでは出歩き過ぎていたのかもしれません。子どもたちと過ごしたり、自宅の掃除をしたりができるようになりました。あわせてたまっていた本を読む時間も、少しは取れるようになりました。
   『愛着障害の克服』(著:岡田尊司、光文社、2016年)は、いつかは忘れてしまいましたが、人吉市のイオンの書店で買った本です。子どもの絵本を見に行ったときに、通りがかって手に取ったのでした。ちょうど子ども支援をどう進めていくか悩んでいたときであり、虐待などの愛着問題を抱える子どもにも関わっていましたから、買ってみたのでした。とはいえあまり期待していなかったというか、カバンに入れて持ち歩いて、暇なときに読んでいこうといったスタンスでした。
   ところがこの薄い本が、なかなか読み終われません。著者は精神科医をしながら作家もされているそうですが、文章はきわめて読みやすく書かれています。また同じテーマをいろいろな角度から検討するようなスタイルで書かれていますから、どちらかというと情報量に圧倒されるわけでもありません。スラスラと進めそうなのですが、内容が濃いのです。というか文章そのものに結論が書かれているというよりは、文章を通して大事な何かを指さすような方向性を提示する本なので、いつも言葉の先を見ながら読み進んでいく必要があるのです。
   また不思議なことに、内容にはおかしいと感じさせることはないのに、どこか窮屈さを感じさせる部分があります。読書の楽しみの1つは、読んでいるうちに湧いてきた違和感や疑問をあれこれ考えるところですが、この本には全面的に賛成するか、あるいは全面的に拒否するかを迫るようなところがあります。でも拒否するとして、それではどこがおかしいのかを指摘しようとすると、全くわからなくなります。そもそもこの本は論争的にできているのでしょう。文章はきわめて優しく平易なのですが、実は挑戦的で、現代の精神科医療全体を批判するような野心が背景にあると感じられます。
   この本のテーマを僕なりにまとめると、「人は人によって傷つくし、人とのつながりで癒されもする」となります。それは医療以前のあたりまえのことでありますが、とても奥の深いことでもあります。いつの時代にも人を癒す達人がいて、特に技法を使わなくても、その人の雰囲気や接し方で、悩み苦しむ人を救ってきました。そのような達人の姿は、なかなか原理や技法といったものにはなじまないところがありますが、著者はその輪郭を描こうとしているように思えます。
   またそういった「医療技術以前の人間的な関わり」が精神的な不調を抱える人のケアにおいて大事であることは、未来永劫変わらない真実なのでしょう。皮肉なことに、精神科医療が進歩すればするほど、ケアの原点は忘れられ、投薬を含む技術に走るようになります。ですのでますます原点回帰の重要性は増すのです。この本では新しい科学的データが多く使われていますが、指し示しているのは原初の精神科医療なのです。
   うろ覚えですが、「人間の内面にある太古からの記憶に、現代に失われた大事なものがある」といった考え方をロマン主義と呼ぶと読んだことがあります。僕の理解では著者の姿勢はロマン主義的であると思います。僕自身もロマン主義的な考え方が大好きで、それで自己形成をしてきました。ロマン主義は芸術を含む創造性と相性がいいですが、僕も創造的な生き方に憧れてきました。その思いはいまも変わりません。
   ですが一方で副作用もあります。思い付くままに列記してみます。ー膣囘な情緒を重視するために、治療効果を客観化するのが難しく、制度化がしづらい。技法を体得するという要素が強く、学習しづらい。7歃僂剖瓩ね彖任あるために、天性のセンスに大きく左右される。た識鵑膿脆訶な雰囲気があるために、それに酔って心酔してしまいやすい。ヌ椹悗垢發里何なのかがはっきりしていないために、効果判定が難しく、治療のゴールを設定しにくい。要は治療がアートに近くなりすぎるのです。
   僕もアーティスト的な治療の達人に憧れはします。ですが実務の場にいて感じることは、治療者に求められることはマメさと誠実さだということです。深遠な人間性はあまり求められません。患者さんのニーズをていねいに探し、細かく工夫してくれる人が、いちばん患者さんのほしい治療者像ではないでしょうか。
   また医療自体も自然科学の進歩とともに、どんどんマニュアル化されてきています。自然科学は「 誰にでも同じようにできて、同じように成果が上がりやすい治療法」を追求しますから、治療者の腕は昔ほど必要とされなくなっています。専門的な知識も、いまではインターネットの普及で簡単に調べることができるようになりました。ですので医師に求められるものも職人芸ではなく、話しやすさやサービスのきめ細かさに移りつつあるように思うのです。
   この本の良いところであり良くないところでもあるところは、著者の話術の巧みさのあまり、我を忘れてひきこまれてしまうことです。「この世の問題の全ては愛着の観点から解決される」とまで思えてきます。精神科の現場にいると、愛着の問題を抱える人と出会うことはありますが、愛着問題が前面に出てくる人は比較的少数です。ほとんどの患者さんは「病状の把握→検査→診断→治療」という流れで対応が可能であり、愛着の問題を大きく取り上げることまではしません。精神科スタッフは大なり小なり愛着問題への働きかけを無意識にしているものですが、あくまでも「隠し味」として働きかけており、通常の治療プロセスが主になるのです。
   この本では普段は隠れている愛着問題のケアに焦点が当てられていておもしろいのですが、それが治療の柱にまでなってしまうと混乱が生じます。何をもって客観的に治療の進展の度合いを測るのか、という指標に乏しいため、治療のほとんどは医師の裁量によることになってしまいます。ですが医師の独断に陥りやすいですから、トラブルに至るリスクは高くなるでしょう。治療が成功すればいいですが、失敗したときにも打てる他の治療法の選択肢にも乏しいです。多くの人が求めているのは、「劇的に効くかわりに副作用も強烈である治療法」よりも「作用はボチボチであるが副作用もマイルドである治療法」であり、医療の進歩もその方向で進んでいると思います。
   ただこの本が非常に内容の濃い優れた本であることは変わりません。思うに実務的で現実的な判断力のしっかりした人が読んで刺激を受けるのに適した本なのでしょう。さまざまなインスピレーションを与えてくれるはずです。僕のように現実性に乏しい人間が読むと、ますます常識から逸脱しやすくて良くないです。実務にはバランスが必要です。自分の精神がよりバランスを取れるようになることが読書の目的の1つでしょうから、自分が過激化するような本は避けた方がいいのでしょう。自分にとって原点に近い本なのに、素直に称賛できなくて残念です。自分を重ね合わせて読みすぎるのかもしれませんね。

 

写真1   『愛着障害の克服』(著:岡田尊司、光文社、2016年)。さまざまな読後感を抱かせる本だ。

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2020年3月日録1

3/3(火)   友人の旅館や食堂に出かけることがあったが、コロナウィルスの流行ですっかりお客さんがいないとのことだった。感染症が観光業や飲食業にもたらす破滅的な影響の大きさには驚くばかりだ。正直言って、「感染症はおおむね人類に制圧されている」と思ってきたし、感染症対策に学問的な興味を持ったこともなかった。感染症の歴史や人類との関係、苦闘のなかから生まれた対策、将来的な課題などまでを見渡せるような、専門家の方の本を読んでみたいと思った。
3/8(日)   鹿児島県さつま町にある「北薩広域公園」に友人家族の案内で出かけた。休校が続き子どもたちが鬱屈しているので、ストレスを発散させたい意味もあった。着いてみると意外にも人が多かった。「濃厚接触」にならないような環境で子どもを遊ばせたいと皆が思っているようだった。公園はとても広く、僕が知る最大級のアスレチックス(お城のイメージ)があったり、広場や遊具があったり、バンガローがあった。自由に創造的に遊べるときの子どもたちのパワーには圧倒される。見守ったり、子どもたちのスポーツなどの相手をしただけだったが、自分の運動にすごくなった。そうして普段頭から離れない仕事の「困ったこと」が、頭からいっときでも消えていることに気付いた。子どもたちもストレス発散が必要だが、いちばん必要だったのは僕自身だったのかもしれない。
3/10(火)   こころの相談を受けに、熊本市にある慈恵病院に出かけた。慈恵病院は赤ちゃんポストを設置している病院として名高いが、歴史的には私立のハンセン病療養所「待労院(たいろういん)」(1899〜2013年)から派生する形で始まったのだそうだ。待労院はカトリックのコール神父たちによって開設されたハンセン病療養所であり、シスターたちによって運営されてきた。ニーズに応じて身寄りのない赤ちゃんや高齢者、貧困者を受け入れる施設も開設されたそうだ。待労院には僕は一度行ったことがあり、シスターの方のお話を聞いて感激した。蓮田副院長と知り合ってときどきお手伝いするようになった慈恵病院だが、ここにもハンセン病とのつながりがあり、縁を感じた。
3/11(水)   友人の渡邉典子さんが届け物を持ってきてくださった。典子さんは大阪府から多良木町に移住してこられたが、すっかり地域に溶け込んでおられ、老人会の会長までされているそうだ。子ども食堂など地域支援の活動もされている。人柄を慕って、訪ねてくる人も多い。典子さんと会うと、いつどこにいても、活き活きと生きていけるんだと感じる。典子さんなりの生き方の芯があるからだろう。
3/13(金)   病院の同僚には辞めていく人もいる。辞め方にはまさにその人のしてきた生き方が表れる。祝福できることもあれば、ガッカリくることもある。仕事が優秀でも、生き方には反映されないこともある。終わり方は大事だ。人間性を見るには、終わり方まで見ないといけないのだろう。

 

写真1   あさぎり町にある「黒豚キッチンKUMAKURO おかどめ幸福駅店」。くま川鉄道が通ると子どもたちは興奮した。

 

写真2〜3はさつま町にある「北薩広域公園」で撮った写真です。


写真2   非常に大きなアスレチックスのお城がある。

 

写真3   アスレチックスを登りきったところからはさつま町が一望できる。

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2020年3月日録2

3/17(火)   人吉市の石野公園でピクニックをした。子どもたちを遊具やスポーツでたっぷり遊ばせたあとに、お昼ごはんを食べた。体を動かしたので、春の風が涼しく心地良かった。サッカーのリフティングやバレーボールなど、新しいチャレンジをできて子どもたちもうれしそうだった。コロナウィルス対策で自由に出歩くこともできないが、たまに出かける公園には平和がある。家族と過ごせる時間がなによりも貴重であり、生き方の中心をそこに置かないといけない。
3/18(水)   山形県に住まれている齋藤幸子さんは僕が尊敬する方だ。伴侶のたきちさんと長年果樹農家をされてきたが、最近たきちさんを看取られた。いままでのお疲れが出ているのではと心配していた。でもメールの文面を見ると、やはりいつもの聡明な幸子さんだった。どんな境遇でも光を見つけていかれる方だ。
   「こんばんは。おきのさま、皆様揃ってお元気でいらっしゃいますか。山形も 梅のつぼみが膨らんできました。今年は雪があまり降らなかったのですが、寒い日々でした。わたしの風邪もなかなか治らず、なおのことあたたかい春の日差しが待ちどおしいです。彼岸を迎えて沢山の彼岸を迎えて沢山のお花にかこまれて 太吉さんもニコニコしていますよ。こんな 時がくるのですね。家の前の川は光りながら流れ、軒下のすみれは咲きはじめました。眺めながらいつまでも美しい自然が守られるようにと願いつつ。ウィルス騒ぎのせつ、どうか皆様お健やかでありますように!!」。
3/22(日)   鹿児島市にあるフランス料理のレストラン「ミディ・ソレイユ」に美紗さんの両親と出かけた。同系列の隣のお店で、7年半前に僕たちの結婚披露宴をした。そのときに料理を担当してくださったのが店長の鎗水さんだ。以後何度も食事に来ているが、料理はもちろん、鎗水さんの飾らない人柄や丁寧な接客の姿勢に毎回感銘を受けてきた。いつも豊かな時間を味わわせてもらえるお店だ。
   ミディ・ソレイユを含む商業施設がなくなることになり、今回が最後の食事になってしまった。とても寂しいが、行ってみるといつものようにゆったりと時間を味わえた。料理をとても楽しんだのに、終わってみるとあまり覚えていない。ほんとうに満足してリラックスしている時間というのは、綿菓子のように味わうと消えてしまうものだと思う。
   今回気づいたのだが、豊かな時間は瞑想のようなもので、心身を調整してくれるのではないか。日々忙しさに追われてばかりいると、心が緊張した状態が定着してしまい、それが当たり前だと思ってしまう。力の抜けた安らぎを味わうことで、原点のようなものがわかる。普段はそこまでリラックスできなくても、心のバランスを意識していける。鎗水さんのお店は料理店としてすばらしいが、それだけでなく「お休みどころ」としての効果も持っていると思う。
   脳波についての入門書である『脳波判読step by step 「入門編」』(著:大熊輝雄・松岡洋夫・上野高志、医学書院、2006年第4版)をやっと読み終わった。医師になって最初の年に先輩医師から勧められて買った本だ。その後いくつかの部分を飛ばし飛ばしチビチビ読んではきたが、なかなか最後までたどり着けなかった。理解はともかく、いまやっと最後のページまでたどり着けたという状態だ。
   内容は丁寧にわかりやすく書いてあり、また脳波の例が非常に豊富に載せてある。普通に考えたら読み進みやすいはずだが、それがなかなか進まない。これは脳波の学習が車の運転のようなものだからだと思う。車を運転しない人が、運転のマニュアルを読んでも全くおもしろくない。またマニュアルを読み通すことが運転に必要なわけでもなく、困ったときに辞書のように参照すればいいだけだ。
   いま読み通せたのは、結局僕が脳波の判読をたくさんするようになったからだ。以前は知らなかったのだが、発達症の子どもには脳波の異常所見が非常に多く、てんかんの合併もしばしばだ。またてんかん治療によってかんしゃく・衝動行為・自殺企図・頑固な不眠・突発的な不安などが改善することも多い。いまでは毎週3〜4人ぐらいの脳波を判読している。
   やはり必要性があるからこそ勉強するし、必要性がないことはすぐに頭から抜けてしまう。勉強するには必要性を感じないといけないし、必要性を感じるには新しい課題に直面しないといけない。課題の発見がいかに大事かを改めて感じた。

 

写真4〜5は人吉市の石野公園で撮った写真です。


写真4   ピクニックをした。

 

写真5   やすみは遊具のいちばん上まで登ることができた。  

 

写真6   娘のやすみが絵を描いてくれたお皿。

 

写真7〜8は鹿児島市にあるフランス料理のレストラン「ミディ・ソレイユ」で撮った写真です。


写真7   商業施設がなくなるので閉店になってしまう。最後のお食事をした。店長の鎗水さんの接客にはいつも安らがせてもらえる。

 

写真8   響の5歳の誕生日の前祝いもできた。

 

写真9   『脳波判読step by step 「入門編」』(著:大熊輝雄・松岡洋夫・上野高志、医学書院、2006年第4版)。題名の通りに基礎から一歩一歩学べるが、内容があまりに豊富なため、脳波を実際に多数判読してみないと身に付いていかないところがある。読み物として読むのにはあまり適さない本だ。むしろ辞書的に使う方がいいと思う。

 

写真10   鹿児島県霧島市にある「国分城山公園」。遊具やゴーカートが充実していて、人が多かった。 

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2020年3月日録3

3/24(火)   息子の響が週に1回療育を受けている。普段は僕が仕事の日なので行けなかったが、この日はたまたま火曜日だったので初めていっしょに行くことができた。療育とは発達課題のある子どもの運動発達や精神発達の促進のためのアプローチを総称したものだが、保護者のケアや理解促進も守備範囲になっている。響がトランポリンやワニ歩き、ゲーム遊びや手の巧緻運動の練習に取り組んでいる間、僕はほとんど見ているだけだったが、「こうして響だけをジッと見ていることがなかったなぁ」と感じた。3人の子どもの1人としてしか、どうしても普段は見ない。響だけを見て、響が達成できたことをいっしょに喜ぶような時間が、大事なのだと思う。
   歯と歯の隙間に虫歯ができていることに気づいたので、かかりつけの歯科に行った。いつものことだが、サッと見立てが提示され、その対処が行われ、1、2回で診療が終わる。無駄な診療がひとつもなく、受診する側からすればとてもありがたい。だが一方で、「こんなに無駄なく診療して儲かるのだろうか?」と余計な心配をしてしまう。
   精神科分野でも僕はできるだけ無駄のない診療を心がけている。しかし大部分が慢性疾患であり、しかも治療は対症療法が多いので、精神科の通院患者はどうしても多くなる。現代の医療の限界なのだが、かかりつけの歯科のように、何回か通って診療が一段落に持っていけるような診療は、精神科では夢のまた夢だ。でもだからこそ診療報酬がある面もある。
   医療に関していちばん矛盾を感じるのは、「名医はサッと患者さんをよくするので、結果的に診療報酬が減る」ということだ。優秀な医師であればあるほど、見立てが適切なので、診療時間や回数は減り、診療の間隔も長くなる。社会的には医療費が削減されてすばらしいことだが、そうすることで経営的に圧迫されることもありえる。良心的な医療が経営的にも安定する仕組みが望ましいが、そこがとても難しい。「患者さんをいかに少ない社会的負担でよくしたか」という指標が開発されればと願う。 
3/25(水)   息子の響が危険生物にはまっており、10冊以上図鑑を持っている。危険生物の本は毒ヘビなどばかりを取り上げているのかと思ったが、絶滅危惧種なども取り上げてあり、人間と生き物の関係を考えさせられる。毒を持つセアカゴケグモやヒアリなど最近話題になる危険生物は、人間の手で遠隔地に運ばれて、そこで大きく増えている生き物だ。人間の移動によって危険が広まっている面があり、対策が難しい。世界では他にもさまざまな外来種が生態系を破壊しているそうだ。
   サバクトビバッタについては危険生物の図鑑で読んで知ってはいた。周期的に大発生して農作物を食べ尽くしてしまうバッタだ。まさか僕に降りかかる問題とは思っていなかったが、いままさに起こっているとネット上の記事で知った。アフリカ東北部で大発生して、中東からインドにまで移動してきているそうだ。このまま行くと、世界的な食料危機が起きることになる。早期対処が必要だったのだが、発生地のソマリアは内戦でズタズタになっており、対策を撃つのが難しいそうだ。
   コロナウィルスについてさまざまな記事を読むが、特に勉強になったのが、國井修さんのインタビュー記事だ(朝日新聞2020年3月25日朝刊)。「世界エイズ・結核・マラリア対策基金(グローバルファンド)戦略投資効果局長」という立場で仕事をされており、エイズ・マラリア・結核の感染拡大を抑えるために医薬品や検査機器を提供しているそうだ。衝撃的なのはこの3つの感染症だけで毎日7000人が亡くなっているということだ。コロナウィルスも多大な被害をもたらしているが、エイズ・マラリア・結核はずっと深刻な被害をもたらし続けている。いずれも日本ではおおむね抑制されているので、日本の状況だけを見ていると、世界規模の問題を見過ごして対策が遅れてしまう。気候変動・感染症・危険生物のいずれも国境に関係なく広がる問題であり、いつも世界全体に目配りしておく必要がある。
   子どもたちが運動できるように、鹿児島県霧島市の「国分城山公園」に出かけた。美紗さんがネット記事で見つけた公園で、行くのは初めてだったが、予想外に遊具やゴーカートが充実していて驚いた。子ども連れはもちろん、ピクニックに来ている大人も多かった。山の上にあるので解放感があり、快晴だったこともあって明るい気持ちになった。世界的にはどんどん悪化しているコロナウィルスの蔓延が、遠い現実に思われた。鬱屈するときには、広々した場所に行くのが役立つ。今回のウィルス流行で、公園の価値が見直されるのではないか。
3/29(日)   コロナウィルスの流行が拡大しており、熊本県でも外出自粛要請が出ている。自宅にいる時間が長くなったので、普段はできない掃除をすることにした。台所の油汚れ、ガラスについた落ちにくい汚れ、フローリングのくすみ、お風呂のカビや水垢など、汚れは掃除をすればするほど見つかる。掃除グッズを買ってきて、新しい汚れにチャレンジするのが楽しみになった。
   ところが僕が楽しそうにしていると、子どもたちは目ざとく見つける。普段なら娘のやすみは掃除を手伝いたがるが、子どもたちが競争のように手伝いたいと言うようになった。遊びとなると子どもたちのエネルギーはすごく、フローリングの拭きあげなど、子どもたちの勢いがあってやりきることができた。大人が楽しんでいることを子どもたちはしたがるので、僕たちが楽しみをいろいろ持っていること自体が教育になるのかもしれない。

 

写真11   自宅前の桜が咲いた。例年同様にきれいだが、コロナウィルス騒ぎが続いているので、ゆっくり眺める気になれない。

 

写真12   ところが子どもたちがお庭でお花見をしたがった。

 

写真13   フローリングの拭きあげを競争してする子どもたち。

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芦北・水俣に出かける 2020年2月2日(日)

   熊本県の保健・福祉体制では県を10個ぐらいのエリア(圏域)に分けています。僕が住んでいるのは人吉・球磨圏域であり、八代圏域や芦北・水俣圏域と接しています。芦北・水俣は人吉からは山を越えていかないといけないので、感覚的には遠く感じるのですが、実際には意外と近いです。車で行けばだいたい1時間以内で目的地に着くことができます。
   1月末から2月始めにかけて、芦北・水俣に行く機会に2度恵まれました。まず芦北・水俣の養護教諭の方たちの研修会に招いていただけました。養護教諭は小・中学校の医療的ケアの中心です。養護教諭の方たちに発達症支援の要点を伝えることができれば、それはすぐに各学校の支援の向上につながります。その意味ではお呼びいただけることは非常にありがたいことで、去年に続けてお呼びいただけるのはさらにありがたいことです。
   平日でしたので、僕が1人で出かけてきました。会場は芦北の津奈木町(つなぎまち)にある文化センターです。20人ほど集まってくださっていました。残念ながら芦北・水俣には現時点では思春期の発達症支援の拠点になる医療機関がありません。そのせいなのか、学校の先生たちが医療機関とのつながりを求める気持ちは、人吉球磨よりもはるかに強いと感じます。聞き手が熱心であればあるほど、僕の話の余談や即興が増えるのですが、この日もテーマである「発達症の二次障害」から逸脱するようなお話をたくさんできました。息子の響を保育園に迎えに行くためにゆっくりできなかったのが残念でしたが、とても幸せな時間でした。
   次に呼んでいただけたのは水俣にある児童養護施設「光明童園(ひかりどうえん)」です。光明童園には以前から子ども診療でのつながりがあり、以前にも1度訪問させていただいたことがあります。年に1回一般の方や支援職向けの「ひかりっこセミナー」を開催されており、今年で10回目になるのだそうです。そこに講師として招いていただいたのでした。普段から非常に熱心に子ども支援に取り組まれていることは知っていますので、訪問するのが楽しみでした。
   セミナーには40〜50人ほどが集まっていました。こちらも聞き手が非常に熱心で、そのために脱線や余談が多くなり時間が足りなくなりました。やはり質問もありうれしかったです。いい聞き手に恵まれると、こちらの気持ちが軽くなって、普段は思いつかないことまで話せるのですね。だからいい講演会に呼んでいただけると新しいアイディアを思いついて自分自身のためになります。
   セミナーの後に光明童園のスタッフの方たち数人を昼食をしながらお話しました。特に楽しみだったのが施設長の堀浄信さんと初めてお話しできることでした。お会いしてみると思っていたより若い方で、僕より5歳年上なだけでした。虐待支援の重要性を訴えるために全国を講演して飛び回っておられるとのことでした。「光明童園」と同じ法人の児童養護施設「湯出(ゆで)光明童園」で困難な家庭状況にあるお子さんを引き受けるだけでもすごいのに、さらに児童発達支援センター「にこにこ」も開設され、発達症の子どもたちの療育も行っておられます。また今後も虐待予防や地域の子ども・保護者支援の活動を展開していかれるとのことでした。施設長に志があるのを感じてスタッフの皆さんも活き活き働いておられるのだとわかりました。
   最近は普段の子ども診療のなかでも芦北・水俣からの受診者が増え、芦北・水俣を近く感じています。さらにいい支援者の方たちと知り合うと、ますます近く感じます。今後は僕にできる形で芦北・水俣の子ども支援にも関わっていきたいと思います。
   熊本県に限らずですが、医療機関は県庁所在地に偏っており、地方の医療体制の維持は今後ますます大変になっていきます。人吉・球磨も芦北・水俣も、いままでどおりの医療体制を維持していけなくなるでしょう。その際には圏域を越えた連携が求められます。いまのうちから芦北・水俣とのつながりを強めておくことで、将来的には1つの医療圏域と考えられるようになるかもしれません。そしてどちらもが休息・再生の地として困っている方の受け入れをできるようだとすばらしいと思います。

 

写真1〜2は熊本県水俣市にある温泉ホテル「湯の児(ゆのこ) 海と夕やけ」で撮った写真です。


写真1   子どもたちはキッズコーナーで延々と遊んでいた。頑丈な木のつくりだから安心感があるのかもしれない。

 

写真2   夕食会場。魚介類も野菜もとても豊かだ。

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ひまわり保育園で話す 2020年2月12日(水)

   人吉市に伝説的な保育園があります。「ひまわり保育園」です。無認可の保育園で、泥んこ遊びなど通常の保育園ではできない自由な保育をされていると、何年も前に友人のRさんから聞きました。僕自身の子どもたちが生まれた際にも、預けてみたいなと思いましたが、認定こども園はされていないとのことで諦めました。
   ひまわり保育園とのつながりができたのは、それから何年も後です。同僚の娘のMさんの結婚式に出席したのですが、テーブルの隣の席の人がひまわり保育園の松本園長でした。ちょうどその日が卒園旅行の日で、「阿蘇ミルク牧場」に行ってきましたと話されていました。その他に何を話したかは覚えていないのですが、松本園長の人間性に魅力を感じました。志のある方だと感じたのです。
   数年後に同僚の娘のMさんが吉田病院に勤務されることになり、予想外でしたが同僚になりました。とはいえ職場で会うことはめったになく、会っても話す暇もなく、月日は過ぎていきました。ひまわり保育園が認可保育園になったとどこかで聞きました。
   ある日Mさんに呼び止められ、「ひまわり保育園で講演していただけませんか?」と尋ねられました。僕はもちろんいいですよとお伝えしました。やっとひまわり保育園に行く機会ができたのでうれしく思いました。出会いのきっかけはいつも意外なところにありますね。
   講演の内容については、当初はすでに作ってある資料で対応しようと思っていました。ところがMさんの要望はいくつもあり、‘幼児の発達について、発達課題が生じた際の支援法について、支援をしなかった場合にどんな問題が起きやすいか?、の3点を含めてほしいとのことでした。子どもの早期発達や療育については支援者の間でよく話題になることですが、僕が療育の専門職ではなく、また主に就学後の子どもの診療をしていることもあり、講演では触れずにきました。まさにそこを話してほしいとのことですので、資料をほとんどゼロから新しく作りました。時間と体力との勝負でしたが、ギリギリで資料ができました。
   当日は強い雨でした。僕は午前と午後に地域の支援会議に参加しました。そのあと保育園に響を迎えに行き、子どもたちをお風呂に入れて、夕食も食べさせてから、ひまわり保育園に向かいました。19時からと聞いていましたが、楽しみですので、18時半より前に着くように早めに出かけました。ひまわり保育園は意外なほど自宅から近く、車で5分もかからない距離でした。
   ひまわり保育園の建物は木を生かした2階だての立派なもので、建て増しを何回かされてきたような作りでした。入り口で松本園長とお会いできました。施設をゆっくり案内していただきたかったのですが、なんと会が18時半からでした。それでさっそく話し始めたのです。
   参加してみてわかったことですが、会は保護者会が主催する勉強会のようでした。保護者や関係者、保育士の方たちが40人ほど集まっておられました。皆さん板の間で足がしびれたでしょうに、長時間集中して聞いてくださいました。僕の友人知人もたくさんおられました。参加者の聞き方が熱心だったものですから、僕はかなり余談を多くして自由奔放に話せました。初めて話す内容で時間配分がうまくいくか心配でしたが、90分にうまく収まりました。
   あと30分は質疑応答の時間ですが、質問が出ないのではと思いました。ところが1つ1つと出ていくうちに30分が過ぎました。質問の内容も深いもので、以下の論点を含んでいました。“達症支援が「子どもたちの個性を平均化する方向」に偏っていないか?(むしろ逆で子どもたちが個性を活かして生きていくことをサポートするのが目的です)。発達症とチックの関係について(通常のチックなら心配ありませんが、トゥレット症の疑いがあれば受診を勧めます)。I徂悗覗甦支援の必要性について意見が割れたら?(夫婦のつながりの方がはるかに大事ですので、両方ともが必要性を感じるまでは無理に支援を入れないでもいいと思います)。と達症の原因とは?(現時点ではまだ不明です。あわてて何かを原因だと決めつけるよりも、支援法を工夫する方が役に立つと思います)。
   質問が自発的にたくさん出るのは、かなり集団の力がある証拠だと思います。ひまわり保育園が子どもや保護者を大切にしてこられたことがわかりました。松本園長と後でお話したのですが、発達症や肢体不自由のお子さんについても、他の園の受け入れが難しいときに、受け入れの要請があるそうです。受け入れをしていくためにも、発達症についての職員の継続的な勉強会をしていきたいとのことでした。「他の園が対応できないケースに、手探りで対応していきたい」という運営の姿勢がすばらしいと思いました。
   松本園長からいただいた創立40周年記念誌『はじけて芽を出せひまわりっ子』(発行:2016年3月)を後日読みました。創立は1976年にさかのぼり、「婦人の働く権利を守り、すべての子にゆき届いた保育を」との気持ちで松本園長を含む主婦3人で立ち上げたそうです(同書36ページ、人吉新聞 1976年3月25日号の記事より)。のちに夜間保育にも取り組まれることになり、いまも夜間保育をしている人吉市唯一の保育園のようです。また記念誌の随所に出てくるのですが、「絵本は心の栄養」「リズム運動」「どろんこ、散歩、外あそび」(同書8ページ)を保育の3本柱にされているそうです。40年前の理想であるにも関わらず、現在ますます大事になっている視点であることがすごいと思いました。だからこそひまわり保育園が続いてきたのでしょう。
   僕は自分が子どもを持つまでは、保育には全く関心がありませんでした。ところが子育てをしてみると、保育園というのは非常にありがたい存在であり、かつ親子のニーズにかなり柔軟に合わせてくださる場なのだと思いました。わが家もそうですが、子どもには1人1人個性があり、発達の状況もさまざまです。家庭の状況も同じように多様です。そのなかで子どもの日々の成長を支え、保護者の悩みを受け止め、子どもたちの長い人生を導く理想のようなものを提示するのが、保育園の役割なのだと思います。途方もなくエネルギーを要する仕事であり、かつ親子のニーズの変化に応じていつも変わり続けないといけない立場です。難しいですね。これからもひまわり保育園には高い理想を持ち続けて実践を続けていただきたいと思いました。そこに未来の理想社会のかけらが表れてくるのでしょう。

 

写真1   ひまわり保育園創立40周年記念誌『はじけて芽を出せひまわりっ子』(発行:2016年3月)。理想を持ちながら、母親のニーズの変化に合わせていつも変わり続けてきたことがわかる。

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ギャンブル障害について話す 2020年2月18日(火)

   ギャンブルに依存してしまっている状態を、精神科の病名としては「ギャンブル障害」と呼びます。世界的に人口の1.5〜2.5%程度と推定されているそうで、よくみられる精神疾患になります。ですが受診されている方の比率が非常に少なく、そもそも「精神疾患であり、精神科医療機関が支援に当たっている」ことを知らない方が大多数だと思われます。決定打となる治療法がないのが現状ですが、それでも相談先があり、医療的な介入を受けられることは大事なことだと思うのです。
   ギャンブル障害について、僕は臨床での経験は少ないです。ですが依存症の問題には子どものゲーム症の支援でよく関わっています。また数は多くはないですが、アルコール使用障害の診療をすることもありますし、ニコチン依存症について講演をすることもあります。また成人の発達症支援において金銭管理が治療上重要な位置を占めていることもあり、金銭管理の問題についてはずっと頭を悩ませてきました。患者さんのなかにはギャンブルに依存する方も一部おられますので、ある程度関心は持ってきました。
   ですが大きく関心を持ったのは4年前のことです。人吉市の隣の錦町で、「場外舟券売り場」ができる構想が持ち上がったとのことで、反対する郡市民グループができました。代表をされていたRさんと僕はたまたま難病支援の活動で知り合いでしたので、Rさんからの講演依頼を引き受けたのです。ですが人前で話すためには勉強したり、いままでの経験をまとめたりしないといけません。はたしてうまくいくのかハラハラしながら資料を作ったのを覚えています。結果的には講演は盛り上がり、質問もたくさん出てホッとしたのでした。その後「場外舟券売り場」の構想も凍結されました。
   その後ギャンブル問題の講演をすることはなかったのですが、去年の12月、友人の鶴上寛治さんから講演の依頼を受けたのです。なんと今度は人吉市で「場外車券売り場」の構想が持ち上がっているというのです。僕も知らなかったのですが、これは遠方で開かれている競輪やオートレースをスクリーンに映し出して、お金を賭けるための施設なのだそうです。市議会での質問をとおして構想が発覚し、反対する市民グループ「「人吉場外車券売り場」を考える会」ができて、鶴上さんが代表になられました。鶴上さんの実直で誠実な人柄は長く知っていますから、僕はさっそく引き受けました。
   ギャンブル障害についての資料はほとんど以前のままでしたが、依存症全般の話にはいくつか付け加えました。〔物依存の分野では、医療機関で処方される薬物への依存も問題になっていること(特に精神科から処方される抗不安薬)。¬物依存の分野では、司法的な厳罰主義を徹底しても状況が改善しないことが明らかになっており、むしろ医学的な支援モデルが拡充されてきていること。L物依存の原因については、「性格の弱さ」から「痛みや孤独への自己対処の一環」ととらえかたが変わってきていること。せ劼匹發離押璽牋預犬砲弔い討蓮⇒病率が世界的に約10%と非常に高いこと。ゥ縫灰船鶲預絃匹悗亮匆馘な対応が日本は非常に遅れていること。などです。
   またギャンブル障害については、1つの論文のことを付け加えました。「病的ギャンブラーとギャンブル愛好家を峻別するものは何か :LINEアプリ・セルフスクリーニングテストを用いた病的ギャンブラーの臨床的特徴に関する研究」(田中紀子ほか、日本アルコール・薬物医学会雑誌第53巻第6号別冊、2018年12月)という論文なのですが、題名の通りギャンブル愛好家とギャンブル障害の人との差異は何なのかを多数の人の調査をもとに調べた内容です。結果だけを言うと、以下の4点が違いだったそうです。.ャンブルをするときには予算や時間の制限を決めない、決めても守れない。▲ャンブルに勝った時に「次のギャンブルに使おう」と考える。ギャンブルをしたことを誰かに隠す。ぅャンブルに負けたときにすぐに取り返したいと思う。この4点を持つ人たちをハイリスク群として見つければ、より予防的な介入がしやすくなるのは確実で、非常にすばらしい内容だと思いました。
   このように講演の内容については考えたのですが、いろんな講演が立て込んでいたこともあり、準備にかける時間も体力も限られていました。はたしてうまくいくのかが心配でした。
   当日会場に行ってみると、続々と人が集まってきます。80人くらいは来てくださっていた感じでした。会場の雰囲気をみた段階で、「おそらくギャンブル場の構想は消えるだろう」とわかりました。そんな静かな活気があったのです。
   ところが主催者挨拶は友人の鶴上さんではありませんでした。体調不良で来られなくなったそうです。鶴上さんも80代と高齢です。お会いするたびに体調が心配でしたが、この日はもっと心配になりました(あとでお聞きすると、それほど深刻なものではなかったそうで良かったです)。
   講演は参加者が熱心に聞いてくださったこともあり、いろいろプラスアルファの内容をお話して、時間が足りませんでした。質問も出ました。
.ャンブル場を減らせば、ギャンブルをする人が減るのか?(⇒これは深い質問ですが、ギャンブル場についてはおおむね30匏内からの利用者が多いというデータがあるそうです。また依存症対策の基本は対象へのアクセスの軽減です。アルコールについては販売所の密度減少が有効とされているそうです(資料1より))。
公的な金銭管理システムについて。成年後見制度のなかで支援信託の応用として地域の金融機関と連携する方法があるのでは?(⇒これは僕は知りませんでした。あとで司法書士の方に教えていただきました)。
5氾追賊,妊ャンブル依存の治療プログラムを始める予定はありますか?(⇒現時点では予算や人員のことなどがあり、まだ構想はありません。ただ以前にはギャンブル障害の自助グループをしていた時期があったそうです)。
づ合型リゾートなどの公営ギャンブルを国が進めているのはなぜなのでしょうか?経済界優先のため?(⇒おそらくそうだと思います)。
ゥャンブル場への入場券のようなものはできないか?(⇒国が決めればすぐにできると思います。これがあればギャンブル障害の人の入場禁止なども行えます。海外ではできているところもあると聞いています)。
   ギャンブルをはじめとする依存症の問題は、支援が難しいです。医療機関だけでの支援には限界があり、社会システムからのアプローチがとても重要になります。またただ単に社会的に締め付けるだけでは成功せず、禁酒法時代のアメリカで依存症者が増えてギャングがはびこったり、アルコール禁止のイスラム圏で深刻な依存症者が出ていることと同じようなことになってしまいます。柔軟な発想で、社会的な規制の在り方や依存症者支援の在り方を考えていく必要があるのです。
   依存症支援は古くて新しい精神科の分野です。僕は専門的に診療しているわけではありませんが、悩んでいる当事者や家族は地域にたくさんおられます。僕が関われるのは主に、子どものゲーム依存の支援や、成人の発達症の人の金銭管理の問題などに限られますが、依存症支援に少しでも参加していきたいと思います。


●資料1   インターネット上の資料「ギャンブル等依存の実態と予防」(独立行政法人国立病院機構 久里浜医療センター 樋口 進)。

●追記   後日、鶴上寛治さんからお手紙と資料をいただきました。資料は次世代への寛治さんからのメッセージ集と呼べるものです。歴史の教師だった寛治さんらしく、歴史と漢字の字源を土台として、現在の政治への怒りと、いたわりの気持ちの大事さを強調する内容になっています。寛治さんの社会批判は、軍国少年だった自身への反省から出たもので、だからこそ妥協のないものです。

 

写真1   講演会のチラシ。手作り感がある。

 

写真2   寛治さんの文集。

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野村克也さんの本を読む 2020年2月25日(火)

   新型コロナウィルスの大流行のために、本来予定していた施設見学や研修会の開催ができなくなってしまいました。そこで急に時間ができたので、美紗さんに協力してもらって、自宅で本を読む時間を取ることにしました。読んだのが、『なぜか結果を出す人の理由』(著:野村克也、集英社新書、2014年)。プロ野球の選手・監督・解説者として活躍した野村さんの本です。2月11日に亡くなられたので、いままで野村さんの本は読んだことがなかったのですが、1冊買ってみたのでした。
   野村さんについてはかなり以前から知っていました。兄が子どものときに熱烈なプロ野球ファンだったので、実家で兄がテレビの「プロ野球ニュース」を見るのを横で見ていました。兄はいったん故障した選手を復活させるスポーツドクターになりたいと言っていたぐらいなので、監督としての野村さんを大尊敬していました。他のチームで「戦力外」とされたり、ケガのために力を発揮できない選手たちを、次々と復活させていたからです。
   『なぜか結果を出す人の理由』を読むと、野村さんの選手復活術は偶然の産物ではないことがよくわかります。選手時代には、野村さんはどうすれば自分やチームが力を出せるのか、考えて工夫し続けてきました。監督時代には、どうすれば選手たちが力を発揮できるようになるのかを、やはり考え実践し続けてこられました。膨大な試行錯誤の末に、やっと「うまくいくための原則」のようなものが見えてくるのです。野球は変化し続けていく生き物なので、法則化は完全にはできないのですが、一般的な傾向はあるのですね。
   本から一部を引用してみます。
●自分の専門分野を究めようとして生きてきた人たちは、みなそれぞれに辿り着いた真理や原理原則を持っている(7ページ)。
●その人が他の人に比べて抜きん出た結果を出しているのは、その技術や方法論ということ以上に「信頼」や「周囲を巻き込む力」によるものだ(8ページ)。
●努力が結果に結び付いていない人がいたら、その原因を客観的に見抜いて的確な指摘をするのが、プロの指導者(18ページ)。
●質の高い努力、理にかなった努力、つまり、より正しい努力をしなければならない(22ページ)。
●問題は自分が追い込まれたときにどうするか。その対処能力が勝負を決める(30ページ)。
●その人の日ごろの行ないを周りの人たちはちゃんと見ている(32ページ)。
●野球選手として高い意識を持っているだけでなく、「人として、こうありたい」という高い理想を持っている。そこが並みの選手で終わるか一流選手になるかという最初の分かれ目だ。
●「この人のためにがんばろう」と周囲に思われる人間か、そう思われない人間か、それによって、その人自身の結果が変わってくる(36ページ)。
●ストレートの速さというのは努力でどうにかなるものではない。それは速く走ることと打球を遠くへ飛ばすことと並ぶ、天性の才能である。そこに多くの時間と労力を割いてしまうことほど、まちがった努力はない。ピッチャーはスピードよりもコントロールが大事だ(40ページ)。
●ときとして人には、変わらざるを得ないときが訪れることがある。故障もその一つだ。故障したことで故障前の自分と同じことができなくなったときには、もはら変えるしかない。変わるしかない。つまり、故障というのは自分を変える大きなチャンスでもあるのだ(45ページ)。
●努力が実るという意味では、野球の場合、バッティング以上に守備に大きく表れるものだ(71ページ)。
●「練習のための練習をしても上手くならない」という言葉がある。より実戦に近い練習とはどういうものか。より結果に直結する練習とはどういうものか。試合のための練習でなければ、どんなに練習時間を割いても上手くなれないという意味の言葉だ。それを考え、工夫し、見つけていく能力がある選手は、同じ努力でも、よりよい結果を得ることができる(74ページ)。
●野球とは状況判断のスポーツ(77ページ)。
●打線のつなぎ役になることだ。ゴロを打って走者を進める、右方向に打って走者を進める、バントを正確に決めて走者を進める。そういう役目をする選手がいると打線が機能し、チームの得点力は上がる(79ページ)。
●野球選手が取りつかれてしまう魅力が二つある。それはホームランとスピードボールである・・・とくに本来はそういうタイプではないはずの選手が、その魅力に取りつかれてしまうと厄介なことになる(86ページ)。
●プロフェッショナルが自分の身一つで生きていくためには、何といっても己を知ることが必要だ。今の自分には何が足りないのか、どこが弱いのか。どこを磨けばいいのか。それを常に正しく認識できるかどうかが勝負だ。そのためには、自分の課題について感じたり、考えたりする習慣を身に付けて、感知するセンス、感性を磨いていくしかない(92ページ)。
●単純なことをひたすら反復するのは苦痛が伴う。・・・努力には即効性がない。そこが努力を継続することを難しくしている最大の理由なのだ(105ページ)。
●素振りをしないと一日が終わらないというのは、私も同じだった。長いシーズン、長い現役生活のうちには「疲れた」「面倒だ」と感じる日もある。しかし、そういう自分との戦いに負けてしまうか、それを克服するか。その一日一日の積み重ねが勝負を分ける。「小事が大事」なのだ(110ページ)。
●同じような実力があっても、それ以上に伸びる選手と伸びない選手がいる。そういうとき、伸びない選手を見ていると、簡単に「もう限界だ」と言っている場合が多い。自分で自分の限界を決めてしまっている(117ページ)。
●自分が活かせる場所を自分で見つける(123ページ)。
●チャンスに強い人と弱い人、あるいはプレッシャーに強い人と弱い人。その差を考えてみると、やはり人間の本能的な面がかかわっているのではないか。人間の本能として、あるいは動物の本能として、弱い者ほど強く見せようとする。自信があって強い人というのは自分を強く見せようなどとはしない。いつでも淡々とやっている(156ページ)。
●経験が裏打ちされてこその理論。人から言葉で教えられたり、本を読んで頭に入れた知識というのは、たとえ正しい理論でも本物にはなり得ない。「知っている、頭でわかっている」を「できる」にしていくためには、まず「やってみる」「やってみせる」ということが必要だ。「わかっている」ことを「できる」にするためには努力が必要だ。反復練習が必要だ(188ページ)。
●野球が好きで、野球が見たくて、見ればまた考えたくて、考えればまた見たくなる。そして、何度でもこうやって野球について書いたり語ったりしたくなる(203ページ)。
●人間、何が幸せかと言って、好きなことをずっと好きなままやれて、それに携わり続けられることだと思う(203ページ)。
   どの言葉も含蓄がありますね。しかも本のなかでは具体的な選手のことや、野村さん自身の苦労のエピソードといっしょに深い言葉が語られているので、より説得力があります。はじめから抽象的な言葉ではなくて、実体験のなかで鍛えられた言葉なのです。理屈っぽくなくて、心にスッと入ってきます。
   この本は野村さんの遺言のようにも思えます。野球をする人と観る人の両方へのエールと感謝を含んでいます。人生という舞台を去っていく前のお別れの言葉のようにも読めるのです。
   僕は野村さんの本は野球論だろうと思っていましたので、汎用性があって哲学的なことに驚きました。職人の哲学です。こねくりまわした理論ではなくて、人間や世界を見渡すたしかな視点がそこにはあります。野球に限らず、何事も掘り下げると普遍性を持つのですね。野球を越えた野球の本として、野村さんのメッセージは今後も読まれると思います。たった1冊の本を通してに過ぎませんが、僕も触れることができて良かったです。

 

写真1   『なぜか結果を出す人の理由』(著:野村克也、集英社新書、2014年)。薄いが非常に含蓄のある本だ。

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2020年2月日録1

2/4(火)   児童発達支援センター「スイスイなかま」の定期健診に行った。健診といっても子どもの診察はごく短時間で、大部分は保護者の方とお話をしている。保護者はさまざまな思いを抱えているし、普段の通所の際には話せていない心配や不安があることもある。また療育を受けて子どもが成長していることに喜ばれていることもあれば、さらに踏み込んで療育について学んでみたいという方もある。健診をしてみて驚いたのは、保護者の方たちの療育への関心の高さで、将来的に療育の仕事に関わりたいという人までいた。発達症を持つ子どもたちへのケアや社会的リハビリテーションはこれからますます重要な分野になりそうだ。
2/5(水)   職場のメンタルヘルスの相談を受けた。うつ病や不安症の相談が多いことは以前から知られているが、発達症に関連した相談も多い。職場の上司や同僚には精神科になじみのない方が多く、保健師などが間に入って説明しないとトラブルになりやすい。精神科に通っている人がかなり多い現代では、精神疾患を持つ人との関わり方は、管理職が持つべき基本知識の1つになりそうだ。
2/6(木)   僕は数年前から慢性副鼻腔炎になった。それまでは全く関心がなかった病気だが、自分がなってみると大変苦しい病気だとわかった。アレルギー性鼻炎が基盤にあるため、点鼻薬で鼻炎を抑え続けないといけない。さらに風邪になる度に副鼻腔が炎症を起こすので、全身がきつくなり、多量の鼻水や痰がらみに悩まされる。耳鼻科には行きたくないのだが、結局苦しくて行かざるをえなくなる。耳鼻科の薬を飲むと改善するのだが、また風邪を引くと繰り返しだ。結局のところ、対症療法に終始していることが苦しみのもとなのだ。精神科にも治療が対症療法しかなくて、だらだらと治療を続けないといけない病気が多い。患者さんたちが「病気から解放されたい」と願う気持ちがよくわかる。
2/10(月)   精神科ではトラウマを負った人の治療をすることがときどきある。トラウマに由来する症状は多彩であり、またトラウマのために信頼関係を作ることが難しくなることから、治療はこみ入った経過を取ることが多い。初めから「トラウマを持った人だ」と認識して治療に入る場合は、こちらに気持ちの準備があるからまだいいのだが、全然意識していなかった人の背景にトラウマがある場合がある。受診している子どもの親にトラウマがある場合が典型的で、こちらはどうしても子どもに注目してしまうので見逃しやすい。しかし親に不安定さがあると治療がうまくいきにくく、経過が複雑になりやすい。トラウマへの特効薬はいまのところなく、こちらも揺れながらじっくり関わっていくしかないと思われる。難しい分野だが、だからこそ精神科にケアが期待されているのだろう。
2/11(火)   息子の響が動物好きなので、「宮崎市フェニックス自然動物園」に家族で出かけた。アジアゾウの「みどり」と写真を撮れたり、象に乗れたりするのが園の目玉だ。象のみどりは間近で見るとやはり巨大で、目には精神性を感じさせる穏やかさがある。フェニックス自然動物園は全体的には動物よりも遊具にややシフトしているところがあるが、散策しながら珍しい動物を見て回れるのはやはり楽しい。チンパンジーの展示スペースが新設されていたり、徐々に動物コーナーが充実してきている。

 

 


写真1   子どもたちが玄関掃除をしてくれた。

 

写真2  宮崎市フェニックス自然動物園にて。象に乗る体験をできた。

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